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「ファントム」 vs 「ファントム」今、モニターの前にいる貴方へ
人々は今日もコンピューターの電源を入れ、スマートフォンを手に持ち、インターネットに接続する。記事をクリックし、書き込みを残して、Twitterでつぶやく。WI-FIが繋がらない場所では不安を感じるほどサイバー世界に深く関わっている人々は、その世界に自分の痕跡を残す。そして、それは自分も知らない間に秘密に拡大される。誰も支配してはいないが、誰でも操ることができる世界。その世界で真実というオアシスを探しに出たキム・ウヒョン(パク・ギヨン:ソ・ジソブ)の旅は、そのまま人々の旅にもなる。今、モニターの前でこの記事を読んでいる貴方へのストーリーでもあるSBS「ファントム」の軌跡を、ユン・イナ、チョ・ジヨンテレビ評論家が振り返る。/編集者注since1999。「ファントム」のすべての物語は1999年に始まった。警察大学で将来を期待された学生だったパク・ギヨン(チェ・ダニエル)が警察内部の不正を知った後、大学をやめてハッカーになったのが1999年のことだった。そして、チョ・ヒョンミン(オム・ギジュン)の父親が弟であるチョ・ギョンシン(ミョン・ゲナム)に騙され、セガングループを譲り渡し、他殺同様である自殺を選んだのも1999年のことだった。また、その1999年はY2K問題(2000年問題)の恐怖が支配した世紀末でもある。その恐怖とはコンピューターが普及されなかった昔には存在しなかった種類のものである。これは実際に人々の暮らしの中で、どれほど多くの部分がデジタル化されてコンピューターで制御されているかを、人々に確信させる事件でもあった。それから、13年が経ち、「ファントム」は個人のコンピューターを覗くことが人の頭の中を覗くことと同じようなものである世界で、再び物語が始まる。たくさんの幽霊が飛び交うサイバー世界「ファントム」で初めての事件であり、最も重要な事件でもあるシン・ヒョジョン(イ・ソム)殺人事件。その事件をめぐる秘密や事件に近づく方法は、この13年間どれほど多くの変化があったのかを見せてくれる。情報が光の速度で通信することが可能な回線が整うと、コンピューターやスマートフォンのようなデジタル機器が生活の必需品になり、人間は目に見えない0と1の間に痕跡を残すしかない状況となった。そのため、この13年間という間、その変化に気づきそれを利用する準備を終えたチョ・ヒョンミンは、お金以上の権力を持つことができた。だから、チョ・ヒョンミンにファントム(Phantom、幽霊)というもう1つの名前を付けた「ファントム」の名づけのセンスは優れている。チョ・ヒョンミンは目には見えるが、実態は見えない存在である。キム・ウヒョン(パク・ギヨン:ソ・ジソブ)は彼が真犯人であることを分かっていても彼を捕らえることができない。証拠や痕跡をすべて操作することができる世界で、チョ・ヒョンミンは幻のような存在である。しかし、デジタル世界で幽霊はチョ・ヒョンミンだけじゃない。幽霊を名前だけあって実体はないものと定めるとしたら、人々あるいはネットユーザーという名前の中に身を隠して悪質な書き込みをする人々やサイバー世界に偽名で存在する人なら、誰でも幽霊になることができる。そして、ソンヨン高校の事件で分かるように、彼らの欲望は、必ずしもチョ・ヒョンミンでなくても操り、利用することができる。これが「ファントム」の本当の恐ろしさである。ハッキングをするためのウィルスはデジタル世界で満たそうとする個人の内密な欲望を通じて、それをあえて隠そうとする、より大きな欲望は媒体を通して広がっていった。サイバー世界で幽霊として残っていたいという人々の欲望が存在する限り、チョ・ヒョンミンは自分の目には見えない権力を維持することができる。そして、チョ・ヒョンミンが持つ神のような権力は、1度のクリック、1度のタッチでほぼすべてこなすことができる個人に縮小され委託される。悪質な書き込みをする人々に対して個人的な復讐を行った男や番号とIDの後ろに身を隠して友達を操った学生は、チョ・ヒョンミンと同じである。人々はどのような幽霊になるだろうかこの世界で違う意味で存在する幽霊はキム・ウヒョンだけである。ただ、キム・ウヒョンだけがチョ・ヒョンミンや彼のような幽霊たちと違う理由は、彼は何かを隠そうとする欲望ではなく、真実を明かそうとする欲望で生まれた存在であるからだ。キム・ウヒョンになる前、パク・ギヨンはハデスという名のハッカーだった。もちろん自分の実体を隠さなければならない幽霊のような存在であった。しかし、彼は自分が持つ情報やサイバー世界での能力を、真実を暴くことや現実により良い変化をもたらすために使った。それはキム・ウヒョンになった後も同じである。キム・ウヒョンが真実に向かって近づけば近づくほど、皮肉にも彼はさらに危険になる。もしかしたら、キム・ウヒョンの仮面を被っているパク・ギヨンは、自分ではなく仮面が犯した罪のために罰を受けることになるかもしれない。それでも、キム・ウヒョンになったパク・ギヨンはすべてを疑うしかない世の中であるなら、できる限りのところまで疑い、真実に近づこうとする。彼が「小説を書いてみよう」と言うのは、0と1の間に残された数多くの証拠たちを組み合わせてトゥルーストーリーに近づこうとする意味である。そのため、「ファントム」で絶対権力であるファントムに対抗するのと同じくらい重要なことは、現実を支配するサイバー世界でどのような幽霊になるのかを選択する問題である。劇中の人物の選択は「ファントム」の残りの6話を決めるだろうが、視聴者たちの選択は現実にも影響を及ぼすだろう。since2012。「ファントム」が再び始めた物語に耳を傾けなければならない理由がここにある。「ファントム」の世界は混乱していて、一寸先は闇である。ファントムは捕まえられそうで捕まえることができず、表面と裏面が異なってイメージと実体が違う世界で、真実の行方はよく分からない。犠牲者はいるが加害者はいなかったり、確実な証拠が間違った加害者を犯人だと指差したりする。ドラマの中で韓国社会を緊張させたDDOS(標的となるサーバーのサービスを不能にする攻撃)攻撃は、実はDDOSのふりをした攻撃であり、ナム・サンウォン(クォン・テウォン)の死は過労死のふりをした他殺であった。また、サイバー捜査1チームは盗聴の可能性を疑いながら盗聴されていることを知らないふりをして会話を続け、コンピューターを守るワクチンのふりをするセフテック(セキュリティ専門企業)のワクチンは、実はハッキングプログラムであった。さらに、捜査の中心にある人物は、キム・ウヒョン(ソ・ジソブ)のふりをするパク・ギヨン(チェ・ダニエル)である。裏切りの世界で最も強力な名前、幽霊つまり、「ファントム」の世界は裏切りの世界である。疑うことこそがこの世界で一番の道理であり、信頼はいつも裏切られる道徳心である。彼と私を区分しづらい世界で、そんなことを犯すわけがない人間なんていない。特殊捜査課の尊敬される課長であったキム・ソクチュン(チョン・ドンファ)も、セガングループの政治裏金事件の関連者であり、その息子であり根っからの警察官であるキム・ウヒョンも、ナム・サンウォンの殺害に関わっている。また、サイバー捜査1チームの証拠分析を担当したカン・ウンジン(ペク・スンヒョン)は、重要な証拠を持ち出して、容疑者ヨム・ジェヒ(チョン・ムンソン)の毒殺を遂行する。そして、このような裏切りのトップにはファントムチョ・ヒョンミン(オム・ギジュン)がいる。彼は父親(ジョン・インテク)を裏切った人々を、彼らの方法と同じ方法を用いて彼らへ裏切りのプレッシャーをかける。「自分以外、誰も信じるな」「利用し終わったら、容赦なく廃棄処分しなさい」と言った父親の言葉を忠実に再現するチョ・ヒョンミンは、資本や情報を掴んだ絶対権力者の姿で、すべての状況を統制し、人であろうが組織であろうが彼らの価値が失われたら容赦なく殺して捨てる。「ファントム」であらゆる違法や不正を行ってきた財閥チョ・ギョンシン(ミョン・ゲナム)よりチョ・ヒョンミンの方が怖いのは、財界や政界、法曹界、メディア業界を厳重に取り囲んだ不正金の企業連合からさらに一歩進み、個人の頭の中の振る舞いまで統制し掌握しようとする恐るべき権力まで手に入れようとするからである。何でもできるファントムの誘惑のほとんどは、断ることができない提案である。チョ・ヒョンミンは個人が最後まで失うことを恐れていることに対し、巧妙な手口を使って脅迫する。なぜチョ・ヒョンミンに協力するのかというパク・ギヨンの質問を受けたイム・チヒョン(イ・ギヨン)検事は次のように語る。「キム警部補はお金が一番怖いのですか?僕は、お金は怖くありません。本当に怖いのは他にあります」と。今のところ、個人の恐怖心までもてあそぶファントムには、弱点など存在しないように見える。人々に向けた恐ろしい警告そんなファントムに立ち向かうサイバー捜査1チームの力は弱小だ。そもそもファントムが誰なのかが分かるまで、かなりの時間がかかった。非常に苦労して掴んだ証拠を虚しく奪われたり、有力な容疑者が次々と死んでいく。そんな中、内部から犠牲者までだし、その悲しみが消える前にチョ・ヒョンミンに捕獲されたスパイが現れた。全く勝ち目がない戦いのように見える。しかし、警察庁のミチンソ・ソ(クレイジー牛)クォン・ヒョクジュ(クァク・ドウォン)とパク・ギヨンは諦めない。警察とハッカーという、相容れない関係の運命から団結する関係になるこの奇妙な組み合わせは、ドラマの中で小さな希望となる。彼らは自己利益の最大化という論理によって動くファントム側とは全く違う動力で動く。最初から彼らの動力は自分の利益とは関係がないため、クォン・ヒョクジュとパク・ギヨンを中心とした(スパイを除いた)サイバー捜査1チームのチームワークは小さいけれども強いものである。今の韓国社会の醜い部分がそのまま表現されている「ファントム」は、予測不可能な戦いの中で人々にどのようなカードが残されているか、あなたならファントムの断ることができない提案を拒否することができるかを問う。誰も信じることができない世の中で、それにも関わらず警察とハッカーが団結しないと、ますます強力になるファントムに対抗することができないという事実を力説する。捜査がまだ終わってない、或いは時間がいくら経っていても人々が忘れていないと強く発言しないと、世の中は結局、大小のファントムに占領されてしまうということを、ドラマは警告している。それは、ドラマが終わった後でも、モニターを消しても、残された人々に繰り返される質問と警告であるだろう。
「光と影」 vs 「光と影」ワンギュワールドに新しいヒーローが降臨
「光と影」VS「光と影」―チェ・ワンギュワールドに新しいヒーローが降臨。チェ・ワンギュは描こうとする世界が明確な脚本家である。SBSドラマ「オール・イン」、MBCドラマ「朱蒙(チュモン)」、SBSドラマ「マイダス」などを通して、あらゆる逆境と苦難を乗り越えて成功を握る男の一代記に固執してきた彼は、MBCドラマ「光と影」でも、やはりカン・ギテ(アン・ジェウク)という男性ヒーローを前面に出した。少ない掛け金をもって勝利をおさめる勝負師でありながら、ショービジネス界でいう朱蒙(高句麗初代王)であるカン・ギテは、チェ・ワンギュワールドの象徴であると同時に、心臓である。テレビ評論家のキム・ソニョン氏は、「カン・ギテの成功記はより一層強くなったチェ・ワンギュ式の男のファンタジー」とし、テレビ評論家のユン・イナ氏は「より多様化された欲望の報告書」として評価した。次は「光と影」を見る二つの視線である。/編集者注「光と影」の22話では、ドラマの中で「韓国最高のアクションスター」として登場するチェ・ソンウォン(イ・セチャン)が主演、監督した映画「復讐の血戦」が公開される。「男の義理と裏切り、復讐の中で芽生える悲恋の愛」という宣伝文句を使っているこの映画は、義理堅く、ケンカが得意な男性主人公の復讐劇である。そして、ジョンヘ(ナム・サンミ)が演じる歌手、クムオクは彼を愛する悲恋の女性であり涙の女王だ。要するに「復讐の血戦」は、このドラマから一歩進んでチェ・ワンギュワールドの中心を圧縮した劇であり、このドラマと同じ役割をしている。より一層、強固になったチェ・ワンギュワールドの男のファンタジー「男の義理と裏切り、復讐」のドラマ、そして男性主人公を信じて愛し、その男に献身する女性主人公とのラブストーリーは、チェ・ワンギュワールドの男のファンタジーを作り上げる主軸である。それは結局、主人公が復讐を通じて仕事と愛、両方とも成功を収める、男性版のシンデレラ物語りでもある。「光と影」は、現代劇でチェ・ワンギュ式の男のファンタジーが徐々に力を失っていたとき、新たに発掘した分野でもある。ドラマの背景である維新時代のショービジネス業界は、家父長的な権力と商業資本が結びついた空間として、男性的な野望と成功をドラマで表わすのに、これ以上ない舞台である。そしてカン・ギテ(アン・ジェウク)はその舞台の上で、まるで「復讐の血戦」のチェ・ソンウォンのように、正義感あふれるアクションヒーローと、二人の女性の愛を一身に受けるラブストーリーの主人公としての姿を自由自在に行き来しながら、最高の興行会社を成長させ、チェ・ワンギュワールドの最もエネルギーあふれるヒーローになる。ギテの成功記は、試練と逆境を乗り越えて、暮らしやすい街を作る指導者の話という維新政権の支配的な物語とさほど異ならない。問題は、この物語で政府の暴圧的な性格を隠蔽したように、ギテの成功記もやはり極めて男性中心な物語としての限界を貫くことができないところにある。ショービジネス業界を後ろで操作している権力者、劇場の主人、団長、そしてクラブを掌握しているチンピラまで、全部男性であるこのドラマは、まるで男だけの社会的関係で成り立った、ホモソーシャルの世界のように見える。ソン・ミジン(イ・フィヒャン)のようにカリスマ性のある人物も、後にはキム部長(キム・ビョンギ)という男性権力者の後援があって、チェヨン(ソン・ダムビ)とジョンヘをはじめとするショー・ガールも、やはり男性雇い主との契約関係を結んでいる。そして男性的な復讐ドラマもいっそう強化された。ギテはチェ・ワンギュワールドの歴代主人公の中でも最も戦わなければならない敵が多く、その勝負の方法も、物理的な戦いから経営戦略、政治の戦いをすべて含む全方位的な性質を持っている。彼がやり遂げなければならないミッションが増えることにより、男のファンタジーはよりいっそう強固になった。女性の欲望に「ダンスホールを許可する」このような男のファンタジーは、ギテと女性たちとの恋愛関係でさらに際立っている。ギテのことを同時に愛するジョンヘとチェヨンをそれぞれ独立した存在として見るよりは、ギテと戦わなければならない敵の世界と絡まって、劇的な葛藤をより濃厚にしている。例えばジョンヘは、ギテの復讐の対象であり政界で実勢を握っているチャン・チョルファン(チョン・グァンリョル)と、彼の補佐官であり、ギテの友人であるスヒョク(イ・ピルモ)から関心をもたれ、彼らとギテとの葛藤をさらに強める決定的な役割をする。チェヨンも、ギテとはショービジネス業界の敵でありライバル関係であるノ・サンテク(アン・ギルガン)が育ててきたトップスターで、ギテに心を奪われた後、さらに二人の関係が悪化する原因をもたらす。このようにギテは、対決しなければならない敵との恋愛構図では既に優位を占めている。また、彼女たちは二人とも素晴らしい女性で、彼の品格も同時に高まる効果を得ている。