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  • Windy City、黒人音楽を韓国風にアレンジした“納豆汁レゲエ”

    Windy City、黒人音楽を韓国風にアレンジした“納豆汁レゲエ”

    Windy Cityの1期メンバーは、キム・バンジャン(ドラム、ボーカル)を中心に、キム・テグク(ベース、パーカッション、ボーカル)、ユン・ガプヨル(ギター、パーカッション、ボーカル)、チョ・ミョンイン(キーボード、パーカッション)、チョン・サングォン(パーカッション、ボーカル)の5人で構成された。ソウル水踰里(スユリ)の丘にあった地下練習室で誕生した、荒いけれど楽しくて生のままの感じがあふれ出す彼らのリズムは、気持ちいいエネルギーをたくさん噴き出す。2004年の結成後、9年間、SSAMZIE SOUND FESTIVAL、INCHON PENTAPORT ROCK FESTIVAL、JISAN VALLEY ROCK FESTIVALなど韓国の重要な音楽フェスや、日本・福岡のSUNSET LIVE、タイ・バンコクのFat FestivalとThe smiley fest、フランスのGolden Touch Sound System Party、ジャマイカのBob Marley Month Festival、アメリカのSouth By South WestやCanadian Music Weekなど、世界有数の様々なフェスティバルから招待を受け、韓国を代表するレゲエバンドになった。10日間の海外公演の日程を終えて帰国したWindy Cityのメンバーたちに会いに、ソウル貞陵(チョンヌン)にある彼らのアジトを訪れた。それぞれ違う人生を生きてきたが、純粋な魂の共感によってWindy Cityという共同体を作ったメンバーたちの音楽の旅程と新しく方向を掴んだ音楽的な志向点を聞くためのインタビューは、およそ4時間ほど続いた。インタビューと写真撮影は、外で焚き火をしてお茶を飲み、ラーメンを作って、栗まで焼いて食べながら、自由奔放に行われた。正直言ってインタビューをしているのか、一緒に遊んでいるのか分からなくなるほど、楽しくて特別な時間だった。今でも練炭を使う昔の家のままの彼らのアジトは、ちょうど70年代で時間が止まったような完璧なアナログ空間だった。独特なキム・バンジャン(キム番長)という名前には隠れたストーリーがある。彼は22歳の時、クレジットカードの代金を長期間延滞してブラックリストに載ったことがあった。それで、銀行の担当部署から毎日のように「早くお金を返しなさい」という督促の電話を掛けてくる人がいた。銀行のキム番長だった。「銀行の部署に番長がいるということがとても面白かったんです。当時、ハイテル(インターネット普及前の韓国国内用パソコン通信)のコミュニティでユーザー名を英語からハングルに変え始めた時だったんですけど、心が温かくなるその頃を思い出してユーザー名をキム番長にしました。コミュニティ内でも独特なユーザー名で有名でした(笑)」(キム・バンジャン)2枚目のフルアルバムをはじめ、韓国内外でリリースした多くのミニアルバムを通じてWindy Cityは独特で個性的なサウンドを出すレゲエバンドとして認められた。特に、2005年に発売した1枚目のアルバム「LOVE RECORD」は、第3回韓国大衆音楽賞で最優秀R&B/SOULアルバムと歌部門を受賞し、2冠に耀いた韓国レゲエアルバムの名盤だ。2008年、キム・バンジャンはWindy Cityのほかに、韓国最初のレゲエ/ダブバンドのI And I Djangdanを結成した。当時、フランス西部の地方都市ナントから韓国人の恋人であるマゴ(本名:パク・ジェヨン)に会いにきたレゲエ/ダブアーティストであり、エンジニアだったフランソワ(韓国名:ファラン)は、キム・バンジャンと会ってすぐに意気投合した。この2人に、メロディカの演奏と太鼓を叩くスマイル・リ、キーボードのチュ・ナヨン(後にチュンベクに交代)、ボーカルのチャングンが加わり、バンドが構成された。