もちろん、このような強固な男のファンタジーが最後まで続くのかは、もう少し見守らなければならない。ドラマの中盤以後では、チェヨンとジョンヘのキャラクターに大きな変化が予告されているからだ。受動的で至純至高だったジョンヘは「復讐の血戦」を通じて印象的なデビューをし、輝くスターとしての座につきながら、ショーガールの成長記を本格的に見せている。そして、チェヨンもまた、契約の鎖から開放され、自分がやりたいことができる権力を求め始める。そして、このショーガールたちが時代と舞台の限界まで貫き、自ら欲望の主体となって、この作品の強固な男のファンタジーにどれほどの亀裂を生じさせるかが、中盤以後の重要な鑑賞ポイントとなるだろう。「光と影」というタイトルを見たら、このドラマが描いている時代を光と闇で鮮明に分けたい欲求が生じるが、現実はそんなに単純ではない。「卑怯なことは短く、権力は甘い」と話すチョ・ミョンクク(イ・ジョンウォン)みたいな人間も、実はそのように信じたいだけだ。派手な照明に囲まれた舞台も、照明が消えればただ空っぽの空間であるように、現実で光と闇は共存して、輝きの後ろには影がある。「光と影」が描いている60~70年代という時代はもっとそうである。映画とショーを通じて大衆文化に初めて接した人々は熱狂するが、その後ろには、維新反対する在野(公職に就かず民間で活動する人物や団体)の勢力を静まらせるためにも、芸能界と映画界をお偉い方の要求に合わせて操作しようとするチャン・チョルファンみたいな人間がいた時代だったからだ。光と影が明確に区別できない世界そして、その時代を生きている一人の男、カン・ギテ(アン・ジェウク)がいる。彼はスンヤンでいちばんのお金持ちの家の長男であり、遊び人だったが、家が没落して時代の影の下で生きることになった。チャン・チョルファンの腐った政治権力に屈服しないようにしたところ、彼の機嫌を損なうことになって、結局父親は死んで、家が没落することになる。この作品の前半は、確実に典型的な不幸を作りあげた部分がある。そして、その時まで特別な対策もなく、男の勇ましい気性だけですべてのことを解決しようとした。実際に運があったギテは、英雄物語になりやすいキャラクターだった。そんなわけで、1年という時間が過ぎた後、実力よりも運がいいヤツであるギテが、自分に置かれた障害物を乗り越えて、時代の闇や個人の苦痛を、軽く克服する容易な道を選ぶこともできた。しかし、このドラマは運命の分かれ道で、ギテだけではなく、このドラマに登場するすべての人物に各自の欲望を付与し、自分の意志で選択して行動するようにしたことで、もっと容易な道ではあるが、落とし穴があるかもしれない道を避けていく。「光と影」の人物は、善と悪に明確に分かれていない。その時代の権力のありのままを象徴するように見えるチャン・チョルファンを除いたら、すべての人物は自分の欲望によって光や影であることを選択し、時にはその選択を変えたりもする。チャ・スヒョクは自ら権力の影になることを選択したが、以後もずっと狂ってゆく世の中であることを分かっていながら、それに背いて生きていくということがどんなことなのか悩む。実際にお偉い方を後ろ盾にしたチャン・チョルファンの世界とカン・ギテが身を置いているショービジネスの世界は、特に違ったことはない。ノ・サンテクだけが政治権力と結託しておらず、カン・ギテもチャン・チョルファンと対立するキム部長やソン・ミジンの方に立っている。光と影が明確に区別されない世界があって、人物にも光と影が共存している。政治と密接な関連を結んでいるショービジネスの世界を描きながら、これほど複雑に描写することは、そんなに簡単なことではない。チェ・ワンギュは「光と影」を通じて、より多くの人物の多様な欲望を共存させる世界を探したと見られる。カン・ギテのワンマンショーで終わらないためにだから「光と影」は、光と闇を強いて分けずに、人物中心に物語を展開しながら、一般的な時代劇を越えて、過去にだけとどまらずに生きている作品になることができた。それに加えて「光と影」は、実際その時代の名前をそのまま使う独特の方式で、また違う現実性を手に入れることができた。その時代はハ・チュンファとキム・チュザ(韓国の昔の歌手)がショーで歌っていた時代であり、マドロス・パク(韓国の昔の俳優)が健在だった時代だった。多様な方式で結びついて作られた複雑な現実に、単純でない人物が生きているなら、彼らの未来を予測することは容易ではない。結局、ギテが仕事と愛の両方で成功を収めることになるが、そこまでに至る方法が簡単に予想できないという点が、「光と影」の最も大きい長所だ。時代劇である全50話のドラマが、中盤に差し掛かりながらも次回が気になるような推進力を持っているということは、希望的なことである。残った宿題は、物語の中心にいる4人の中で、カン・ギテの影に遮られて、自分を表わす機会が少なかった3人に、さらに明るい光を照らすことだ。彼らの影がカン・ギテの影と出会う時、話はより一層興味深いものとなるだろう。
「追跡者」 vs 「追跡者」 真実に向けられた直球
SBSドラマ「追跡者 THE CHASER」(以下「追跡者」)が初めて放送された当時は、娘を失って苦しむ父親の話がこんなにも洞察力と関係しているとは誰も思っていなかった。結局、娘は巨大な権力を持った加害者の前でメッタ切りにされ、家族も破壊された。そして、家族の中で唯一の生存者であるペク・ホンソク(ソン・ヒョンジュ)は、お金と権力の前では弱くなるしかないという人間の裏切りやドロ沼の中でもがいている。そのため、「追跡者」の中で描かれている権力や欲望を、ただのドラマの中のストーリーにすぎないと言うことができなくなった。目を逸らしたくなるストーリーが散在しているにもかかわらず、これまで以上に「追跡者」を視聴しなければならない理由を、キム・ソニョンTV評論家とチェ・ジウン記者が分析した。/編集者注追う者がいれば、追われる者もいるはずだ。SBS「追跡者」での追う者は、一見娘の死の真相を明かそうとするホンソクに見える。しかし、真実に迫るにつれ、より緊迫に追われる者はむしろホンソクの方である。予想より遥かに高く遠くに存在する権力は、彼の一挙手一投足を監視しながら彼を操ったり利用したりする。そのため、この作品において本物の追跡者は巨大な権力なのだ。要するに、「追跡者」は娘を殺害した真犯人を追う父親の追跡劇という表面的なプロットの下に、個人のプライベートにまで深く突っ込み、それを支配して統制する権力に対する鋭い洞察力が背後にあるドラマである。個人のプライベートな領域まで統制する権力権力が人々を支配する手段には、物理的な暴力からパノプティコン(全展望監視システムのこと)のような監視システムまで、隠密に、深層的に、そして全方位的に進化してきた。国家機関による民間人査察が行われ、財閥が商店街の商圏まで掌握する現在の韓国社会が、その進化の頂点を見せてくれる。そして、「追跡者」がまさにそんな現実を反映している。権力は社会の全分野にわたって存在し、ホンソクはその総体的な監視網から抜け出すことができない。そのため、彼は真実を暴露しようとするたびに、いつも巨大な権力に掌握された法やメディアによって制止される。そして、まるでCCTV(監視をするためのビデオカメラ、及び監視システム)のようにどこに行っても必ずぶつかるニュース速報や記者たちのカメラは、権力者の言葉だけを拾いホンソクの話を無力化させる。さらに恐ろしいのは、巨大な権力が個人を徹底的に支配するため、プライベートの領域まで突っ込んできてそれを統制して利用するという事実だ。そのため、ホンソクの家庭やプライベートな関係が完全に破壊されてしまう。娘スジョン(イ・ヘイン)と妻ミヨン(キム・ドヨン)が死んだ後も食卓の上にそのまま置いてある持ち主のない2つのスプーンや、彼女たちとの思い出が詰まった家や家具が競売にかけられるシーンは、権力によって廃墟と化するプライベートな領域の憂鬱な風景を端的に見せてくれる。最も信頼していた親友チャンミン(チェ・ジュンヨン)やファン班長(カン・シンイル)までもお金を選択しホンソクを裏切る。このように、権力とは人間の一番内密で脆いところに入り込んで、最小限の尊厳まで破壊し弱者たちの関係を断絶させる。そして、関係網がすべてなくなり自分だけ残ったという個体の状態にして人間を孤立させる。不条理の前で何ができるのかという疑問結局、権力が望むことは、弱者たちを無力化させ、何もできない状態にして順応させることである。ドラマの中で、そのモンスターの力を実感したミヨンがホンソクに「何もしないで、何も言わないことにしよう」と泣き込んだように。そして、この作品は権力の代弁者であるカン・ドンユン(キム・サンジュン)の口を借りて、そのような現実を何度も強調する。ドンユンはデモ隊に向かって「キャンドルを手に持ってデモしたって何が変わるのか」と聞き、「より強い権力にすべてのことを任せろ」と訴える。また、自分の実態に気づいて怒りを表すジウォン(コ・ジュニ)には「泣くこと以外、何ができるのか」と嘲笑う。しかし、権力の支配網に亀裂を入れることができるものも、さっきの「何ができるのか」ということに関する質問である。そして、その答えの1つが主要人物の中で一番遅く真実に気づき、無力に空回りするジウォンとジョンウ(リュ・スンス)の会話の中にある。「これから何をすればいいか」を繰り返して聞くジウォンに、ジョンウは「とりあえず、人間になろう」と話す。「人間はみんな同じだ」というドンユンの言葉どおり、権力は人間の尊厳を破壊してお互いを信じ合えなくする。だが、彼らの計画通りにならないようにするどんでん返しへの希望は人間にある。たとえば、ホンソクが追跡網から抜け出すことができたのは、信頼していた人々から裏切られて絶望しながらも人間に対する憐憫を失わず、チョ刑事(パク・ヒョジュ)のような人間味溢れる仲間に助けられたからである。ドンユンが自分の計画を揺さぶるホンソクの前で「なぜ諦めないのか」と理性を失ったように、権力を居心地悪くするのは結局数字では換算できない人間的な価値である。そのため、「追跡者」が人々の現実を反映するとしたら、視聴者もこれから怒りや涙を流す以外、何ができるのかに関して諦めず問いながら答えを探す必要がある。/記事:キム・ソニョンソ・ジス(キム・ソンリョン)は恋愛をするとき、なぜカン・ドンユンにレフ・トルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」をプレゼントしたのだろうか。その本は、土地を欲張る農夫パホームが、一日中走った後でスタート地点に戻ってこれたら、その分の面積を自分の土地にすることができる国があるという噂を聞き、その国に行ってまったく休まず走り続けた後、スタート地点に戻ったものの、結局その場で息を引き取るというストーリーだ。しかし、人間の限りない欲望やその儚さを描いたこの作品に対して、カン・ドンユンは「なぜ戻ってこなければならないのか?」と聞く。貧しい理容師の息子として生まれ、欠乏と屈服の中で育ち、次期大統領と言われている現在も、依然として義父であるソ会長(パク・グンヒョン)から小作人扱いされる彼は、欲望に限界線を引くルールそのものを否定する。満たすことができないから止めることができないし、そのために限りなく走り続けるしかない自分の欲望についてカン・ドンユンは「大きな馬車が長い道のりを走ったら、そのとき馬車にひかれて死ぬ虫もいるはず」と正当化する。休まず走る欲望の電車そして、貧しい刑事であるホンソクの娘スジョンは、カン・ドンユンの大統領選挙の準備過程において身代わりの犠牲者となって死ぬ。権力者の喧嘩によりわけも分からず娘を失い、妻まで失ったホンソクは、娘の死に最終命令を下したカン・ドンユンを追い始める。しかし、非情な権力に立ち向かって戦う父情を描くこのドラマは、痛快な復讐の面白さの代わりに凄まじい欲望の対立を描くことで原動力を得る。青瓦台(チョンワデ:大統領官邸)は通り過ぎる停留所に過ぎなく、最終的には一生誰にも頭を下げない、すなわち終身集権が可能な財閥総帥の座を夢見るカン・ドンユンと、息子ヨンウク(チョン・ノミン)に会社を譲り渡そうとするソ会長は、まるで並走して走る2台の電車のようにぴんと張っている緊張した関係を維持する。特に、「政治とは自分が言いたいことを語るのではなく、相手が聞きたいことを語ること」という言葉のように、他人の欲望を読み取るカン・ドンユンの能力は、ホンソクの親友である医師チャンミンや同僚ファン班長の弱点を突き刺すと同時に一番誘惑的な対価を提示することにおいて、卓越さを発揮する。そんなカン・ドンユンが支持率65%を越える大統領選挙の有力候補であることは、「追跡者」でもっとも興味深い点でもある。カン・ドンユンは労働者たちの集会現場に訪れ、「世の中を変えるためにはキャンドルではなく、権力が必要だ」と支持を訴え、自分が持つ株を全額寄付すると約束する。また、ホームレスたちに無料の食事提供の代わりに職業教育機関を充実させて自分たちが流した汗の分、食べることができる世界を作ると唱える。彼が掲げるスローガン強い韓国は日本人記者に独島(竹島)の主権問題を強力にアピールできるという面からも魅力的で、このようなカン・ドンユンの正義は庶民であり弱者であるホンソクをも感動させる。しかし、一度の投票だけで労働者の暮らしが変わったりはしない。彼の株は最初から票を獲得するための機会費用だったし、福利厚生の削減を行う前に必要であるのは社会的な安全網の充実である。そして、カン・ドンユンは右腕であるシン・ヘラ(チャン・シンヨン)を検察の捜査の目から抜け出させるため、司法改革案の中で最高検察庁の中央捜査部の廃止条項を削除することを懐柔策として提示するように、嘘で作られた希望の裏に隠した不当な取引の数々は、あきれるほど虚しく醜いものである。欲望は何を生み出すのかそのため、真実と家族の間で悩むソ・ジウォンに「1つだけにしよう。財閥の娘になるか、社会部の記者になるか」と責めるチェ・ジョンウ検事のその言葉どおり、「追跡者」は欲望と志向する価値を同時に持って生きていくことが、どれほど難しいことであるかを繰り返して問いかけるドラマでもある。親友の娘を殺し受け取ったお金で自分の娘と安楽な家で暮らしながら家政婦にボーナスまで支給するチャンミンのように、自分を脅かさない誰かにお金を施しながら満足感を感じるのは簡単なことである。しかし、選択の瞬間において欲望は自分が比較的に善良で正義感を持つ人間だと信じていた人々を激しく揺さぶり、最終的には殺人を意味ある犠牲と歪曲するカン・ドンユンのように、自分の利益のためならば手段を選ばないモンスターを生み出す。だが、「人にはどれほどの土地がいるか」のパホームが最後の瞬間に手にしたものは、自分が死んだ後に骨を埋めることができるだけのごく小さな土地だけだった。人々は誰の欲望で動くのか。欲望が燃え尽きた後、その場で何を得ることができるか。これらの質問は「追跡者」が投げている直球である。/記事:チェ・ジウン
「製パン王キム・タック」 vs 「製パン王キム・タック」王の自叙伝
連日最高視聴率を更新しているKBS「製パン王キム・タック」は、最近数多くの作品で描かれている開発と成長の論理を描く作品だ。そして、韓国で制作された多くの時代劇とストーリーラインが似ている作品でもある。善悪がはっきり分かれたキャラクター、途中の一話くらい見逃しても理解できるストーリー、目を離すことができないほど固め打ちする早い展開は、これまで作られた多くの韓国ドラマを思い浮かばせる要因である。多くの時代劇と同じく、第9話の放送を控えて「製パン王キム・タック」も、ドラマの序盤、親世代を巡って繰り広げられた事件が息子世代に受け継がれた。タック(ユン・シユン)はこれまで母親探しと自分のアイデンティティを見つけるために自分の手を血に染めてきたが、これから彼の手は小麦粉を扱うことになる。タックの天才的なパン作りと共に、恋の三角関係が新たに描かれる「製パン王キム・タック」をカン・ミョンソク記者とテレビ評論家のユン・イナ評論家が分析した。/編集者注KBS「製パン王キム・タック」は、MBC「朱蒙(チュモン)」の韓国現代史バージョンのようだ。クムワ(金蛙/チョン・グァンリョル)は、巨星(コソン)グループの会長であるク・イルチュン(チョン・グァンリョル)に、強欲な本妻と彼の息子は、ソ・インスク(チョン・インファ)とク・マジュン(チュウォン)になった。ユファ(柳花/オ・ヨンス)とチュモン(朱蒙/ソン・イルグク)のように、キム・ミスン(チョン・ミソン)とキム・タック(ユン・シユン)は、ソ・インスクの悪行を避けて生き残る。そして、チュモンの弓の代わりに、タックは製パンに天才的な才能を見せ、数多くの試練を乗り越えながら王として成長していく。「製パン王キム・タック」は、時代劇の形に「朱蒙」のように絶え間ない試練と課題を与えて主人公を早く成長させるミッション型のエンジンを取り付け、時代劇独特の娯楽性を強化した。消された時代的背景、鮮明に蘇るイデオロギーこれは「製パン王キム・タック」が時代を説明する具体的な背景を省略した理由だ。正確な時代を教える背景や事件は省略して、ソ・ヨンチュンのコメディや旧型のポケットベルのようなレトロなイメージを強調する。時代に対する具体的な説明をしない代わりに、まるで卓球のラリーのような早い展開と、タッ(高い)、ク(救える)という名前の意味通りに高い地位に上っていくタックのダイナミックな人生により、視聴者をいっそう感情移入させる。しかし、時代的な背景が省略されればされるほど、その時代を支配したイデオロギーはより明確に表れる。「製パン王キム・タック」で、男たちは跡を継ぐためなら不倫もいとわないが、女たちは結婚以外のものはまったく許されない。男は息子に譲り渡す基盤を作り、女は息子を教育する義務を持つ。タックと本当はハン室長(チョン・ソンモ)の息子であるマジュンの差も、血のつながりと母親にある。きっと、タックはイルジュンのように、人々をお腹いっぱいにさせる王になるはずだ。家父長制の男は家族を養わなくてはならないし、彼らは会社においても国においても、人々を養う家長の役割を果たす存在だ。そして、開発時代に人々が成長の過程より成長自体に歓声を上げたように、「製パン王キム・タック」はタックが事件を解決しながら急成長していくストーリーに集中する。制作陣の意図が何であろうとも、「製パン王キム・タック」は開発時代のイデオロギーを形と内容といった両面で蘇らせている。もちろん、タックはこれから彼の時代を変えていくだろう。巨星グループと違って彼が製パン技術を学ぶパルポン先生の製パン店は、女性であるヤン・ミスン(イ・ヨンア)もパンを作る。また、街中の悪者からイルジュンまで、皆が暴力に慣れている時代に、タックはパンを作りながら暴力を捨てる。ストーリーが展開するにつれ、暴力と家父長制といった前時代的な特徴が、男女平等と非暴力である現代的なものに変わるが、この変化は、犠牲に近いタックの許しによるものである。母親からいい人になりなさいと教わった彼は、インスクの侮辱に耐えて、母親を拉致しようとしたハン室長をあまり恨むことなく、自分の母親を失踪させたジング(パク・ソンウン)までも許す。被害者の許しが世の中をより温かくするのは理想的だ。ジングを許して、暗闇の中で涙を流しながらパンを食べるユン・シユンの演技、静寂と暗闇が支配する雰囲気の中でタックの表情を映し出す演出は、視聴者の感情を沸き立たせる。許しの後ろに隠された深い痛みは消されたしかし「製パン王キム・タック」は、ハン室長から脅かされてイルジュンのそばから離れた後、そして、12年後という字幕で、長い間、親もおらず迷い続けてきたはずのタックの暗い10代を飛ばした。ただ、12年後、コミカルなアクションを見せる若者だけを見せてくれる。家庭内暴力の被害者であるユギョン(ユジン)は、マジュンに「世の中には悪者からお金を奪われたり少し殴られるより、もっときついことをされながら暮らす人もいる」と話すが、このドラマで家庭内暴力は彼女の父親が枕を振り回す程度に留められている。「製パン王キム・タック」は「最後はいい人が勝つ」と、被害者の許しを強調するが、被害者が苦しんだはずの痛みからは目を逸らす。「製パン王キム・タック」は開発時代に被害者や負け犬と思われた人間の成功談を描いているが、そのメッセージはかえって加害者と勝者を擁護する内容に近い。被害者にいい人になれと言ったり、加害者を許しなさいと言うのは、その時代の加害者に罪を問わず、被害者には許しを求めて仲直りさせようとするように見えたりもする。そのため、「製パン王キム・タック」は時代的な時代劇だ。韓国の時代劇が商業的な生命力を延長できる方法を見せると同時に、韓国の開発時代を擁護できる論理を提供する。そして、そのすべての不都合なメッセージにも関わらず、次回が気になって見てしまうくらい娯楽的な面も持っている。これは、少し恐ろしいことだ。/記事:カン・ミョンソク「製パン王キム・タック」は成功した人間の自叙伝である。本の表紙や帯紙にはこのような文章を書き込めばいいだろう。「キム・タックはどのように試練と苦痛を乗り越えて、製パン王になっただろうか?」このドラマが単なる英雄談であると話しているわけではない。視点がそうだという話だ。「製パン王キム・タック」は、2010年という時代の視線で1970年くらいの時代を見つめながら、成功した善良な人間キム・タックの視線で過去に繰り広げられた事件を振り返っている。ク・イルジュン(チョン・グァンリョル)の家じゅうの者を組み分けが上手な人々と表現した幼いジャリム(キム・ソヒョン)の言葉を借りるとしたら、「製パン王キム・タック」はキム・タック(ユン・シユン)の側になり、キム・タックの目で物事を見るドラマである。これ以上は効力が発揮されにくい、いい人の公式このような視線は、男児優先思想や不倫、痴情、暴力、出生の秘密が混在するストーリーが素早く展開したドラマの序盤である子役の部分で目立った。「製パン王キム・タック」の1970年代は、占い師の言葉や迷信が有効に作用し、明日の事件を予感で感じ取ることができる時代だ。ソ・インスク(チョン・インファ)が占い師から聞いた「夫は他の女から息子を産ませ、あなたは夫の息子を産むことができない」という言葉は、このドラマの中である種の啓示のように作用する。他の男の種なら息子を産むことができるという期待は、夫が不倫するとき、彼女にも浮気をさせ、そんな2人により、ひとつの運命を分け合うことになるタック(ユン・シユン)とマジュン(ジュウォン)が生まれる。しかし、この誕生ストーリーを描く時、「製パン王キム・タック」は徹底にキム・タックの味方になる。不倫という事実は同じなのに、イルジュンとミスン(チョン・ミソン)の関係とインスクとスンジェ(チョン・ソンモ)の関係を見つめる視線はまったく違う。中でも、ミスンは最初からただの家政婦でなかったし、比較的裕福な家庭で育ったことをあえて説明して、タックが偶然できた不良品ではないことを証明しようとすることで、このひいきが鮮明に表れる。そのため、「製パン王キム・タック」の中に描かれている出生の秘密は、マッチャンドラマ(複雑な人間関係の中で、無理やりなストーリー展開が特徴であるドラマ)のキーワードではない。正確に言うと、秘密でもない。なぜなら、「製パン王キム・タック」が描くその時代は、シバジ(代理母)との不倫は多くはないかもしれないが、少なくとも恥ずかしいことではないと思われたからだ。だから、ミスン(チョン・ミスン)は「会長の息子だから」という理由で、幼いタック(オ・ジェム)をつれてイルジュンの家に入ることができた。「製パン王キム・タック」はイルジュンの唯一で特別な息子であるタックにすべてを与えた。成長して変化する前に、苦難や逆境が続いてもそのすべてを乗り越えられる力が、すでに彼に与えられているのだ。もちろん、主人公の名前がタイトルであるドラマだから、主人公を中心にストーリーが展開されるのは当たり前のことだし、何を言っても信じてしまうほど魅力的なタックのキャラクターが、このドラマの暗い部分を中和させてくれたのも事実だ。しかし、成人になった後、このような視線は両刃の剣として作用する。出生の秘密とタックの運命を巡って事件が絶えず繰り広げられた子役の時とは違って、タックが製パン王になっていく過程を描く7話以降は、いきなりストーリーの変化が乏しくなる恐れがある。大人になったタックとマジュンには親の愛以外、様々なエピソードが必要になり、より多くの人物がストーリーに入り込んだ。そのため、単にいい人が勝つという公式とタックがすでに持っている姿だけで、すべての問題を解決しようとしてはいけないだろう。運命に順応するか、抵抗するか「作縁必逢(縁があれば必ず逢える)」。母親を探しに行く幼いタックを見送りながら、パルポン先生(チャン・ハンソン)がつぶやくこの四字熟語の中には、「製パン王キム・タック」の運命論が盛り込まれている。よりによって、パルポン先生のパン屋でタックとマジュンが再会したのも、愛憎が入り混じったパンで2人が競い合わなくてならないのも、同じ人を愛するようになるのも、すべてが運命のしわざだ。しかし、ドラマを作るためには、運命に順応する態度でなく、抵抗する態度が必要だ。運命どおりになるという事実は最初から皆が知っているが、だからと言って、運命が手を上げる側に立って成功と勝利を話すのはつまらないからだ。成功した製パン王キム・タックの過去のストーリーを見せるのか、それともキム・タックが成長しながら徐々に成功していく過程を見せてくれるのか。この2つの間にある微妙な差に「製パン王キム・タック」が、読み終わったとき空しくなる成功ストーリーの自叙伝になるか、それともキム・タックという魅力的な人物の成長ストーリーになるかがかかっている。/記事:ユン・イナ
「ファッションキング」 vs 「ファッションキング」 まだまだぬるい青春の高炉
SBS「ファッションキング」からSBS「バリでの出来事」の跡を探すのは難しくない。「ファッションキング」はイ・ソンミ、キム・ギホによる脚本という生い立ちばかりか、主人公の四角関係、資本が作り出す社会的な身分の違いによる対立など「バリでの出来事」と似たような方法で話を展開させている。だが「バリでの出来事」では登場人物たちがお互いを激しく求め、自らの欠乏を補おうと熱く欲していた。しかし「ファッションキング」のヨンゴル(ユ・アイン)とガヨン(シン・セギョン)、ジェヒョク(イ・ジェフン)とアンナ(少女時代 ユリ)は、ドラマの半ばが過ぎた今でも何のためにあれほど右往左往しているのか曖昧だ。今週の「テレビvsテレビ」ではイ・カオン記者が「ファッションキング」に足りない2%は何かについて、テレビ評論家のキム・ソンヨン氏はそれでも「ファッションキング」を支持すべき理由について分析した。/編集者注ファッションは主に1990年代のトレンディドラマ全盛期に主人公の成功や夢の舞台であった。その代表作と言えるMBC「星は私の胸に」、SBS「トマト」などはファッションという舞台を常にシンデレラファンタジーのように華麗な成功で完成させていた。しかし「ファッションキング」でのファッションはもはや夢の舞台とは言えず果てしない競争とサバイバルの舞台となっている。ドラマの中の世界は、理想や情熱だけでは逆転など不可能な階級社会の現実を強く反映しており、その中で登場人物たちは以前より熾烈な生き残りに苦悩している。ニセ物とブランドの曖昧な境界どんなラベルが付けられるかによってレベルが分かれるファッションのように、作品の登場人物たちも徹底した上下階級システムの中に組み込まれている。ヨンゴルやガヨンが身をおいている東大門(トンデムン)はファッション界で言えばニセ物に当たる世界で、その階級システムでは最下層に位置する。彼らはファッションに関する天才的な才能を持っているにも関わらず、それ以外の何も持っていないがために、その日の稼ぎでその日を暮らすその日暮らしを余儀なくされている。そして彼らの上には韓国屈指の衣料品メーカー「ジェイファッション」が象徴するハイクオリティファッションの世界がある。親としての彼らの強力な力は「ヨンヨンアパレル」に対する下請け契約や資金提供の指し止めなどという形で現れる。第9話でヨンゴルとガヨンのエコノミークラスとジェヒョクのファーストクラスを対比させた飛行機のシーンは、徹底的に隔てられた階級の構図から一目瞭然であった。ここで興味深いのは「ファッションキング」がそうした階級構図の頑丈さを見せてくれると同時に、それがいかに矛盾しているかを指摘しているという事である。この作品ではよくニセ物とブランド品の境界が曖昧に表現される。たとえばニセ物を専門的に製造していたヨンゴルは世界的なニューヨークのデザイナーであるマイケル・ジェイの作品を手直しした服を売っていたのだが、逆にそれがオリジナルデザイナーの目に止まり、彼とのコラボを実現する。かと思えば、自分の生まれそのものをまるでブランド品でもあるかのようにニセ物人生のヨンゴルを見下していたジェヒョクだが、実際に「ジェイファッション」は海外のブランド品会社と業務提携という形で商品を韓国へ導入し、その過程でその商品を一流ブランドに仕立てるもうひとつのニセ物でしかない。特にジェヒョクがガヨンのデザインをアンナの名前で市場に出し、その服のラベルをガヨンの名前に変えてプレゼントする場面ではニセ物と本物の立場は完全に逆転する。サバイバルストーリーへと代わる恋愛物階級システムの頑丈さを強調すると同時に、その境界をかき乱す緊張感の中で登場人物たちのサバイバルはより熾烈に、時には卑劣な姿さえ見せている。ヨンゴルはジェヒョクと下請け契約を結んだ状態で同じ製品を他の取引先に納入する2重契約も辞さず、ジェヒョクはヨンゴルとガヨンをデザイン盗用の疑いで起訴すると脅迫してその危機を脱する。こうした厳しいサバイバル戦略は、この作品の恋愛関係にもそのまま反映され、4人の男女はお互いを交互に利用し、裏切り、試し、また手を組むなど複雑な関係を呈している。例えば、ヨンゴルにとってのガヨンは憐憫の対象であると同時に「金になる職員」であるし、アンナに対する興味の裏には理性としての好感やブランド世界に対する憧れと共に、彼女がジェヒョクの女であるという事実が働いている。ガヨンに対するジェヒョクの感情にも愛、彼女の才能を利用して後継者として認められたいという欲望、そしてヨンゴルに対する嫉妬心や復讐心が混在している。ヨンゴルやジェヒョクがそれぞれアンナやガヨンにキスするシーンなどは意図的にお互いへ見せつけようとするかのように相手の空間へ踏み込んで行われている。お互いの一番大切な物を奪ってでも相手に勝ち、最後の勝利者になりたいという欲望は、恋でさえ生き残りを賭けたかのようにさせる。こうした「ファッションキング」の強化されたサバイバルな物語は、脚本家たちの前作「バリでの出来事」で階級社会の現実の矛盾を指摘した頃よりも深刻化した今の現状を描いている。もちろん物語の完成度という面では物足りない点が多い。だが、「ファッションキング」が描いている若者の歪んだ憂鬱な姿に、今の時代の若者の姿が一部反映されているのは確かである。/記事:キム・ソンヨン「ファッションキング」を見て8年前と同じ製作スタッフによって作られたSBS「バリでの出来事」を思い出してしまうのはこれが明らかなセルフリメイクであるためだ。