ダブ(dub)とは、ボーカルと楽器の音を先に録音して、それにディレイ(Delay:楽器の音を遅らせて再生する)やリバーブ(Reverb:残響)のようなエフェクトを使ってファンタスティックな音楽を演出する、まるで空気に音楽で絵を描くような作業だ。キム・バンジャンとファラン、そして、ファランの妻になったマゴの3人は、アルバムの作業に多くのエネルギーを注ぎ込んだ。2008年に少量だけ発売されたI And I Djangdanのミニアルバム「Culture Tree」は、これといった宣伝をしなかったにも関わらず、韓国にリズムマニアを生み出し始めた。同時に、外国のレゲエジャーナルに紹介され、アメリカの大型レーベルのEB RECORDSでワールドワイドに流通し、海外でより有名な韓国レゲエアルバムになった。また、ボブ・マーリーがいたレゲエの産室であるジャマイカの「12Tribe Of Israel」に紹介され、現地でニューサウンドという熱い賛辞を受けた。さらに、シカゴのダブラジオステーションで放送された後は、韓国のルーツ・ダブミュージックという好評を受け、ドイツのレゲエ&エレクトロ雑誌「riddim」と「DE:BUG」では、特別記事として扱われた。2010年のEPアルバム「WindyCity Meets Srirajah Rockers」での民話的で多彩なキャラクターが複雑に飾られたカバーイメージは、マゴが自ら丁寧に描き、この強烈でユニークなアルバムアートワークだけでも非凡で実験的なサウンドを予感させた。2009年、Windy Cityはメンバーたちの音楽的方向性に違いがあり、メンバー全員がバンドから離れてバンドは休止状態に入った。「以前のメンバーたちと音楽を一緒にできなくなったのは、僕が未熟でまだ足りなかったためです。僕は僕たちの音楽がより伝統的な根源のような方向に行きたいと主張しましたが、ユン・ガプヨルとチョン・サングォンはより洗練された都会的な雰囲気にしたいと言って、結局、分かれました」キム・バンジャンはメンバーたちの分裂後、レゲエの本場であるジャマイカに旅立ち、音楽的なインスピレーションを受けて帰ってきた。結論は、韓国の伝統とアイデンティティを探していく韓国伝統レゲエをすることだった。それで、新しいメンバーたちを募って6人組に生まれ変わった。以前のWindy Cityの音楽は、基本ソースをキム・バンジャンが担当していたが、今はメンバー全員が参加して多彩な結果物を生み出す方法へと変更した。円満なバンド運営のため、リーダーはラ・グクサンに決めた。ラ・グクサンの芸名は、ソウル梨泰院(イテウォン)の街で軍服を着て、箱に粗末な字で命名と書いて営業していた奇人ホームレスが名付けた。「ボブ・マーリーがベトナム人だと真剣に話していたので、違う次元の世界にいる人だということは分かっていましたが、音を音波の振動と表現して音楽はエネルギーだという話に引かれました。そのホームレスの方が僕に向かって、『カン・ソクヒョンという名前でこれまでどうやって生きてきたの?名前をラ・グクサンに変えなさい』と言いました。今回の海外公演でもシカゴに行った時、ホームレスの黒人と楽しく話を交わしました。僕は国籍を越えてホームレスたちと特別な何かがあるみたいです(笑)」ラ・ゴクサンは小学校6年生の時、街を歩いている途中、ヒップホップを聞いて衝撃を受けた。それで、お小遣いを5千ウォン(約445円)集めてアメリカのMotownを代表するR&BグループDEBARGEのカセットテープを買った。黒人音楽がどんなものなのかも分からないまま、雑誌を夢中になって読みながら音楽を聞いていた当時、禾谷洞(ファゴクドン)に住む友だちと雨装(ウジャン)山に登って歌とラップを真似して歌っていたが、伴奏がないので石を叩きながら音楽に心酔した。2004年、浦項(ポハン)の海兵隊で職業軍人として4年間服務した時も、彼は音楽ばかり聞いた。