お偉い父親のおかげで富と権力に恵まれた男(ジェヒョク)、実力はあるが貧しい出身の男(ヨンゴル)、財閥の後継者と結婚を約束した女(アンナ)、財閥の後継者が心から愛する貧しい女(ガヨン)という登場人物はもちろんだが、愛と階級への飽くなき欲望にがんじがらめになったこの恋愛ドラマは「バリでの出来事」の2012年版のようである。しかし、ドラマの登場人物はもちろんのことだが、視聴者までも熱い欲望という高炉の中に引きずり込み、興奮させては痛みを感じさせていた「バリでの出来事」と違い、「ファッションキング」はぬるく冷めてしまった、もしくはまともに沸騰したこともなかったようなストーリーで、見るものに感情移入する隙間さえ与えてはくれなかった。感情移入し難い四角関係「社長と職員にはありえない事だ」ガヨンのキスにヨンゴルは驚いた表情で言う。男女主人公たちのキスは、恋愛ドラマのハイライトであり、今まで二人が築いてきた感情が爆発する瞬間である。しかし、ガヨンとヨンゴルのキスはそうではない。私の大切な時間をプレゼントしてくれたヨンゴルに対するガヨンのありがたいと思う感情が恋へと変わる過程や、ガヨンの勇気ある行動がその後の二人の関係に変化をもたらす過程などが「ファッションキング」には欠落している。その反面「バリでの出来事」でスジョン(ハ・ジウォン)とイヌク(ソ・ジソブ)のファーストキスは、それまで見て見ぬ振りをして来た自分の気持を初めて認めた瞬間であり、ジェミン(チョ・インソン)の嫉妬と怒りに火をつけたきっかけとなった。ジェミンとスジョンがお互いを切なくも欲するしかなかったのは、お互いが持っている物と欠乏しているものがはっきりとしていたからである。貧しいスジョンはジェミンのお金を、ヨンジュ(パク・イェジン)と政略結婚したジェミンはスジョンに本当の愛を望んでいた。欠乏はそれを満たしたいという欲望を引き起こし、自分の欲望を満たしてくれた相手に引かれる感情は恋へと発展しやすい。しかし「ファッションキング」で欠乏-欲望-恋のメカニズムに従っている登場人物といえばジェヒョクただ一人である。常に父親(キム・イル)からは邪魔者扱いされ、キム室長(キム・ビョンオク)に無視されるジェヒョクは、実力を認められるためにアンナをチーフデザイナーに採用するのだが、彼の欠乏を満たしてくれたのはアンナではなく、ガヨンの天才的な才能である。コレクションの成功を祝ってくれる父親からの腕時計のプレゼントやキム室長からの褒め言葉は、今までジェヒョクがいくら努力しても手にする事の出来なかったものだが、ガヨンはそれを手に入れてくれた。酒が入るとガヨンに数え切れないほど電話し、電話に出ないとガヨンの働いている工場まで出向き、そのうえ嫌がる彼女にキスをする無謀な彼の愛を納得するしかない理由である。逆転のチャンスは今だけ「ファッションキング」がチョン・ジェヒョクのドラマであるように感じるとすれば、そのためである。問題は、ジェヒョクはそれぞれの欲望があやふやな他の登場人物に対する反作用でその場に上ったと言うことである。販売員から始めて、数々の屈辱を我慢してチーフデザイナーの地位を手に入れ、一時ジェヒョクと恋仲にまでなったアンナは、その階級からも恋愛の面でも、ヨンジュより多くを求めそうなキャラクターである。だが「ファッションキング」はアンナがジェヒョクやガヨンに感じる劣等感を上手く表現できずにいる。「恥ずかしさを我慢して」ジェヒョクにニューヨークのファッションスクール入学問題を頼んでおきながらも、秘書の渡してくれるお金に不快な感情を示し、ヨンゴルには「社長がどんな事をしても私は社長の味方」と言いながらも、ヨンゴルが一番嫌いなジェヒョクの下で働くことを辞めないガヨンも同様である。ガヨンの目標がお金であるのかファッションであるのか曖昧なことにより、ガヨンとは対極に存在するジェヒョクとの恋愛関係もいまひとつ盛り上がりを見せない。一番上の階級に位置するジェヒョクがガヨンやアンナ、ヨンゴルとぶつかり、彼らを刺激する間、残りの3人は自分が何のために動いているのかも把握出来ずにいる。だが、ドラマの半分を過ぎた第10話では、ジェヒョクがガヨンに彼女の名前が入ったジャケットを手渡し、ヨンゴルはガヨンが「死んでも一緒に仕事などしない」マダム・ジョ(チャン・ミヒ)とパートナーになった。少なくともこれで「ファッションキング」第2幕は第1幕よりは期待出来るものとなった。ジェヒョクのプレゼントから過去ヨンゴルに感じた温かい心を感じたガヨンは、以前ジェヒョクからキスされた時にも感じることのなかった彼の視線を意識し始めた。ジェヒョクとガヨンは8年前のスジョンとジェミンのようにお互いの欠乏を満たす存在として、それぞれの欲望を絶対に譲らない熾烈な関係へと発展することが出来るのだろうか。今までの過ちを挽回し、最初に意図したストーリーを最後まで引っ張ることの出来るチャンスは今だけである。/記事:イ・カオン
「最高の愛」 vs 「最高の愛」 最高の男だからこそ可能になったロマンスの世界
MBC「最高の愛~恋はドゥグンドゥグン~」のトッコ・ジン(チャ・スンウォン)とク・エジョン(コン・ヒョジン)との話は、ハッピーエンドで終わった。相変わらず離婚説と別居説は出たものの、悪意のある噂を跳ね除けるほど幸せな家庭を築き、情熱を注いだ仕事も続けられることとなった。到底釣り合わないグレードが違う彼らが愛し合い、夢見た未来を現実のものとした動力とは、一体何だったのだろうか。「10asia」チェ・ジウン記者とユン・イナTV評論家が、その糸口をトッコ・ジンという最高の男から解き明かした。/編集者注ラブコメディは結局、ドキドキ"という歌詞のように私たち、始めから合わなかったよねから始まり不思議なことに、いつしか心を通じ合い結局、あなたのおかげで、永遠にこの心臓はドキドキする結末に至るジャンルだ。この定義に照らし合わせた時、MBC「最高の愛」はとてもよく作られたラブコメディだ。よく知ると傲慢なトップスターと、またよく知ると本当に良い人であるが憎まれキャラの芸能人が偶然に出会い、絡まりぶつかる過程で起こる感情のスパークは、生きた肉体に電流として流れ心臓まで走り、お互いを意識し合うようにさせた。「最高の愛」のトッコ・ジン(チャ・スンウォン)とク・エジョン(コン・ヒョジン)の間で磁石のようにお互いを引き付け、また遠くなる感情の変化だけで、説得力のあるロマンスを描く。しかし、彼らの間に本当のストーリーを作ることは、彼らを包む世界、芸能界だ。トッコ・ジンの愛が最高の愛"である理由トッコ・ジンとク・エジョンに注がれるのはスポットライトではなくフラッシュだ。前者は対象を目立たせる役割りを担うとしたら、後者は隠したい場面まで赤裸々に写す。「最高の愛」は、弱肉強食の論理が支配する生態系の芸能界に、顕微鏡まではいかなくとも老眼鏡のように照らす。エジョンがネットに載せた病室の写真のおかげでトッコ・ジンの映画撮影が失敗に終わったエピソードは、一枚の写真、文章一行から、デマがものすごい速度で広がり再生産される現実を見せている。この過程で「最高の愛」が見せる大衆の反応やマスコミの態度は、単純化されてはいるものの、誇張されているわけではない。芸能人の一挙手一投足がカメラの前で一つ一つ表れる時、皆その光に目が見えなくなり、カメラが止まった瞬間にも彼らが他の人々とさして変わらない日常を生きているという事実は見ることができない。エジョンのような憎まれキャラの芸能人は、人気という名前の階級の一番下に位置し、存在自体を無視され、日常的な嘲弄とあざ笑いの中で生きていかなければならないし、それを当然のことと考えられてしまう。芸能界はそのように惨忍な世界というだけではなく、エジョンを取材しに来たマスコミが、エジョンが転んでも最後までカメラとマイクを下ろさなかったシーンでは、基本的な常識も守られない事がよく起こる場所だと言える。しかし、この砂漠のような殺伐とした現実の中でも、ク・エジョンが花"が咲く明日を想像することができるのも、トッコ・ジンのおかげだろう。トッコ・ジンはエジョンとは違い、非現実的なキャラクターだ。トップスターというアイデンティティを除いては、どのような生活感も感じさせないキャラクターであるトッコ・ジンは、実際弱点と言えるものはない。彼の性格はどうであれ、彼のイメージがすべてを覆い隠すことができる。序盤が、トッコ・ジンの心臓拍動が、エジョンに対する愛を確認する機能に焦点を合わせているとすれば、お互いの愛を確認した後、トッコ・ジンの故障した心臓は、エジョンを守るために存在する。自身にとって唯一の問題だったク・エジョンという存在が、自身の前で解除された瞬間から、トッコ・ジンはエジョンのスーパーヒーローになったのだ。彼は人間的な義理を守り、自身が負わなければならない責任をすべて果たすため、憎まれキャラの芸能人になったエジョンに自分を売っても良いと言い、エジョンを守る初めての人となった。何よりもトッコ・ジンの愛が本当に最高の愛である理由は、誰も責任を負わず何も犠牲にしないこの世界でエジョンとの関係に責任を持ち、そしてエジョンのために犠牲になったという点だ。数多く存在するク・エジョンのトッコ・ジンに、誰がなれるのだろうかトッコ・ジンがク・エジョンについて知っているように、視聴者はク・エジョンがどんなに良い人なのか知っている。しかし「最高の愛」では、芸能人ク・エジョンを見る人々は、それを知らない。彼らは、エジョンが交通事故に遭ったという記事を読んで「死ななくて残念」と書き込んで悪い噂を広げた。「最高の愛」は、続けてこの人々が平凡な人、まさに今「最高の愛」を見ている視聴者かもしれないという事実を認識させる。そして、この認識は自然と現実のク・エジョンのように、そしてまさに奇妙な現実である芸能界を意識させる。ピルジュ(ユン・ゲサン)はエジョンを自身の目ではとても奇妙な国に見える芸能界から脱出させようとするが、奇妙なのは、芸能界を越えたこの世界自体だ。芸能界はエンターテインメント業界だけを意味しなくなってから久しい。全ての真実を要求するものの、実際は真実については関心がなく、憎まれキャラが犯罪者より厳しい非難に耐えなければならない世の中。イメージを生かして誤解と憶測から抜け出すためには死ねば良いというこの世の中。年をとるに従い守らなければならないことは増えるものの、生きていくためにこの世界は大切なことを手放せと強要する。疑うことなく甘く温かく見えるハッピーエンドを見なければならないのは、このためだ。幸せなトッコ・ジンとク・エジョン夫婦が別居しているとの噂が後を立たない今日、ここにこのような世界で一体誰が数多くのク・エジョンたちのトッコ・ジンになってくれることができるのだろうか。/記事:ユン・イナ「最高の愛」は一言でトッコの愛についての話だ。大韓民国で一番のトップスター、老若男女みんなが愛するトッコ・ジンが、憎まれキャラの代名詞ク・エジョンに片思いし、恋愛関係に陥る。もちろん愛は二人が一緒にする事だ。しかし誰かがまず動かないと愛は始まらない。一方から少しでも強く引っ張らないと前に進むのは難しい。そして「最高の愛」ではこの役を担ったのはトッコ・ジンだった。「君のことを好きで幸せだ」ではなく「だから僕は君がとても恥ずかしい」と、告白ではなく自白までしてしまうとんでもない男性のことだ。序盤、トッコ・ジンはク・エジョンに言う。「君は僕と別々の車で移動できるレベルじゃない」と。人間を階級で分け、誰に対してもかっとし、すべてを持ち合わせているため、チャドナム(都会の冷たい男)やカドナム(クールで洗練された都会の男)としても理解される彼は傲慢で独占的で、おまけにズルくもある。しかし好きな女性に告白するためお金で彼女の時間、すなわちイベントを開くトッコ・ジンは、資本主義の社会では最強の王子様だ。誰がそのトッコ・ジンの愛を拒否できるのだろうか。ク・エジョンはトッコ・ジンを選択するほかなかったしかし地に足の着いた、夢見るのを怖がるク・エジョンは、トッコ・ジンの思い通りには動かず結局トッコ・ジンは「安っぽい外見の」ク・エジョンに「なぜ僕が君を好きなんだろうか」という根本的な質問を放ち、自身の愛を探求し始めた。実際、ラブコメディで大切なのは、ヒロインの愛らしさだが、それ以上に大切になってくるのが彼女を愛する男性の姿だ。トッコ・ジンは元々格好の良い男性だが、ク・エジョンを一途に愛し、自身の完璧なイメージを凄惨に壊し、逆説的にその過程でさらに格好の良い男性になる。幼い頃は体が弱かったため、成長し心臓の手術をした後、スターになったおかげでひたすら自身を中心にした世界の中で生きてきた男が、愛するうちに怖さと切なさを覚え、ついにはク・エジョンに向かって「僕にとって君は簡単ではなくとても難しい」と言い、感情の前では階級が無駄になるということを悟った。だから、自身がク・エジョンを好きだと言う事実が、他人に知られることにすら怯え、この基本的で利己的、そして軽薄でもある男性が、思慮深くて多情多感なユン・ピルジュ(ユン・ゲサン)の代わりに愛を勝ち取る過程は、「最高の愛」の舞台である芸能界の特性とも密接な関連を持つ。ユン・ピルジュはク・エジョンをこの奇妙な国から救おうとするが、トッコ・ジンはク・エジョンとデートするチャンスを掴むため「『セクションTV』にインタビューをお願いしようか」と尋ねたり、「僕がク・エジョンの男とインタビューで言おうか」と提案する。芸能界は自身とク・エジョンが住む世界で、それが自身にとってそうであるようにク・エジョンにも生活の一部のため、辛くても簡単には切り離すことができない事実を知っているためだ。カン・セリ(ユ・インナ)やピルジュの母親(パク・ウォンスク)でなく、マスコミと大衆が悪役を担ったこの世界で、自身が知る方法で最大限の愛を表現することは、ユン・ピルジュとは違ったトッコ・ジンの配慮であると同時に、相手に対する理解でもあったわけだ。すでに最高になったトッコの愛だから、芸能界という奇妙な国についての話である「最高の愛」は、ク・エジョンの受難から始まり、最初は魔王のように見えたが、ついには彼女を救ったトッコ・ジンの内面を表すことで終わる。イメージで評価される世界の最強者が、そのイメージを脱ぎ一人の女性を守る過程は、家の外の世界ですべてのものを持つ人がそれを諦めることについての悩み、自身の社会的イメージと胸を苦しませる真実の間で悩むすべての人々の姿と言える。あなたは自身の仕事も名誉も、心もすべてかけて愛する事ができるだろうか。「最高の愛」はトッコ・ジンとク・エジョンが永遠にかどうかは分からないが、大衆の予想よりは長く幸せに生きていくことで幕を下ろす。しかし心臓手術を前にしたトッコ・ジンは、自身のイメージを売り生きてきたランクが落ちるのが死ぬよりも怖がるこの男性が、ク・エジョンに僕を売れと言ったこの瞬間も、トッコの愛はすでに最高のものになった。その愛でク・エジョンは初めて奇妙な国で癒され、トッコ・ジンは造られたイメージではなく自身の真実からの愛に出会った。「最高の愛」は本当に最高の愛になったわけだ。/記事:チェ・ジウン■「最高の愛」DVD-SET 1 15,960円(税込) 4月6日発売第1話~第8話収録/4枚組 本編520分+特典映像約60分予定初回限定:アウターケース仕様 封入特典初回限定:ブックレット(8P)■「最高の愛」DVD-SET 2 15,960円(税込) 5月9日発売第9話~第16話収録/4枚組 本編520分+特典映像約60分予定初回限定:アウターケース仕様 封入特典初回限定:ブックレット(8P)■関連サイト・「最高の愛~恋はドゥグンドゥグン~」DVD公式サイト・「最高の愛~恋はドゥグンドゥグン~」特集ページ
「キング~Two Hearts」 vs 「キング~Two Hearts」 ロマンスが休戦ラインを飛び越える方法
世界唯一の分断国家である韓国の状況は今まで映画「シュリ」から「キング~Two Hearts」(MBC)に至るまで様々な描き方で紹介されてきた。「キング~Two Hearts」はイ・ジェハ(イ・スンギ)とキム・ハンア(ハ・ジウォン)のロマンスを前面に出してはいるが、1話から8話まで韓国と北朝鮮、そして彼らをめぐる外部勢力に関する話で関心を集めてきた。ジェハとハンアはかなり親しくなったが、王の座を狙うボング(ユン・ジェムン)の力がより強くなり、「僕を王にしたら、死んじゃうから」と宣言したジェハは結局、王になった。残りの12話、「キング~Two Hearts」はどんな道を進むべきか。チェ・ジウン記者は南北を越えて男女の問題を、TV評論家ウィ・グヌは資本の論理でその道をたどってみた。/編集者注今は遥かに遠いことだと思えるが、いつか南北統一が目前に迫ったら、そのとき、「キング~Two Hearts」は韓国の国民たちにとって、効果的な統一事前教育の教本になるかもしれない。このドラマは南北分断という現実に立憲君主制という仮想の設定を加え、遠くは映画「シュリ」から近くはTV朝鮮のドラマ「約束の恋人」(原題:韓半島)に至るまで引き続き描かれてきた南男北女(男性は南に美男が多く、女性は北に美人が多いという意味)のロマンスを同じく繰り広げている。しかし本作品は、これまでのどの作品よりも政治面で南北を公平に描き出すことに力を入れている。そのため、「キング~Two Hearts」の中で描かれる北朝鮮は、80年代まで韓国の社会を支配した反共教育での北朝鮮のイメージとはまったく異なり、悪の枢軸でも主たる敵でもない。自由に恋愛ができて地下鉄などの現代文明に十分に恵まれている社会だ。すなわち、ドラマは南北間の差異よりも、韓民族としての普遍性を引き続きアピールする。世界将校大会に合同チームとして一緒に出場することになった南北の軍人が、焚き火の周りに集まってギターを弾きながらイ・ムンセの「少女」を歌ったり、北朝鮮にも地域対立があるという話に「私たちの国は分裂が趣味?」と南北をひとくくりにして答える姫イ・ジェシン(イ・ユンジ)の言葉は、南北が、体制や現実などを除き、両国とも同じく人々が生きる世界であるという信念に基づく。実存的な悩みを軽く飛ばしたファンタジークラブMが起こした爆破テロのため、南北合同チームの訓練場所を調べに来たアメリカや中国側の調査員たちが、キム・ハンア(ハ・ジウォン)の下着が入った鞄を調べようとすると、その前を強硬に立ちふさがるイ・ジェハ(イ・スンギ)の姿は意味深い。ただ、個人のプライバシーということではなく、国が持つ固有の主権が海外勢力の圧力や干渉により侵害される時、南北が力を合わせて立ち向かうことができるというこのファンタジーの設定は、ある意味で今の南北関係において、最も必要な認識だとも言える。しかし、言語や文化面での小さな違い以外にも、数十年間まったく違う世界で生きてきた人物たちが持つ、実存的な悩みを軽く飛ばすファンタジーは、なかなか力を出すことができない。映画「JSA」のオ・ギョンピル(ソン・ガンホ)がキム・グァンソクの曲に感動したように、「キング~Two Hearts」の北朝鮮軍人リ・ガンソク(チョン・マンシク)は少女時代のファンになる。しかし、彼がセクシュアリティーを商品化する資本主義的な消費を批判するより、ただ女の足に惚れた自分を責める男に過ぎないのは「共和国がどれほど大切であるか、わかっているか?」という叫びを空しくさせる。また、南北とともにこのドラマを牽引するもうひとつのテーマ男女関係は、ドラマの序盤、おとなしく社会に慣らされた女性と大人げなくわがままな男性、一度も恋愛したことがない鉄壁女(チョルビョクニョ:恋愛はしたいけど理想やプライドが高いため、自分の理想に満たない男からのアプローチをまるで鉄の幕を張るように徹底にシャットアウトする女)と女好きの男という対立構図で視聴者の興味を引いた。しかし、キム・ハンアとイ・ジェハが敵から仲間に、そして恋人に近い関係に発展する過程は、ありふれたラブコメディの公式をそのまま踏襲することをなんとか避けようと、必要によって作用するぎこちない恋愛シーンを作り出した。そして、キム・ハンアとイ・ジェハの婚約は南北の統一という特殊な状況を活用するより、家父長制の下での男女関係をそのまま描き出す。男女関係がぶつかったジレンマそのため、キム・ハンアの父親(イ・ドンギョン)がイ・ジェハに「思想なんか持ってないです。教えたら教えた通り、うまくやると思います」と言いながら娘を預ける瞬間、訓練のときは同等であったニ人の関係がいきなり従属関係に変わってしまう。ヨンソン(ユン・ヨジョン)は社会的弱者を助けることに力を注いで、宮女たちにキム・ハンアを配慮するように命じるが、平民であり北朝鮮の女性でもあり嫁になったキム・ハンアに「もっとしっかりとひれ伏しなさい」と強要する。彼女のそんな裏表のあるの態度は姑であり韓国人が持つ実質的な権力や優越感を表している。ヨンソンがハンアを受け入れるきっかけになったのは、半身不随である自分の娘を丁寧に手伝うハンアの姿を見たからであり、ハンアを嫁として認めた後、初めて教えたことが家族たちの口に合う料理の作り方であるのは象徴的である。これは違う環境で育った女性を自分の必要や趣向に従って訓練させる嫁と姑の関係とまったく同じであると同時に、キム・ハンアに「方言を直しなさい」というヨンソンは、北朝鮮の体制に介入しようとしながらも、断片的な知識だけを持ってそれ以上北朝鮮を理解しようとしない韓国の現実を反映している。そのため、イ・ジェハが王として成長する間、キム・ハンアが嫁として自分の立場で、やっと韓国社会へ最初の一歩を踏み出したことは、南北に拡張させた男女関係がぶつかったジレンマである。鳥が左右の翼を使って飛ぶように、この野心あるストーリーをちゃんと牽引していくためには二つの心臓が並んで走る必要がある。/記事:チェ・ジウン「資本主義の原則に忠実に従っただけだ」韓国の王ジェガン(イ・ソンミン)は弟ジェハ(イ・スンギ)に、王家に対して民が好意的でないのは「もらった分だけ働く」という原則を王家が守らなかったためだと言う。そして、「キング~Two Hearts」(MBC)はそこから始まる。ジェハは今まで税金で食べてきた代価を払うため、世界将校大会の参加を決める。その決定で南北間には和解の雰囲気が漂い、多国籍軍事複合体持株会社クラブMのボング(ユン・ジェムン)はジェガンに敵対心を燃やす。もちろん、ジェガンの言葉は、社会的責任に対する誤った理解から生じた考えかもしれない。ただ、子供の頃、「君の家に5億ウォン(約3574万円)寄付したよ」とふざけて言う友達に何も言い返せなかったジェガンが、経済的な自立に対してコンプレックスを持っていることだけは確かだと思える。資本主義の時代の王というものは、負債のもうひとつの名前である。王と資本家、互いを羨むそのため、ジェガンは絶えず次々と何かに取り掛かる。彼はジェハが言った通り、行き詰まった理想主義者のように見えるが、彼が見せ続けるのは理想ではなく負債意識だ。世界将校大会の南北合同チームの訓練が、ジェハのせいで失敗すれば、彼は自分の夢が壊れたことより王族である弟が自分の役割を果たせなかったという事実に失望する。しかし、より興味深いのは、ジェガンと正反対に超国家的な資本力を持つボングも、王という名前に対してコンプレックスを見せるということだ。ジェガンの暗殺はもちろん、彼の行動は南北関係を滞らせるための戦略というより、王家に対するテロに近い。3人が初めて出会った日、幼いジェハは「僕を王にしたら、死んじゃうから」と宣言し、ジェガンが固まった表情でジェハを教室に閉じ込めた。そして、ボングは曇った窓に「I'm KING」と書いた。能力のない王族にとっての王とは、負担が重いがいつか担うしかない名前で、能力のある資本家にとってその名前は、どれだけ欲しいと思っても得ることができないものである。自分たちはかかしのようなものに過ぎず、それが自分たちの役割だというジェハの認識が正しいのはそのためだ。王はかかしだけど存在するのではなく、かかしだからこそ存在できるものだ。それは中身のない空っぽな象徴、つまり余ったものである。そのため、逆説的に資本に左右されない品格と価値を象徴することができる。王が担う負債は資本論理がいつも残酷なだけではないということだけを証明すればいい。それがかかし王の価値である。自分の負債を償還しようとした王が、資本家に殺されたことは象徴的である。それはある意味、紳士協定の破棄に対して資本が下した処罰である。興味深い仮想を諦めて得たみすぼらしい成果しかし、立憲君主制の韓国に関する興味深い仮想はここまでだ。前に話したように、「キング~Two Hearts」は王家が資本論理において、どのような立場を取るかということからスタートするが、その幅広い市場のメカニズムをより深く掘り下げようとするのではなく、悪者ボングにすべての責任を転嫁する。興味深い設定やところどころ感心させるセリフがあるにも関わらず、このドラマが安易に思えるのはそのためだ。すなわち、葛藤のディテールが最も激しく描かれるはずの部分なのに、そこで「キング~Two Hearts」は善意と悪意という最も単純な二つの意識に回帰する。奇怪なマジックショーが繰り広げられるクラブMが、007シリーズに出てきそうな悪党の本拠地のように描かれている反面、善良な人々が集まった北朝鮮が、ハンア(ハ・ジウォン)を中心にコミカルな状況が繰り広げられるシットコム(シチュエーションコメディ:一話完結で連続放映されるコメディドラマ)の空間になったのは偶然ではない。ドラマのもうひとつのテーマであるジェハとハンアのロマンスがほどよく切なく描かれるのは、韓国と北朝鮮の距離もほどよく善意で乗り越えることができる幅だけ開けておいたからだ。たとえば、ハンアは貧しい国の異邦人としてプライドは示すが、北朝鮮出身として一番先に表すはずの資本主義市場に対する反感は描かれていない。もちろん、ハンアという人物に与えられたアイデンティティによるものかもしれないが。しかし、それが重要な設定を最後まで押し通すことができなかった、もしくは押し通さなかった緩さを正当化することはできない。ジェハとハンアのロマンス、王家とクラブMの対立がドラマの中で別々に描かれるのは、二つの軸をつなげる社会という歯車を省略したからであることを考えればなおさらだ。折り返し点を過ぎたというありふれた決まり文句は、だからこそ今の「キング~Two Hearts」に似合わない。今、このドラマに必要なのは新たな展開でなく、当初の設定への回帰に徹することだ。/記事:ウィ・グヌ
「乱暴なロマンス」 vs 「乱暴なロマンス」 私の心は温かいストーブのように
タイトルからロマンスを掲げたが、KBS「乱暴なロマンス」は主人公の愛に焦点を当てたドラマではなかった。むしろ様々な登場人物たちの傷や劣等感などが隠されている洞窟の中にスポットライトを当てた。ある人は洞窟の暗闇の中から最後まで抜け出ることが出来なかったが、またある人は洞窟から出て自分だけの光に付いて行くことが出来た。その結果、甘いロマンスを期待していた視聴者は満足出来なかったり、ドラマから目を背けてしまったりしたのかもしれない。しかし、誰でも持っている心の中の暗闇を認め、それを乗り越えて行こうとするキャラクターたちを見守った視聴者には「乱暴なロマンス」が満塁ホームランのようなドラマであったに違いない。同ドラマの最終回を控え、チョ・ジヨン、ユン・イナTV評論家がこれまでの放送を振り返った。/編集者注1年前に放送されたKBS「ホワイトクリスマス」のエンディングシーンまで遡ってみよう。脚本家パク・ヨンソン先生はその作品を通し「モンスターは生まれるものか、作られるものか」という質問を視聴者に向かって投げた。「乱暴なロマンス」の中に描かれているミステリーやそのミステリーを作り出す人物の状態を考えれば「乱暴なロマンス」は「ホワイトクリスマス」の延長線上にある作品と言える。それは「乱暴なロマンス」で潜在的なサイコパス(精神病質)に登場するユニを演じるホン・ジョンヒョンが「ホワイトクリスマス」でヨハン(キム・サンギョン)を一口ずつ噛んで殺した子供達の中の1人だからではない。「ホワイトクリスマス」で深い山奥に位置し、外の世界から完全に孤立したスシン高校のモンスターは「結局、全ての人間の中にはモンスターが存在する」と話した。そして「乱暴なロマンス」では笑ったり泣いたり恋をしたりする平凡な日常の中でもモンスターは目覚めることが出来ると話している。モンスターから呼ばれた時、何を選択するか自分がモンスターであることを隠さず、様々な実験を押し切ったヨハンと違って、ムヨル(イ・ドンウク)の家事手伝いでありながら彼のストーカーでもある叔母(イ・ボヒ)は完全な暗闇の中に隠れている。ストーカーの存在が初めて知らされてから犯人の正体が明らかになるまで、ムヨルの周りにいる人々が次々に疑われる。周りの人々がムヨルに危害を加えそうな、様々な理由や複雑な感情をそれぞれ持っていたからだ。ドンス(オ・マンソク)とコ記者(イ・ヒジュン)はムヨルに対する劣等感や嫉妬を抱いて、スヨン(ファン・ソニ)やジョンヒ(少女時代ジェシカ)との関係まで絡んでいる。そして、外部から登場したユニは人々が持つ悪意や憎しみに近い感情を持っている。もし、彼らが自分たちの中にある僻み、ヨハンの表現を借りるとモンスターを引き出したとしたら、誰もが家政婦の叔母のような行動をしたかもしれない。そして、家政婦の叔母は彼らの中で何人かの感情や考えを後ろで操りながら、ムヨルが自分だけに頼るようにするといった間違った欲望の実現に少しずつ近づいていく。この作品で、野球とパク・ムヨルを分けずに描く理由は、野球が人々が切実に欲張る、または夢見る象徴を意味するからだ。しかし、みんながその欲望の中に埋没されてモンスターになる道を選んだりはしない。それぞれが違うバックグラウンドや性格を持ってドラマの中で生きている「乱暴なロマンス」の登場人物たちは、モンスターから呼ばれた時、自分が直面した苦しみの中でそれぞれ違う選択をする。結局「乱暴なロマンス」は作品を通して、人間に隠されているネガティブな感情をどうやって克服すればいいか、またはどうやって抱いて生きればいいかという質問を視聴者に投げかけたドラマである。ロマンスは他にあるしかし「乱暴なロマンス」は必要以上にたくさんのジャンルが入り交じって、これがテーマだという話を見つけ出しにくい。球界のスターであるムヨルとアンチファンであるウンジェ(イ・シヨン)がぶつかり合った4話まではロマンティックな要素が一切ないコメディだった。その後、ムヨルの受難とウンジェの片思いが終わり、ミステリーの比重が大きくなった。ストーカーとの事件が進展していく中でロマンスの部分を厳かにしていたため、ムヨルはまるで雷にでも打たれたかのように、自分の感情に気付くしかなかった。関連性のないロマンスと穴が見えるミステリーがお互いに交わることなく、笑うべきか泣くべきか分からない曖昧な瞬間があまりにも多すぎた。乱暴さはムヨルとウンジェが、ロマンスは2人を取り囲む登場人物であるキム室長とドンア(イム・ジュウン)が担当するのは、結果的には悪くはないが、ストーリーを進める過程の中では良かったとは決して言えない。伝えたい全ての話をドラマの中に溶け込ませるのは、訓練やボランティア、2人の女性の間でのロマンスまで、全てを一度にやらなくてならないムヨルと同じく、手に余ることだ。