海が好きで除隊した後もしばらくの間、浦項に住んだが、ワーキングホリデーでオーストラリアに行き、そこで楽器商たちが売っていた太鼓を初めて手にした後、打楽器の音楽に関心を持った。そして、2009年にI And I Djangdanの公演を見て、キム・バンジャンの誘いでバンドに参加した。2009年から3人組ワールドミュージックバンドのスリスリマスリで活動している唯一の女性メンバーであるペク・ヨサは、5歳の頃からピアノを習った。父は今もバンドでドラムとコントラバスを演奏しており、祖母はチャング(韓国の打楽器)を打って、母はサムルノリ(韓国の4つの伝統楽器(ケンガリ・チン・チャング・プク)で演奏するパフォーマンス)をやっていたという。彼女は盆唐(ブンダン)書峴(ソヒョン)高校のバンド部に入ってドラムを始めた。楽譜がなくても自ら音楽を生み出せるよう、作曲を習いたくなって漢陽(ハニャン)大学の作曲学科に入学したが、学校で教えてくれる音楽は彼女が期待したものとは違った。2000年に休学し、音楽をする人々が多いインドのワーラーナシーに旅立った。「作曲をうまくするためには、すべての楽器を一度は習った方がいいと思って、そこでインドの打楽器タブラを2ヶ月程習って帰ってきました。でも、復学することが無意味に思えて、もう一度、休学してカナダに行ってピアノのレッスンをしながら現地で会った音楽仲間とバンドパンクラソルを作りました。1年後、帰国したら、親から学校を最後までちゃんと卒業しなさいと言われて、復学後、バンドセッションを始めました」(ペク・ヨサ)しかし、作曲家として食べていくことは難しいと思った。それで、映画のサウンドデザインを習うため、もう一度、カナダのバンクーバーに留学に行き、そして、帰ってからある会社に履歴書を出した。「会社にいたバンクーバーの学校の先輩から、韓国ではこの仕事に対する認識も支援もないのでお金を稼げないから、辞めたほうがいいと言われました。それで、幼稚園の英語先生として1年間ぐらい働きました。でも、体力的についていけなくなって先生を辞めて、韓国芸術総合学校の舞踊科に入りました。そこで、即興ダンスの授業を受けていた2008年にI And I Djangdanの演奏に惹かれて、スマイル・リ(ソン・ヨンウ)の入隊でできた空白を狙って、2009年にラ・グクサンと一緒にメンバーに入りました。すでに1枚目のアルバムのレコーディングが終わってマスタリングの作業中だったので、アルバムには参加しませんでした」(ペク・ヨサ)済州(チェジュ)で生まれたオ・ジンウ(ギター)は中学2年生の時、昼ご飯代を節約してVESTERというメーカーの黒色のエレキギターを買った。だが、両親が保守的だったので、ギターを放置しておくしかなかった。でも、中学校の卒業を控えてインターネットで知った済州島のバンド公演を見に行った後、独学でギターを学び始めた。そして、ある日、クラブのレッド・ツェッペリンに遊びに行き、5人組バンドのチョンギ(電気)スリッパでギターを演奏することになった。その後、済州商高の時にスクールバンドのMEGができて、彼は2つのバンド活動を平行しながら楽しい学生生活を送った。済州漢拏(ハルラ)大学の音楽学科に入学した彼は、バンドSun Flowerを結成し、ブルース、ファンク音楽の演奏を始めた。軍隊を海軍軍楽隊で服役した彼は、授業には興味がなくギターばかり弾いて、済州観光大学の音楽芸術学科に再入学した。この時、Sun Flowerのメンバーの一人がギターの講師として学校に来ていたので、いつも演習室でギターを弾いていた。また、彼はバンドED lamaの2枚目アルバムとヤン・ジョンウォンの2枚目のアルバムにセッションとして参加した。そして、そんなオ・ジンウもI And I Djangdanの音楽を気に入って聞いており、2011年、済州島の加時里(カシリ)文化センターで行われたWindy Cityの公演で共演したことがきっかけとなり、これまでやっていた全てのを辞めて上京し、正式メンバーになった。シン・ソバン(本名:シン・ジェウォン)は、高校を卒業した2000年から映画の特殊メイクの仕事をした。