ロマンスを期待しても、コメディを期待しても、ミステリーを期待しても、この全てのもののバランスが全く取れていない「乱暴なロマンス」の世界では、何1つとして十分に満足することが出来ない。それでも「乱暴なロマンス」は1人の人間として自分の中に存在するモンスターを目覚めさせないように努力する過程を描く。その過程の中で、ある人は「才能を見る目には嫉妬だけがあるわけではない」ということを、またある人は「一瞬に人生をかける」ということの意味を知っていく。この作品で野球という名前で呼ばれる切実な何かは時には人を救うが、時には人を地獄に落とす。ウンジェが話したように、それぞれの地獄で人間は苦しんで痛みを感じる。しかし、1人で我慢したりその苦痛の中に沈むことで、地獄から抜け出すことも、モンスターが開いた傷口から突き出さないように防ぐことも出来ない。そのため、キム室長とドンアのように、人間にはお互いの最も弱い部分を見せても目を背けない誰かが必要である。そして、野球をどれだけ愛してもみんながムヨルのようにはなれないし、誰より長い間絵を描いてもジョンヒにはなれない世界で、お互いに向かって「君は君のままでいい」と話す必要がある。それが、自分の中に存在するモンスターの寝かせ方であり、この小さな連帯がもしかしたら「乱暴なロマンス」が言う本物のロマンスなのではないだろうか。/記事:ユン・イナモンスターは近くにいる。平凡な顔をして毎日を生きていくそれぞれの心の奥には、大小様々なモンスターが身を潜めている。心の奥に隠れた暗闇の中で成長するそのモンスターの名前は、劣等感や嫉妬、もしくは片思いかもしれない。「乱暴なロマンス」ではそのモンスターがどうやって生まれて成長するかを観察することが出来る。ドラマはムヨル(イ・ドンウク)を苦しめるストーカーが誰なのかを明らかにするため、まるでフーダニット(whodunit、内容とあらすじが犯罪とその解決に主に照明を当てるミステリー映画や番組、小説などを指す言葉)の探偵小説のように、ムヨルの周りにいる多くの人々を容疑者として設定する。11話でようやく犯人の正体が明らかになるが、容疑者リストに上がった人々の心の中でも、モンスターが突然現れた瞬間があったりした。キャラクターは強み、ロマンスは弱み学生の頃、野球をしていたが、夢を叶えることが出来なかったコ記者(イ・ヒジュン)、ムヨルの暴力事件の被害者でありその原因提供者でもある貧しい大学生ユニ(ホン・ジョンヒョン)は、少しの間だけではあるが、同じの感情を共有する。自分が持つことが出来なかったものを当たり前のように楽しむ人への憎しみ、そして、その人の全てを奪いたくなる心が、彼らがお互いに共有した感情だ。ジョンヒ(ジェシカ)に対するスヨン(ファン・ソニ)の感情も彼らのものと似ている。切実に願ったが、自分が持つことが出来なかった才能を、生まれる時からすでに持っていて当たり前のように思う人に向かって感じる劣等感も、モンスターが非常に好む暗闇だ。モンスターは主に自分の幸せより他人の不幸を願う時にその姿を現すが、ほとんどの人は想像以上にそのように危ない瞬間をたくさん経験する。結局、ドンス(オ・マンソク)をはじめ、容疑者たちの疑いが晴れた時、奇妙にもそれぞれの厳しい人生が、しつこく後を付け回した偏見や涙のストーリーが、1つずつその姿を表す。見た目は大丈夫そうに見えても、内面に傷をまったく持っていない人は誰一人なく、みんな1人で涙を流したことがある人達だった。自分の心の傷を癒すためにそれぞれ孤軍奮闘する姿が可哀想に見える。そのため「乱暴なロマンス」では、ある一人の人物の人生を説明したり、ロマンスを仕上げるために使われたり犠牲にされる舞台装置のようなキャラクターは存在しなかった。そんな過程を通してキャラクターの一人一人が上手に表現されたのはドラマのメリットになったが、ロマンスに割愛した時間があまり長くなかったのはデメリットであった。出塁は多かったが、得点においては決定打が出なかったことになる。自分の中のモンスターがいなくなる時間少し遅れた感はあるが、ロマンスこそがこのドラマが提示する、モンスターに対抗する最も確実な作戦であり、処方箋である。モンスターに心を奪われないためには、ドンア(イム・ジュウン)とキム室長(カン・ドンホ)のように素直で乱れた恋をして血の味がするファーストキスをしたり、ムヨルとウンジェ(イ・シヨン)のように一緒にボクシングや柔道をしたりする中で頭をなでてあげればいい。ウンジェは悪いやつあいつと言っていた人をなぜ、どうして愛するようになったのか、ウンジェの父親(イ・ウォンジョン)は他の男が好きだと言って家族を捨てたウンジェの母親(イ・イルファ)をなぜ今でも愛しているのか、ウンジェの家族は何の繋がりもないブルーシーガルズの優勝をなぜそこまで願っているか、誰もその理由を知らない。ただ、もしかしたらそれが愛なのかもしれなくて「わざと理由をつけて好きにならないように努力してもなかなか出来ない」という感情があることに頷くだけだ。ムヨルが淡々と「野球はたまに人を助ける」と言う時、この台詞に共感する人は必ずしも野球の開幕シーズンを待ち遠しく思っている全国の野球ファンだけだとは言えない。野球は他の物になれるし、人に替えることも出来る。ただ、心が向かう対象が上手くいくことを願う気持ち、そのお返しは全く期待しないが思うだけでも胸が一杯になる時、身を潜めている寂しさや劣等感、嫉妬といった名前を持つモンスターは、その瞬間だけでも消滅したり弱くなる。「乱暴なロマンス」はおとなしい。親を言い訳にしたり恨んだりする数多くの甘えん坊に捧げられた他の恋愛話とは違って、自分で心の傷を癒そうとしたり、友達や同僚に手を差し伸ばしたり、差し伸ばした手をすぐ掴むような話だ。「あえて選べと言われたら、ヒョウ柄のワンピースより韓服」という正直さ「大好きで逃げました」という本心が、愛する妻のために罪をかぶろうとするその心が輝くドラマだ。「乱暴なロマンス」は引き続きアウェーゲームばかり行うような不利なトーナメント運など全く気にせず、いつも最後まで最善を尽くすウンジェのように、凛々しく愛くるしかった。
「太陽を抱く月」 vs 「太陽を抱く月」宮廷ロマンスで描かれる恋愛模様
ドラマで初恋とはものすごい力を発揮する。いくら月日が経とうとも、どんな邪魔が入ろうとも、主人公二人の関係をより深いものとしてお互いを強く結びつけている。お互いにとって初恋の相手であるフォン(キム・スヒョン)とヨヌ/ウォル(ハン・ガイン)。この二人のハッピーエンドという流れは最初から決まっていたようなものだった。MBC「太陽を抱く月」でこの流れを邪魔するものは、結局この二人の「床入り」と、その日にもう少し劇的な効果を与えるための一種の演出装置に過ぎないということだ。宮廷での争いも、大臣たちの陰謀も、その日を支持したり阻止するための手段であるこの奇妙な時代劇を「TV vs TV」で取り上げてみた。テレビ評論家のチョ・ジヨンは「太陽を抱く月」を恋愛ドラマとした視点で評価し、ウィ・クンウ記者は愛を自己正当化の手段として使う男性主人公にスポットライトを当てる。/編集者注「人魚姫」以後、記憶喪失というテーマは恋愛ドラマの定番要素だった。特に韓国ドラマでは交通事故で大怪我をしていないにもかかわらず、記憶喪失となり運命を翻弄される男女を描いた物語が多い。失った記憶がいつ戻ってくるか、記憶喪失という事件に関わった人と、その事件で恩恵を受けた人がいつ罰を受けるかなど、ドラマの成り行きをハラハラしながら見守るのが視聴者の醍醐味だった。そんな記憶喪失という素材に視聴者も飽きた頃、恋愛ドラマならではの切なさと感動を与えてくれる「太陽を抱く月」が現れたのだ。恋愛を前面に押し出している宮廷ロマンス「太陽を抱く月」で描かれる記憶喪失は、恐らくKBS「冬のソナタ」以来、最も効果的な演出装置として機能している。ヨヌがウォルとしての人生を生きるという設定は「冬のソナタ」のジュンサン(ペ・ヨンジュン)がミニョンとしての人生を生きることで生じる混乱に似ている。そんな定番中の定番の展開に不自然さを感じない理由は「太陽を抱く月」がラブロマンスの王道を行く時代劇であるからだ。このドラマはよそ見せず宮廷ロマンスという一つの目標に向かって黙々と前進する。従来の時代劇と違って恋愛要素を前面に押し出している。皆韓服を着て冠をかぶっているが、ドラマの内容自体は軽く楽しいノリに仕上がっている。このドラマでは主人公二人の恋が中心で、それ以外の存在は背景でしかない。だから、王が仕事もしないでフラフラしていても気にならないし、母方の親戚をはじめとするずる賢い臣下たちと大王大妃(王の母)は二人の恋を邪魔する装置として登場するが、不自然ではない。そこに渡しそびれた手紙の演出が加わり、より一層切なさを増して、涙を誘う。ドラマ「宮~Love in Palace」とは違って仮想の王が登場したり、過去の時代を背景にしたりしているが、見る者は次第にこのドラマの世界観にハマっていく。これは時代劇のファン層が熱くなったということを意味する。「床入り」シーン以外の見どころは?使い古された記憶喪失という素材からも分かるように、このドラマは宮廷ロマンスの王道を行く。しかし、従来のドラマでは見られない、女性主人公の漁場管理(思わせぶりな言動・行動をとること)と性的欲望が鮮明に描かれている。驚くべきことにこれはヴァンパイアロマンス「トワイライト」シリーズでも使われているパターンでもある。ウォルは色々な男の心を手玉に取る女性として描かれる。そしてフォンはすべての者の上に立つ王でありながら、誰と寝るのかも簡単に決められない男性として描かれている。彼の困った表情こそ「床入り」のシーンを政治的な行為や、単なる夫妻の床入りと考えないという証拠である。しかし、そのような考え方は女の専売特許だった。フォンが王妃(キム・ミンソ)に「俺の心を奪おうと思わないことだな」と言うセリフも、従来のドラマの中では女性のセリフだった。それ以外にも「太陽を抱く月」の女性たちは自身の欲望に忠実かつ積極的に従う。純真なミンファ王女(ナム・ボラ)も王妃に勝るとも劣らない狡猾な女性として登場する。登場人物の関係を見てみると、恋愛において消極的な王がどんな態度を取るかが「太陽を抱く月」の展開を大きく左右させる。王や王妃、ウォル、この3人は立派な大人に成長したにも関わらず、体の関係を持ったことがないという奇妙な設定が「床入り」に対する関心を高めている。あらゆる理由でこの「床入り」のシーンが先延ばしにされているが、これは「トワイライト」シリーズでも中核テーマとして取り扱われている。女性視聴者たちはウォルに感情移入することができなくても、フォンに対しては彼の幸せを祈る。すべてを持っているようで実は何も手に入れてなかった男、不可能なことはないように見えるが、実は何もできなかったこの男の心の苦痛が消えることを、祈らずにはいられないという気持ちになってしまう。女性を困難な状況から守り、幸せをくれる王子様はこのドラマでは見当たらない。いつからか、女性と男性の立場が変わっている気がする。SBS「シークレット・ガーデン」のキル・ライムがキム・ジュウォンを守っているように、ウォルもフォンを守ることができるだろうか?ドラマも中盤に差し掛かった今誰が世子嬪(世継ぎの嫁)になるのかいつ誰と夫婦の契りを交わすのかに対する答えだけでは足りない。男女の恋愛模様をもう少し掘り下げていく必要がある。悲しい表情をクローズアップすることや、切ないバックミュージック以外に「太陽を抱く月」が見せなければならないことは多いはずだ。/記事:チョ・ジヨン「これが宮廷の中にある最も大きい穴だ」王であるイ・フォンは民の声が自分に届いていないことは、承政院(王命の伝達と履行の報告を王に行う官庁)に原因があると主張する。だが、最も大きい穴は彼の心にあった。「太陽を抱く月」で太陽を象徴するフォンはヨヌを忘れられずに悲しみ、王妃であるボギョン(キム・ミンソ)に心を開かない。愛する人がいなくなって悲しむのは当然のことだが、8年という長い年月が経っても忘れずにいるのは、ある意味で彼の意地なのかもしれない。フォンがヨヌを忘れられない理由ウォルと初めて出会った時から「以前にどこかで会ったことはないか」と尋ねるフォンも、ヨヌの兄、ヨム(ソン・ジェヒ)に「君の妹は私の記憶の中ではいつも十三歳のままだ」と話すミョン(チョン・イル)も、彼女のことを忘れられずにいる。しかし、彼らを悲しみから助けることができるヨヌは記憶喪失になってしまった。ウォルからヨヌを見つけようとするフォンに、彼女は「私の中に誰の痕跡を探してらっしゃるのですか?」と答えるだけだ。相手に持ってないものを出せというのも暴力的だが、初めて会った時から続いていたフォンの確認は、はるかに強迫的だと言える。それはウォルに対する確認であると同時に、自分が愛する対象は目の前のウォルでない、過去のウォルだということを繰り返して自分に確認させる行為でもある。ウォルが近付いてくるのも、遠ざかっていくのも嫌だと言うフォンのセリフは心に切なく響く。今一緒にいたい人はウォルだが、それがヨヌの記憶を飲み込むほど大きくなってはいけない。それは守らなければならない、一種の精神的純潔だと言えるだろう。純情な初恋について深く語るつもりはない。しかし、朝鮮の王として責任をまっとうすることができないフォンに、純情という価値は彼に都合のいい逃げ道を与えている。幼いフォン(ヨ・ジング)は大王大妃(キム・ヨンエ)に「世子(王太子)が動いて幸せになった人は誰もいません。その子(ヨヌ)が不幸になることがあれば、それは僕のせいです」と訴える。それは間違っていない。アリ(チャン・ヨンナム)はヨヌに太陽に近付いてはいけないと話しているが、濡れ衣を着せられて処刑された義城君(ウィソングン)のように王の傍にいるということは本来危険なことだ。意図した結果と異なっても責任を負うのが王の役割だ。しかしフォンは官僚をあざ笑い、責任を負うことを拒否する。ここで自分のせいで死んだ初恋人は、彼の優柔不断さを正当化する手段として使われている。フォンはボギョンに「あなたと、あなたの一族が望むすべての物を手に入れることはできても、俺の心を奪うことはできないでしょう」と言う。これは一見プライドが高いように見えるが、この言葉には心以外のすべての物は渡すことができるという意味が込められている。自分の命を捨ててもヨヌを助けると言った幼いヤンミョン(イ・ミノ)の心の叫びも同じだ。他のすべてのものをフォンに奪われた彼が、そう豪語できるのは、ヨヌは死んでしまってその言葉に対する責任を負わなくてすむからだ。男性主人公はナルシシズムとファンタジーから目覚めろ!フォンとウォル、あるいはヤンミョンとウォルが切ない眼差しを交わす瞬間さえ「太陽を抱く月」で描かれている恋愛模様がはっきりしてないなと思ってしまうのは、このように愛の対象が曖昧であるからだ。二つの太陽の愛は自己正当化につながる。世子フォンの補佐、ヒョンソンの突然の自殺に対して「今日僕のせいで人が死んだ」と告白したフォンが、ウォルを通じてあるいはウォルに投影されているヨヌを通じて聞きたかったのは「殿下のせいではありません」という答えだったのだ。これは前にも触れた大王大妃に訴えるシーンでも表れているように「太陽を抱く月」の中核を成すテーマなのだ。この慰めにも似た答えは、ただ一人を一途に愛する女性のそれとは違って、はるかに強くて主体的なものだ。相手のせいでなはないと月を慰めるのは、結局自分が招いた災いを無責任に眺める太陽を正当化するだけだ。すなわち愛を通じて責任を回避しようとするナルシシズムであり、また違う形の甘いファンタジーだ。「太陽を抱く月」を動かす最も大きい力である運命を克服できるのは、結局、冷笑(フォン)だったり、回避(ヤンミョン)しないで、自身の選択に責任を負う男性主人公の覚醒だけなのだ。また、それだけが目的ではなく、自分を正当化する手段として愛を利用しようとする、偽物の恋を克服する方法だろう。/記事:ウィ・グンウ