2009年には特殊メイクの専門会社を設立して独立し、「女子高怪談3-狐怪談」にも参加したが、「第7鉱区」の作業を進行している時、会社を辞めた。事業はうまくいっていたものの、交通事故に加えて彼女との別れ、家も経済的に大変になるなど、個人的に悪いことが一気に起こり、心身ともに疲れ果てたためだ。それで、貯めておいたお金でインドに3ヶ月間を予定して旅に出た。しかし、現地で問題が生じた。列車で寝て起きたらポケットの中に3枚の小銭だけを残し、パスポート、現金など全てを盗まれたのである。そうして、たどり着いたのがワーラーナシーだった。「もう失うものは何もないと思っていたのに、列車で全てを盗まれて虚しくなりました。まだ、失うものはたくさんあったのです。ガンジス川で死体を燃やす姿を見ながら『あの人々は死んで燃やされているのに、僕はまだ若くて元気じゃないか?何が怖いというのか?』と思い、現地の食堂で働きながら旅を続けました。北インドのマナリで2ヶ月間滞在しましたが、偶然、街でロシア人のヒッピーが吹くディジュリドゥ(オーストラリア大陸の先住民アボリジニの木製の金管楽器)の音が、耳だけではなく足のつま先からも伝わって聞こえてきました」(シン・ソバン)当時、インドを旅行していた多くの外国人が聞いていた曲がレゲエだった。帰国後、その音楽がもう一度、聞きたくなって、インターネットで検索して引大(ホンデ)前にあるバーのRedemptionを訪れた。「レゲエ音楽を本格的に聞いたら、インドで聞いたディジュリドゥという楽器の音を思い出し、自分でそれを作りました。でも、音を出すことがかなり難しくて、YouTubeを見ながら学び、漢江(ハンガン)にまで出かけて吹いたりもしました。そのうち、韓国にもレゲエ音楽をする人々がいるということを分かったんですが、それがWindy Cityでした」2010年の冬、彼はラ・グクサンがソウル貞陵(チョンヌン)でワダダサウンドシステムのパーティーが開かれるという話を聞いてそこに行った。そこで、「手があれば太鼓を叩くことができる」というキム・バンジャンの勧誘で、初めて太鼓を叩いた。お金を稼ぐことだけを考える厳しい人生が嫌いだった彼は、分離ではなく、一つになれる音楽であるレゲエが好きな人々に心が引かれ、2011年、バンドに合流した。一番最後に合流したノ・ソンテクは、ソウル玉水洞(オクスドン)ダルドンネ(山の中に無秩序に作られた、貧しい人たちが住む町)で人気のあるちびっ子ダンサーだった。「近状のおじさんたちがお酒を飲んでやって来て、500ウォン(約45円)を賞金として出して、従兄弟たちにディスコを踊らせて競争させました(笑) 近所にあった酒屋の赤いライトの下で流れてくる演歌から音楽的なインスピレーションを受けました。その時のサウンドは、今より温かいサウンドだったと思います」ハンサムだった彼の父親であるノ・グァンギルは、歌手ペク・ナンアにレッスンを受けて夜のナイトクラブで歌手活動をしたという。中学1年生の時、偶然、ラジオでアラン・パーソンズ・プロジェクトの「EYE IN THE SKY」を聞いてギターリフに心を奪われた。また、友だちの家でアンドレス・セゴビアのギターを耳にした瞬間、言葉に表現できない程の戦慄を感じた。東亜(ドンア)放送大学に入った彼の同期たちには、BIG MAMA、Brown Eyed Girlsのメンバーで有名になった歌手が多くいる。2010年、ノ・ソンテクは3人組アコースティック・フォーク・ロック・バンドボウルを結成し、コントラバスを担当した。その時、住んでいた城山(ソンサン)1洞にあるスーパーのひまわりマートを行き来しながら、ペク・ヨサと知り合いになり、2012年9月にバンドに合流した。2012年、Windy Cityは新しいスタートを知らせるデジタルシングル「チャンチ・レゲエ」を通じて韓国伝統の情趣をレゲエリズムに盛り込み始めた。韓国型レゲエ音楽の方向を提示するという意味で、自分たちの音楽をチョングッチャン(韓国の納豆汁)レゲエとアイデンティティを定めた彼らは、人と世界が一つとなり、楽しく生きる姿をチャンチ(パーティ)というイメージとして描き出した。