「個人の趣向」 vs 「個人の趣向」 他人に対する礼儀
MBC「個人の趣向」の登場人物たちにとって、各自理想とするものがある。チョン・チノ(イ・ミンホ)は人間と空間が調和するように共存する建物、そしてパク・ケイン(ソン・イェジン)は一人のための温かい家具を夢見ている。しかし他人との関係の中では、彼らの動作原理は必ずしも理想的ではない。ケインはそれが誤解であっても真実であっても、チノがゲイだということを公表、一方のチノはケインの無神経さに負けず劣らず気難しい性格を持つ。常識的な状況だったら、絶対に分かりあうことはできそうもないこの二人は、ロマンスという万能パスポートのおかげで恋に落ち、恋人となる。しかしあなたは果たして、彼らが愛し合うということを理解できるだろうか。ケインのアウティング(他人が同性愛者だとばらすこと)事件をただのハプニングだと笑い飛ばすことができるだろうか。この疑問に対し、10asiaのチェ・ジウン記者とキム・ソンヨンTV評論家が答えた。/編集者注パク・ケイン(ソン・イェジン)はお一人様専用の家具専門デザイナー。主に子供用の家具を作っている。この仕事自体、彼女のキャラクターに対する隠喩だと言える。5歳の時に母親を亡くしたケインは、傷ついた子供から一歩も成長できずにいる。彼女が一人で作業室で作る売れないシングル用の家具は、自分の世界にだけ閉じこもった自らの姿のようだ。でも未熟で閉鎖的な人物は、ケインだけではない。父親を亡くした後、前だけを見てひたすら走ってきたためいつまでも子供であるチョン・チノ(イ・ミンホ)も、唯一の愛の記憶に留まったまま父親と対立するチェ・トビン(リュ・スンリョン)も、意志の疎通が上手くできずに自分だけの世界に孤立しているという点は同じだ。意図的な設定の中では「個人の趣向」の向かう先は孤独で破片的な個人が、結局は人と交流し心を開いていくという話だ。もっともこの意図が作品内で成功したのか、という点はまた別の問題だが。ケイン、他人と並んで座るこの作品の理想が象徴的に込められている空間は、伝統家屋サンゴジェだ。互いを恋慕する所という意味のこの場所は、元々ケインの父親パク・チョラン教授(カン・シニル)の願い通り、彼の妻と子供が夢を見られるような小さな家だった。家の作りが広く見える窓ガラスと空間を繋ぐ床は、家族どうしが交流する空間としてのサンゴジェの性格を視覚化している。しかしここは、悲劇的な事件の後、心を閉ざした人物のように、外部の人には数十年間も公開しないという閉鎖的な空間になってしまっていた。ここを再び開かせたきっかけは、タム美術館のプロジェクトだ。サンゴジェを核心的なコンテンツとするこのプロジェクトが目指す空間もやはり、他人と一緒に夢を見ることができる家だ。この企画を遂行するチェ・トビンがチノに注目したのも、彼が自然と人の調和を話したためだった。いわば「個人の趣向」の建築の話は、結局調和の美学を軸に考える韓国の韓屋のように、破片化された孤独な人々の交流と理解というドラマのテーマが込められているのだ。このような交流は、閉鎖的な人物がいつのまにか他人と肩を並べてお互いの本心を打ち明けることから始まる。契約当時、指定された空間外の領域は侵さないようにとしたケインだが、チノとサンゴジェの床に並んで座り話をする時間が徐々に多くなるにつれて、彼に心を開くようになる。そしてこのような場面は他の人物との関係においても繰り返される。ケインとトビンは美術館の椅子に座り、コーヒーを飲みながら片思いについて話をする友達になり、トビンとチノは釣り場に共に座り、初めて真面目に話をした。チノが済州島でトビンに自身がゲイではないということを告白した時も、二人は同じ方向を見ながら、並んで座っていた。劇中では一番社交的で明るい二人イ・ヨンソン(チョ・ウンジ)とノ・サンジュン(チョン・ソンファ)が、向かい合って座りおしゃべりをする姿とは対照的だ。自身の世界が強く、好みも性格も違うケインたちは、生半可に向かい合うよりも、並んで座り本心からの対話でもってお互いを理解する方式を選んだわけだ。個人の趣向よりも大切なものしかし「個人の趣向」はたびたび、自閉指向と他人に対するおせっかいという両極端を行き来するケインのキャラクターのように、理想的な設定と実際の展開との間で矛盾に陥る。 一番の問題は、人が他人と関わる前に、その領域を頻繁に侵犯しているといった点だ。序盤のケインは、「ノックしてから入ってきて」と叱られるほど、時をわきまえずにチノの部屋のドアを開け、「ひっつくな」と言われても寄り添い、彼の電話を盗み聞きしたりもした。このような行動は、数回にもわたる無神経なアウティング事件に続く。さらには、ささいなシーンにおいても他人についてやたらむやみに話す人が登場する。サウナでキム・イニ(ワン・ジヘ)をけなす年配女性や、男装したケインとチノを見て「あのように素敵な男がなぜあんな女と一緒にいるのか分からない」とわざと聞こえるように言う隣の席のカップルなど、アウティングに負けず劣らず不快な場面が見られる。何よりも、他人についての理解を話す企画意図と一番ずれている点は、ケインとチノに負けず劣らず、家族間とのトラウマと陰を持つ人物チャンニョル(キム・ジソク)とイニが四角関係になる恋愛の中で、陳腐な悪役あるいは妨害者としてにだけ使われてしまったということだ。またケインとチノのロマンスが、女性側からの度が過ぎた依存関係にのみ描かれているということは、とても残念な点だ。制作スタッフに今一番必要なのは、個人の趣向は他人に対する礼儀を守る時にのみ尊重されるということを悟ることだ。/記事:キム・ヒジュ世界中の数多くの恋愛小説は、4行で要約する事ができる。男性と女性がいる。彼らは避けられない事情により同棲することになった。喧嘩をする。そして恋に落ちる。MBC「屋根部屋のネコ」に続きKBS「フルハウス」のヒットと共に本格的に取り上げられてきた同棲をテーマにしたラブコメディの構成はだいたい似ている。このジャンルの長所は明白だ。性格も好みも全く違う男女が自然に日常を共有し、お互いの魅力に気づく過程はそれだけでも類似した恋愛へのファンタジーを呼び起こす。一つ屋根の下に住む大人の男女にとって適度の性的な緊張感が伴うことは、当然なことだ。しかしここには明らかな短所もある。繰り返されるパターンにあきられるということだ。 そこでMBC「個人の趣向」は陳腐さを解消するために奇異的な変奏を選択したのだ。政治的な公正さより陳腐なロマンス同名の恋愛小説を元に原作者イ・セイン作家が書き下ろした「個人の趣向」では、ケイン(ソン・イェジン)はチノ(イ・ミンホ)をゲイと誤解する。重要なプロジェクトを成功させるために、ケインの住むサンゴジェに必ず入らなければならないチノは、誤解を解くことなく彼女との同居を選ぶ。作品の前半部分を占めるゲイの誤解騒動がどんなに暴力的で、同性愛者へ歪曲されたイメージを植え付けるのか、一つ一つ説明することは不可能なことだ。当事者には社会的な死になるとも言えるアウティング問題を軽いハプニングとして使い、数年前アメリカのドラマで流行したゲイの友人というファンタジーが斬新なテーマのように登場するこのドラマでは、ゲイはひたすらコードとしてのみ存在する。ゲイとして設定されたチェ館長役を演じたリュ・スンリョンの誇張されることのない繊細な演技だけが、唯一真剣に表現されていると言えるだろう。しかし、このように政治的に正しくないという視点を別に置いても、ラブコメディとしての「個人の趣向」における決定的な問題は、様々な騒動の中でも主人公が恋愛関係にならなければならない理由をまともに描き出すことができなかったという点だ。ただ少し気難しいといった点を除けば、完璧な男性として描かれたチノに、ケインが思いを寄せる根拠となるシーンは数回登場するものの、チノが「僕の母親ととても似ている」と話し、ケインと友達になり「正直で純粋な」ケインの魅力に気づくといった風の緩い感情を挽回できるのは、暴風のようなキスシーンだけだ。ケインを無惨に捨てておきながら、頬をぶたれただけで戻ってきて心を改めるチャンニョル(キム・ジソク)や、ケインからチャンニョルを奪ったものの再びチノにすがるコミュニケーション能力に乏しいイニ(ワン・ジヘ)、チノの婚約者を自負するヘミ(チェ・ウンソ)など、ロマンスの妨害者らがやはり登場するものの、ケインとチノの感情には特別な影響を及ぼすことはできない。 山積みになった課題はさらに頭が痛い10話を過ぎたあたりで、チノがゲイではないということを伝え、ケインに愛を告白することで、「個人の趣向」は新たな局面を迎える。序盤のパク・ケインを女にするプロジェクトや恋愛シュミレーショントレーニングに対し、恋愛らしい恋愛という面では、済州島デートなど後半の展開はジャンル的な強みをよく活用していると言える。しかし前半部分で見せられなかった二人のロマンスを満たさなければならない場面で、ケインとの関係を反対するチノの母親(パク・ヘミ)やチャンニョルのケインに対する執着、そしてサンゴジェとタム美術館プロジェクトなど、数多くの課題が山積みになり、チノとケインは相変わらず不必要な誤解と和解を繰り返していた。もちろんそうとは言っても「個人の趣向」は同時間帯の3本のドラマの中で常に2位をキープし、ラブコメディ特有の魅力も持つ作品だ。しかし問題は、それがパク・ケインとチョン・チノから出てくるものと言うよりも、ソン・イェジンとイ・ミンホのため、という点にある。/記事:チェ・ジウン
「王女の男」 vs 「ペク・ドンス」 若き時代劇の行く末
KBS「王女の男」、SBS「ペク・ドンス」、MBC「階伯(ケベク)」、KBS「広開土太王」まで、放送局3社の全てが時代劇を放送している。時代劇ブームという言葉さえ新鮮味に欠けるほど、時代劇は長い間ドラマ市場でリスクの低い投資対象と見なされてきた。比較的安定して視聴者層を確保でき、MBC「宮廷女官チャングムの誓い」や「善徳女王」のように国民のドラマとなる可能性も他のジャンルより高い。しかし伝統的な時代劇の構図を新しい方向へと塗り替えたKBS「チュノ~推奴~」の後からは安定性よりも新しさを武器にした時代劇が登場した。現在は正史にドラマとしての想像を加えたり、歴史的な事実をひねったフィクション時代劇、「王女の男」と「ペク・ドンス」が人気を集めている。この二つのドラマが、フィクション時代劇と言う課題をどう解き進めているのか。「10asia」のキム・ヒジュ、ウィ・グンウの両記者が考察してみた。/編集者注第10話の最後のシーンでスンユ(パク・シフ)はセリョン(ムン・チェウォン)の首を絞める。涙が溢れそうな目で首を絞め、絞めつけられる男女の愛。これがKBS「王女の男」の世界である。「王女の男」は、王位を狙うスヤン大君(キム・ヨンチョル)が政敵であるキム・ジョンソ(イ・スンジェ)を殺害するクーデター(癸酉靖難・ゲユジョンナン)を中心に、スヤン大君の娘であるセリョンとキム・ジョンソの息子であるスンユ(パク・シフ)の悲劇的な恋を描くフィクション時代劇である。想像を加え歴史を新しく解釈するフィクション時代劇は、素材の枯渇を打ち消す様々なストーリーと映像を見せてくれる。その中でも「王女の男」は、父親と政治、そして運命といった障害にぶつかった人物たちが葛藤しながらも克服しようとする中で生まれる緊張感を、切ない愛と運命に歯向かう自由意思として積極的かつ巧みに利用している。恋愛時代劇にとどまらず「王女の男」のストーリーは、これまでの正統派時代劇で主人公を務めていた父親たちの政治的な軋轢からスタートしている。主人公たちの恋愛の始まり、苦難、予想されるラストに至るまで、その全てが彼らの父親から始まっていると見てもいい。「玉座に耐え得ることの出来る者が王」だと考えているスヤン大君が己の野望のためにキム・ジョンソの元へ縁談を持ち込み、その結果将来の夫を確認するためにセリョンは王女のふりをしてキム・スンユと出会っている。キム・スンユもまた父のキム・ジョンソがムンジョン(文宗)側に立ったため、セリョンやキョンへ王女(ホン・スヒョン)と出会い、歴史の渦に巻き込まれてしまう。シン・ミョン(ソン・ジョンホ)もまたそうである。「誰よりもこの朝鮮を上手く統治する自信がある」と語るシン・スクジュ(イ・ヒョジョン)の野心によって、その息子シン・ミョンは竹馬の友スンユへ刃を向ける。もちろん父親たちが対立する理由も単に個人の栄華や大儀のためだけではない。セリョンのために「子を亡くした悲痛な父親の刃が何処へ向かうと思うか」とキョンへ王女に強迫するスヤン大君や、「子の命乞いをしに来た」とスヤン大君の前でひざまずくキム・ジョンソにとって、子供の安否もまた重要なことなのである。ただ、この非情な父親たちは結局は自身の野望のために子供の恋や信義を利用し、「お家の命運がお前に掛かっている」と圧力をかけている。結局「王女の男」に登場する人物が経験する苦難とは、父親と言う名に置き換えられた運命そのものである。父親の代で狂った運命は子供たちを縛る足かせとなり、親子の関係を簡単に捨てられない彼らの苦しみが一層胸を締め付けるのだ。そしてこの運命から逃げようともがく事で始まる悲劇の開放こそが「王女の男」の原動力となるのである。父親たちの圧力にも屈せず、キム・スンユとセリョンは馬に乗り、クネ(ブランコ)で遊び、投獄され、血書を書きながら、何の迷いもなく生と死をお互いに許しあう、つまり自由になろうとするのである。見知らぬ男女が出会い愛しあうことこそが天の意思であるとすれば、彼らの愛は天が定めた運命であると同時に、時代が定めた運命に抗おうとする抵抗なのである。同じ空を仰いでは生きていけない仇敵同士の子供が落ちた悲劇的な恋。その恋自体だけでなく、その裏にある運命に翻弄される人間の、それでも譲れない自由な意思に対する問いかけこそが、このドラマを単なる恋愛時代劇にとどまらず、魅力的な物語に仕立てているのである。フィクション時代劇における道しるべに成り得るかだからこそ、これから「王女の男」が背負うべきものも人物たちのそれのように重いものがある。「頭の痛い父親たちの世など、知らんぷりして生きよう」と言ったキム・スンユだが、自分の父親が市中でさらし首にされても仇敵の娘を愛することが出来るのだろうか。セリョンも自分の父親が彼の父親を殺しているのに、恋心を胸に無邪気に笑うことが出来るのだろうか。癸酉靖難と言う歴史的な事件の重みは血生臭い恋愛物におけるカタルシスを最大限に利用しているが、それが最後までストーリーを牽引する要因になれるのだろうか。セリョンの正体を知ったキム・スンユは理性を失った。彼にとって死んだ父親は、生きていた頃よりも重い足かせとなるだろう。父親の非情な顔を見てしまったセリョンも然りだ。そのため正気では耐えられない運命の重みと共に始まる第2幕に期待を抱きながら不安も覚える。最後まで力強いストーリーを繊細な感情を生かしながら描けるのだろうか。もしそれが出来るのならば「王女の男」はフィクション時代劇において、意味のある道しるべになれるかも知れない。/記事:キム・ヒジュ「私が朝鮮を動かした実勢であり歴史である」朝鮮最高の秘密結社黒砂提燈の隊長であるチョン(チェ・ミンス)は自分の後継者であるヨウン(ユ・スンホ)にそう語っている。もちろん彼は朝鮮史のどこを捜しても記録などない仮想の人物であるが、SBS「ペク・ドンス」の世界では彼の言葉に嘘や虚勢はない。穀物を貯蔵した蔵に閉じ込められて亡くなった思悼世子の命を奪ったのも蔵ではなくチョンの剣であるし、彼の剣にかかったのも思悼世子が清国に対抗する北伐の夢を抱いたからである。思悼世子を攻撃するホン・デジュ(イ・ウォンジョン)一派の政治的な操作や思悼世子に濡れ衣を着せようとする策略は度々失敗するが、最高の暗殺者にはミスなどあり得ない。つまり、ドラマの中で刀は政治的な葛藤を解決する最後の解決策となるのである。刀の操り手もそれを知っている。こうした仮定そのものが、仮想の事件や人物以前に、フィクション時代劇である「ペク・ドンス」の土台をなす最も重要な想像なのである。新しい解釈と想像が発揮されたフィクション時代劇KBS「チュノ~推奴~」で主人公たちの振り回す刀は、政治的な公論の場に入れない者たちの選択肢のない最後の手段であった。だが、「ペク・ドンス」での刀は、政治的な手段を持っても制約する事の出来ない絶対の力である。最高の権勢を誇るホン・デジュでさえも身寄りのない剣仙と言われるキム・グァンテク(チョン・グァンリョル)にはコンプレックスに近い恐れと警戒心を抱いている。キム・グァンテクは義兄弟であるペク・サグィンの斬首を止めることが出来なかった。しかし彼は刑場に飛び出て官軍を撹乱し、自分の腕一つと引き換えに幼いペク・ドンスの命を救う。このシーンはある意味で大変象徴的である。朝鮮一と言われる剣客の身体一部は、大逆罪人の子の命と引き換える事の出来る政治的なカードになり得るのである。肉体的な強さがそのまま権力に置き換えられる世界。だからこそ、キム・グァンテク、チョン、その他の最高の使い手たちは敢えて政治的な欲望を持つ必要がないのである。権力とは獲得する何かではなく、本人たちの持っている武の実力、それ自体なのだから。それ故、政治的に重要な人物たちは政治的な論理ではなく剣客の法に従って動くのである。全ての陰謀の頂点に立つ政治家のホン・テジュよりも堕落した武士であるイン(パク・チョルミン)がより卑劣に描かれているのは決して偶然ではないのだ。そのため、このフィクション時代劇は、歴史についての新しい解釈や想像というより、歴史的な人物を主人公にして作った平凡な武侠紙(武術の優れた剣客同士の戦いを綴った小説や漫画など)に近いのである。ここで問題なのは武侠紙ではなく平凡さである。フィクション時代劇で歴史的な事実をひねるのはもう新しいとは言えない。しかし、ジャンル的な典型性を持って歴史的な脈略を消し去るのは別の問題である。思悼世子の死がノロン(当時の臣下の政治一派)や王権の対立という言われ尽くされた事実に北伐を盛り込んだ想像力は興味深いものがあるが、それだけである。思悼世子が兄の孝章世子の意志を引き継ぐ理由がドラマの始めに短い場面で説明され、多くの人々が命を賭けて捜そうとし、守ろうとした北伐の計も最終的には女性主人公であるユ・ジソン(シン・ヒョンビン)の運命の数奇さを表すための視聴者の気を引くマクガフィン(登場人物の動機づけや話をすすめるために用いられる仕掛け)として使われているだけだ。あまりにも長い道のりを、あまりにも白々しく帰ってくる16話を過ぎても主人公のペク・ドンス(チ・チャンウク)の成長が殆ど描かれていないのは、それが残念だという以前に必然的なものでもある。先に武人がこのドラマで占める絶対的な地位について話しているが、英雄になる武士の物語ではなく、武士が即ち英雄である物語では「ペク・ドンス」は、とどのつまり「英雄ペク・ドンス」になる。しかし英雄の成長物語はどこかに消えてしまった。彼は思悼世子の北伐の意思を守るために亡くなった父親ペク・サゲンの有志を敢えて継承したりはしない。彼の出生の秘密などは、一目見ただけでキム・グァンテクの武術、ホペスルを習得したその天賦の才能、それを説明するためだけに必要なものだった。そのため、ペク・ドンスとヨウンが師匠の武術レベルまで到達し残ったのは、16話までの間に自分の信念を作り上げてきた二人の主人公ではなく、ドラマの序盤から続く武士と暗殺者の対立なのである。さらには「その違いが分からない」と言うチョンの告白のように、武士と暗殺者を区別する基準でさえヨウンが持って生まれた殺傷能力を頼りにしている程である。もちろん前髪をなびかせるヨウンと一段と大人になったペク・ドンスの殺陣には好奇心を刺激するものがある。しかし、その好奇心のためだけにあまりにも長い道のりを、あまりにも白々しく帰ってきたのだ。/記事:ウィ・グンウ
「美男ですね」 vs 「美男ですね」 アイドルの世界、子どもたちの本心
アイドルはいつもエンターテインメントの花であり、主人公であるわけだが、2009年は特にアイドルの年と言っても過言ではなかった。若者からおじさんまで、男性の心をときめかせたガールズグループが次々と登場し、世代交代を宣言したボーイズアイドルも次から次へと誕生した。大人もアイドルファンだということを公に宣言できるようになった今日、アイドルより確実なヒットメーカーも見当たらない。バラエティ番組や映画、ドラマにもアイドルの一人や二人は出演させてこそ、メンツが揃ったと言われるほどだ。そしてついには、アイドルのための、アイドルによるドラマまで登場した。SBS「美男ですね」は、アイドルの恋愛という非現実的で甘いストーリーを、その分野を得意とするホン・ジョンウンとミランのホン姉妹が、ハツラツとした理想的な世界を描き出している。このドラマに登場するファンタジーに近い彼らの存在は、冷酷な芸能界という現実の中でも純粋さを失わなかった。だからこそ、アイドルの以前に、子どもたちの本心を見せる事が出来た。しかし彼らはいつまでその世界を守ることができるのだろうか? 「10asia」のカン・ミョンシック記者やテレビ評論家のユン・イナさんが放送も折り返し地点を過ぎた「美男ですね」を分析した。/編集者注芸能人でもなく絶世の美少女でもない平凡な女の子が、人気絶頂のアイドルグループのメンバーと恋に落ちる条件はなんだろうか。ある法則によると、ビンタされた男が「僕を殴った女は君が初めてだ」とかなんとか言ったり、平凡で何も知らない純粋な少女としての魅力を見せたり、共に過ごす時間と場所が必要なのは確かだろう。学校やテレビ局と言った様々な空間の中で、ファンの夢を最も完璧に実現できる究極の空間、それは寮である。テレビ画面や雑誌のグラビアなどでは絶対に満足させることのできない、スターの日常がある場所。そこへ入るためにファンたちは数多くの妄想の中で、寮のお手伝いさんになったり、家庭教師になったりする。もちろんその中でも最高なのは男装した女の子である。お兄様たちと気軽に先輩・後輩となり、同性と異性の狭間の微妙な感情を行き来するドキドキ。「美男ですね」は、はじめからこうした妄想さながらの設定から始まっている。「美男ですね」は、双子の兄の身代わりでアイドルグループに入った少女が様々な事件に巻き込まれながら少しずつ成長し、恋にも成功するという女の子のファンタジーなのである。アイドルの現実に忠実なファンタジーしかし、だからと言って「美男ですね」がいわゆる胸キュンな場面だけで出来ていると思われては心外だ。このドラマの脚本を担当したホン姉妹は、あえてファンタジーを描かなくとも、芸能界その物が巨大な別世界だと言う事をよく知っていたようだ。確かに「美男ですね」で描かれる芸能界や芸能プロダクション、アイドルやファン、そしてこれらを取り巻くマスコミの姿は、だいたい誇張されている。だが、その誇張された姿の中には、実際の芸能界とそれを取り巻く関係から見る事のできる、本質に近い姿が隠されている。アイドルを含めた芸能人のプライバシーはほとんど守られず、ファンたちは力強い協力者でありながらも前半での美男(パク・シネ)に対する行動のように、潜在的なアンチの要素も秘めている。記者たちは「知る権利」という曖昧な言葉で地下の駐車場や舞台裏、寮にカメラを焚きつけ、一般人は鼻血が出ようが転ぼうが携帯のカメラで彼らを写すのに夢中になる。こうした世界で、せいぜい20代前半のアイドルたちはテギョン(チャン・グンソク)のように悪ぶってとげとげしくなったり、ユ・ヘイ(ユイ)のように偽善的な振る舞いをする。妄想のような設定と、少女マンガのような内容の「美男ですね」は、こうして現実との接点を作っている。確かに今のアイドルグループは大邸宅を彷彿とさせる宿舎ではなく、テギョンの部屋の広さくらいの寮に二段ベットを置いてギュウギュウと暮している。しかし彼らの心配や悩みは、ドラマの中でA.N.JELLが表現した悩みと大して変わらない。時に彼らは気に食わない曲も歌わなければならないし、恋愛は監視され、ある時には利用されると知っていても逃れる術がないのだ。「美男ですね」が芸能界の裏話を露骨に表現しようとしていないにも関わらず、ストーリーがどこかリアルで雲を掴むようなファンタジーに流されていないのは、こうした理由があるからだ。特に今のアイドルグループがそうであるように、それぞれのメンバーがはっきりと作られたキャラクターとそれをオーダーメイド服のように着こなしている幼い俳優たちの演技は、ファンタジーのようなストーリーに現実味を与えている。また同時に、真実と偽りの境界が曖昧な世界で、拠り所のない幼い星たちがお互いを好きになるその心の動きを、非常に自然に表現している。好きになるしかない星たちの本音自分に向かって吐いたり、自分の部屋に唾を飛ばすなどとしたミナムの行動は、それまで頑丈な壁を持っていたテギョンにとっては壁を打ち破るばかりか、「僕を殴ったのはお前が初めて」以上の衝撃を与えただろう。子どもの頃から何をしても国民という修飾語を常に背負う負担を抱えて来たユ・ヘイにとって、自分を有りのままに受け入れてくれるテギョンは特別な存在になるしかない。絶対に手の届かない星を眺めるファンの気持ちでテギョンを心から見つめるミナムや、早くに知ってしまった秘密を隠そうと自分の秘密を話してケジャブン(親しくなった)ミナムを傍で見守るシヌ(ジョン・ヨンファ)、自分だけの方法で好きだよと言えるジェルミ(イ・ホンギ)。みんなは、許された時間の中で自分たちの感情を育てた。ファン・テギョンとユ・ヘイのキスシーンを見てショックを受けたミナムにシヌは、そうした感情は「悪い事でもないし、特別な事でもない」と話した。そのように「美男ですね」はスターたちの暮らすファンタジーの世界を描きながらも、その世界で生きて行く人々をビョル(星)のようには描かない。その代わり、青春のキラキラ光る恋が生まれる瞬間を表現し、そのスターたちに恋をさせてしまうドラマなのである。そのスターの本当の姿はどんなものかも知らず、彼らの放つ瞬間の光に魅せられてファンになるように。/記事:ユン・イナ天のシスターが地上の天使を揺り起こすだろう。SBS「美男ですね」は、シスターになろうとしたコ・ミナム(パク・シネ)が、アイドルグループA.N.JELLのリーダーであるファン・テギョン(チャン・グンソク)に向かって落下することから始まる。一度目は酔っ払って屋上から、二度目はポータブルメディアプレーヤーを捜そうとよじ登ったトラックの上から落ちる。この二度の衝突により、カトリック教会のシスターは双子の兄に代わってアイドルグループの少年・少女になり、潔癖症のアイドルは初めて異性とのスキンシップを経験する。そしてアダムに禁断の果実を与えたイブのように、コ・ミナムはファン・テギョンにリンゴを与え、まるで性別を感じさせなかった芸能界の天使長に「テギョンさんも男だったんですね」と言われるようにしてしまう。そのため「美男ですね」は自らマスコミプレーをするプロのアイドルたちのドラマであり、未だに水鉄砲で遊んだり、作曲は必ず鉛筆でするような子どもたちのお話なのである。子どもの世界、大人の逃げ場カリスマのあるリーダー、ファン・テギョンも、ずる賢く自分を装うユ・ヘイ(ユイ)も好きな人の前では感情を表現出来ない小学生レベルの恋愛をする。もちろん「美男ですね」は、性格の悪いアイドルスターが純粋な性格の男装した女の子に引かれるという胸キュンな恋愛物のお決まり要素は満載だ。しかし「美男ですね」はこうした定番ながらも、初めて恋愛と喪失を経験する子どもたちの心の動きを見つめている。自分の前でだけ笑うファン・テギョンへの感情を恋ではなく電気だと表現するコ・ミナムのドキドキは甘く、数メートル前でコ・ミナムへの告白チャンスを逃したカン・シヌ(ジョン・ヨンファ)の喪失感は大人の恋愛よりさらに痛い。誰にも心を開かなかった男が自分だけに笑ってくれた瞬間は、たとえ感情移入はできなくとも、昔私たちが経験したことのある、落ち込んだり傷ついたりした、忘れられない初恋を思い出させる。そんな彼らの愛しさを、見守らずにはいられない。「美男ですね」は子どもたちの成長エネルギーを心臓が爆発しそうな恋愛物に置き換える事で、最も定番化された設定から新鮮な感情を引き出している。その一方で、子どもたちの世界は大人のための逃げ場でもある。「美男ですね」に登場する大人たちは、A.N.JELLの社長(ジョン・チャン)やマネージャー(キム・イングォン)のようにどこか抜けていたり、コ・ミナムの伯母さん(チェ・ラン)のようにお金目当てで近づいて来ては、A.N.JELLのファンにメンバーの品物を売りつけるなどと、自分の欲を満たすことに忙しい。子どもたちは誰にも守られる事はないが、だからこそ彼らは世間を自分の目線まで引き下げることが出来る。絶えず幼稚な想像が行き交い、人気絶頂のアイドルグループなのに寮で恋愛ばかりをしていられるゆとりのあるスケジュールとなっている。コ・ミナムとファン・テギョンの仲を妨害するユ・ヘイの小学生じみた計略が最もひどい陰謀になる世界。その点は、「美男ですね」の脚本家ホン姉妹の前作「快刀ホン・ギルドン」(KBS)とは対極にあると言える。コ・ミナムのように世間に疎かったホ・イノク(ソン・ユリ)がホン・ギルドン(カン・ジファン)との出会いで始まった「快刀ホン・ギルドン」は、子どもたちが貪欲な大人の世界に立ち向かう物語だった。一方「美男ですね」の子どもたちは、まともな大人のいない世界で、大人と戦うよりは気の進まないバラエティ番組に出演するといった、芸能界という世界を受け入れる代わりに、自分たちの世界の中で心の行くままに生きる小さな自由を手にしている。革命は失敗し、子どもたちはメンバーとマネージャー、寮が全ての彼らの世界へと帰っていったのだ。純粋さと現実の出会う瞬間そうした点から「美男ですね」は、非現実性とは関係なしのアイドルドラマである。大人たちがアイドルを見て世の中の憂いや嘆きを全て忘れた今年、「美男ですね」も同じ方法で私たちを慰めてくれる。常に変わった感性と真剣な恋愛感情を同時に描いてきたホン姉妹は、「美男ですね」によって最も軽いスタイルの、最も純粋な子どもたちの恋愛を扱った。現実の悩みや悲劇は最小限に抑え、楽しくペンジル(ファン(=ペン)として二次創作を書いたりすること)の出来るアイドルの恋愛だけを残した。ただ、この純粋な世界がいつまで続くのか、それは分からない。「美男ですね」の第8話では、ミュージックビデオの撮影を理由にキャラクターを一つの空間に押し入れ、ファン・テギョンとコ・ミナムの恋愛話を繰り返した。新しい事件もなく、二人の押し問答が繰り返されただけだった。現実的な本題を避ければ避けるほど、恋愛感情の純度は高まるのだろうが、ドラマは前に進む事が出来ない。まだコ・ミナムがコ・ミニョだという事実もはっきりと明かされていないこのドラマで、子どもたちはいつ何処で本当の現実と出会うのだろうか。その瞬間の現実味をどう出すかによって、「美男ですね」は中だるみしてきたストーリーを取り戻せるかが決まるだろう。/記事:カン・ミョンソク