続いてリリースしたミニアルバム「おもてなし」は、まるで巫女が祈りの儀式を始めるような新鮮な感じの曲だ。この曲はお馴染みのものと新しいものを合体して、強烈ではないがじわじわと響いてくるサウンドが魅力的だ。あえて色んな韓国楽器を使用しなくても、リズムやサムテギ(わらなどで編んだザル)、チャンチのような単語だけで韓国的なイメージを作り出す彼らの新たなサウンドには、興と恨という韓国的な情趣が振動する。Windy Cityは、お互いに傷つけて傷ついて、心配や気掛かりの中で生きている今の時代の人々に向けて、「一緒に会って楽しく遊ぼう」と歌っている。Windy City Profile1期(2004年):キム・バンジャン(ボーカル、ドラム)、キム・テグク(ベース、パーカッション、ボーカル)、ユン・ガプヨル(ギター、パーカッション、ボーカル)、チョ・ミョンイン(キーボード、パーカッション)、チョン・サングォン(パーカッション、ボーカル)2期(2012年):キム・バンジャン、ラ・グクサン(パーカッション、コーラス)、パク・ヨサ(ペク・ジョンヒョン:キーボード、メロディカ)、シン・ソバン(シン・ジェウォン:パーカッション、ディジュリドゥ、コーラス)、オ・ジンウ(ギター)、キム・テホン(ベース)3期(2012年):ノ・ソンテク(ベース、コントラバス)2005年 1stアルバム「LOVE RECORD」第3回韓国大衆音楽賞の最優秀R&B/SOULアルバム、歌部門で受賞2010年 ドキュメンタリー「レザボア・ドッグス」に1期メンバー出演所属レーベル:Bibim Production、Ruby Record

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  • Windy City キム・バンジャン、BIGBANGのG-DRAGONに言及「ジヨンさん、近いうちに会いましょう」

    Windy City キム・バンジャン、BIGBANGのG-DRAGONに言及「ジヨンさん、近いうちに会いましょう」

    Windy Cityのキム・バンジャンがG-DRAGONに言及した。キム・バンジャンは29日、自身のTwitterに「BIGBANGのG-DRAGONさんがインタビューで僕やWindy Cityと一緒に仕事をしてみたいと話していたと聞いたけど、僕もそうしたいと思っていた。以前テレビ局でG-DRAGONに会った時からそう思っていた。とても人気の高い人なのに、僕の名前も知っていて、さらに取り上げてくれるなんて、すごく嬉しい。ヤッター」と書き込んだ。またキム・バンジャンは31日、自身のTwitterに「時が来たし縁もあるし、いいないいな~一緒にやりましょう。ジヨンさん(G-DRAGONの本名)、そしてBIGBANGのみなさん。近いうちに会いましょう。キンセンカはプレゼント」という書き込みとともにキンセンカの写真を掲載した。これに先立ちG-DRAGONは某メディアとのインタビューで「機会があればキム・バンジャン(Windy City、Asoto Unionのメンバー)と一緒にコラボレーションしてみたい」と話していた。G-DRAGONからのラブコールにキム・バンジャンが応えたということで、二人のコラボレーションが実現するのか、ネットユーザーの注目が集まっている。Twitterを見たネットユーザーは「G-DRAGONとキム・バンジャンの出会いだなんてすごすぎる」「キム・バンジャンがBIGBANGのアルバムに参加するのかな?」「どんなスタイルなのか気になる」「楽しみ」「いい音楽が出来上がりそう」などのコメントを残した。

    TVレポート
  • 【アルバムレビュー】Windy City、楽しいレゲエのメロディーで聴く人を魅了する

    【アルバムレビュー】Windy City、楽しいレゲエのメロディーで聴く人を魅了する

    Windy Cityの新しいミニアルバム「Full Greeting」Windy Cityの音楽は自称チョングッチャン(韓国の納豆汁)レゲエだ。主に愛と平和を歌ってきたこのバンドは、2005年に結成され、今まで2枚のフルアルバム(1st「LOVE RECORD」、2nd「Country man's Vibration」)とミニアルバムなどを発表した。彼らはレゲエを基盤に、1980年代前後の韓国のグループサウンドから、アフリカ系アメリカ人たちが生み出したファンキーな音楽、そして前向きで楽しい中南米の音楽まで、様々なカラーの音楽を披露してきた。彼らの音楽は、内容の面で大きく恋の歌と社会的メッセージを含んだ歌に分けられる。後者の場合、故キム・ソンイル氏死亡事件(「No No No 」)、ジョージ・W・ブッシュのテロとの戦争(「我々の時代」)、平澤(ピョンテク)大秋里(デチュリ)米軍基地問題(「メディテーション・オン・アース」)、時代の弾圧と自由(「Freedom Blues」)などに対する、Windy Cityの考えを歌っている。このようなことも合わせて考えると、Windy Cityが最近リリースしたミニアルバム「Full Greeting」の曲は、馴染み深いものと新しいものが混ざっていると言える。「Full Greeting」にはどのような曲が盛り込まれたのか歌詞は依然として愛を歌っているが、今の韓国社会で厳しい暮らしをしている人々を慰める内容が中心で、サウンドは「興」と「恨」など、韓国ならではの色彩がたくさん盛り込まれていることが印象的だ。しかし、前のアルバムで見せたサウンドとの接点も簡単に探すことができる。ボーカルのキム・バンジャンのいわゆるソウルフル(Soulfull)な声と、魅力的なバイブレーションは変わっていない。「Full Greeting」には全部で6曲が収録された。1番目のトラック「Full Greeting」は、歌を通じて、同じ時代を生きている人々を、精を尽くしてもてなす心を表現した曲だ。「長い歳月を」「めぐりめぐって、どのような縁で僕達は出会ったのか」「めまぐるしい現世界のあちこちで傷つき傷つけ」「そのようにして生きてきたけれど」などの歌詞からは、仏教の世界観が垣間見れる。そのような点からみると「お会いできて嬉しい皆さん」「ここにいる皆さんの前で、歌ってもてなします」という部分は、仏教の「菩薩行」にあたるだろう。スローテンポのサウンドは、終始だるい印象を与えながらも、緊張感を失わない。ベースとギター、パーカッション、ハーモニカなどが織成すメロディーは単純だが心地よく、さり気ない中毒性がある。そしてサビのメロディーやボーカルのキム・バンジャンのバイブレーションを誇張する歌い方と合いの手などからは、韓国の民謡のようなノリが感じられる。黄海道(ファンへド)の伝統の祭りからインスピレーションを得たというこの曲は、村の祭りなどのあらゆる行事を始める前、お客さんや観客を集めるときに打ってつけだろう。4番目のトラックには、この曲のもう一つのバージョンが収録された。ギターのオ・ジヌが貞陵(チョンルン)の道を思い浮かべながら演奏したとして、名前は貞陵バージョンだ。この曲は、ボーカルの代わりにギターがメロディーをリードするが、静かなベースの音の向こうから聞こえるギター演奏はおぼろげで、かすかな郷愁を感じさせる。2番目のトラック「お祭りレゲエ」は、賑やかなお祭りの場で公演する風楽(宮廷などで奏でられる伝統的音楽)団に関する曲だ。「今夜ここにビビン風楽団がやって来た」「楽しいレゲエを伝えにやって来た」との歌詞から分かるように、この曲の歌詞はWindy Cityの自己反映の面が強い。また「毎日のようにやって来る風楽団ではない」「心配は後にして、この瞬間を生きて、楽しく」「子どもも大人も皆楽しく踊りながら」など、リピートや方言、感嘆詞などを上手く使った歌詞が面白い。「Full Greeting」のサウンドが遅く、軽いとしたら「お祭りレゲエ」のサウンドはスピードとビートがある。曲の全般にかけて「パン パバン パンパンパン パ」「パンパンパン パンパ パンパンパン パバン」というビートとメロディーが繰り返されるが、ギターとベース、キーボードなどが奏でる音が魅力的だ。しかし、なんといってもこの曲の見せ場は再生時間3分31秒の時点から1分あまり流れる間奏にある。前半を担っているオーストラリアの伝統楽器ディジュリドゥと打楽器中心の前衛的サウンドは、鈴の音と調和して原始的で呪術のような雰囲気を演出し、悲しいハーモニカ演奏とドラムの強い音が目立つ後半は、しっとりとした神秘的なメロディーが魅力的だ。5番目のトラックは「お祭りレゲエ」のダブ(dub、1970年代のレゲエに起源するジャマイカ音楽の一種)バージョンだ。Windy Cityはこれに先立ちリリースした2枚のフルアルバムでも「Greeting」と「All Time Rockers」の2曲を最後のトラックに盛り込んだことがあるが、「お祭りレゲエ」のダブバージョンもまた、これらと同じく金属音を強化し、エコー効果を多く入れた。違いがあるとすれば、原曲との雰囲気だろう。まるで風になびく桜の花びらのように、浮遊するかのようなサウンドが特徴の「お祭りレゲエ」のダブは、聴いているとまるで現世界と異世界が重なる境界に立っているような気がする。ダブに慣れていない人は、この曲をオリジナル曲と聞き比べながら、ダブというジャンルと親しむことができるだろう。3番目のトラック「宇宙モンキー」は李博士(イ・パクサ)のヒット曲「モンキーマジック」(2000年)をカバーした曲だ。「モンキーマジック」は最近で言うアストラルな歌詞と、李博士流のビートボックスとも言える楽しい合いの手で旋風的な人気を巻き起こしたことがある。李博士がフィーチャリングしたWindy Cityの「宇宙モンキー」は、李博士とキム・バンジャンの漫才で始まるが、「芸術を知ればお金が遠くなり、お金を知れば芸術が遠くなる。そうしてこそミュージシャンだ」という李博士のナレーションの後に続く上品でない合いの手が絶妙なバランスで楽しさを与える。「オルス、ジョタ、アッサ」「ワントゥ オルシグ」「ジョアジョアジョア ミチョミチョ アッサロビ」「クンチャラジャチャ クンチャチャ チャガチャガチャンチャ」など、李博士ならではの合いの手と調和するWindy Cityのバンドサウンドは、神妙でコミカルだ。雰囲気を盛り上げるギターの演奏と電子音が印象的な曲である。6番目のトラックは「宇宙モンキー」からボーカルを抜いたバージョンだ。同じサウンドのはずだが、違う曲のように思えるのは、李博士特有のノリが欠けているためだろう。「心配や悩みは後にして、一緒に楽しく遊ぼう」Windy Cityの今回のミニアルバムに収録された曲を、次のように整理してみるのはどうだろうか。ビビン風楽団の音楽で、人々を集め、お祭りを開き楽しく遊んでから、彼らをつれて宇宙への旅に出る話だ。実は筆者は「Full Greeting」を聞きながら、グリム兄弟が書いた「ハーメルンの笛吹きの男」を思い浮かべた。気だるい午後、流浪楽団が、ハーメルンの笛吹きの男にでもなったかのように、馴染み深く、どこか誘惑するかのようなメロディーで、人々をリードしリラックスさせる風景を。もちろん、ミニアルバムで表しているWindy Cityの夢は、最終的に笛吹きの男が向かった世界にあるとは思えない。「宇宙モンキー」の宇宙旅行は、逃避ではなく、単純な余興ということだ。その代わり、Windy Cityは、今この瞬間にもお互いに「傷つき傷つけ」「心配と悩み」の中で生きている同時代の人たちに次のように言いたかったと思う。それでも「我々は一緒に」「楽しく遊ぼう」と。このレビューを書いたソ・ソクウォン記者は、歌手の名前でハングルを覚え、少年の頃ピアノを弾いていましたが、息子の将来を心配した母の決断で戻れぬ橋を渡り、今は平凡なリスナーとして暮らしている音楽愛好家です。現在は映画関連の仕事をしており、一生涯の著作家を夢見ています。/編集者コメント

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