「太陽を抱く月」 vs 「太陽を抱く月」宮廷ロマンスで描かれる恋愛模様
ドラマで初恋とはものすごい力を発揮する。いくら月日が経とうとも、どんな邪魔が入ろうとも、主人公二人の関係をより深いものとしてお互いを強く結びつけている。お互いにとって初恋の相手であるフォン(キム・スヒョン)とヨヌ/ウォル(ハン・ガイン)。この二人のハッピーエンドという流れは最初から決まっていたようなものだった。MBC「太陽を抱く月」でこの流れを邪魔するものは、結局この二人の「床入り」と、その日にもう少し劇的な効果を与えるための一種の演出装置に過ぎないということだ。宮廷での争いも、大臣たちの陰謀も、その日を支持したり阻止するための手段であるこの奇妙な時代劇を「TV vs TV」で取り上げてみた。テレビ評論家のチョ・ジヨンは「太陽を抱く月」を恋愛ドラマとした視点で評価し、ウィ・クンウ記者は愛を自己正当化の手段として使う男性主人公にスポットライトを当てる。/編集者注
登場人物の関係を見てみると、恋愛において消極的な王がどんな態度を取るかが「太陽を抱く月」の展開を大きく左右させる。王や王妃、ウォル、この3人は立派な大人に成長したにも関わらず、体の関係を持ったことがないという奇妙な設定が「床入り」に対する関心を高めている。あらゆる理由でこの「床入り」のシーンが先延ばしにされているが、これは「トワイライト」シリーズでも中核テーマとして取り扱われている。女性視聴者たちはウォルに感情移入することができなくても、フォンに対しては彼の幸せを祈る。すべてを持っているようで実は何も手に入れてなかった男、不可能なことはないように見えるが、実は何もできなかったこの男の心の苦痛が消えることを、祈らずにはいられないという気持ちになってしまう。女性を困難な状況から守り、幸せをくれる“王子様”はこのドラマでは見当たらない。いつからか、女性と男性の立場が変わっている気がする。SBS「シークレット・ガーデン」のキル・ライムがキム・ジュウォンを守っているように、ウォルもフォンを守ることができるだろうか?ドラマも中盤に差し掛かった今“誰が世子嬪(世継ぎの嫁)になるのか”“いつ誰と夫婦の契りを交わすのか”に対する答えだけでは足りない。男女の恋愛模様をもう少し掘り下げていく必要がある。悲しい表情をクローズアップすることや、切ないバックミュージック以外に「太陽を抱く月」が見せなければならないことは多いはずだ。/記事:チョ・ジヨン
純情な初恋について深く語るつもりはない。しかし、朝鮮の王として責任をまっとうすることができないフォンに、純情という価値は彼に都合のいい逃げ道を与えている。幼いフォン(ヨ・ジング)は大王大妃(キム・ヨンエ)に「世子(王太子)が動いて幸せになった人は誰もいません。その子(ヨヌ)が不幸になることがあれば、それは僕のせいです」と訴える。それは間違っていない。アリ(チャン・ヨンナム)はヨヌに太陽に近付いてはいけないと話しているが、濡れ衣を着せられて処刑された義城君(ウィソングン)のように王の傍にいるということは本来危険なことだ。意図した結果と異なっても責任を負うのが王の役割だ。しかしフォンは官僚をあざ笑い、責任を負うことを拒否する。ここで自分のせいで死んだ初恋人は、彼の優柔不断さを正当化する手段として使われている。フォンはボギョンに「あなたと、あなたの一族が望むすべての物を手に入れることはできても、俺の心を奪うことはできないでしょう」と言う。これは一見プライドが高いように見えるが、この言葉には心以外のすべての物は渡すことができるという意味が込められている。自分の命を捨ててもヨヌを助けると言った幼いヤンミョン(イ・ミノ)の心の叫びも同じだ。他のすべてのものをフォンに奪われた彼が、そう豪語できるのは、ヨヌは死んでしまってその言葉に対する責任を負わなくてすむからだ。
「人魚姫」以後、記憶喪失というテーマは恋愛ドラマの定番要素だった。特に韓国ドラマでは交通事故で大怪我をしていないにもかかわらず、記憶喪失となり運命を翻弄される男女を描いた物語が多い。失った記憶がいつ戻ってくるか、記憶喪失という事件に関わった人と、その事件で恩恵を受けた人がいつ罰を受けるかなど、ドラマの成り行きをハラハラしながら見守るのが視聴者の醍醐味だった。そんな記憶喪失という素材に視聴者も飽きた頃、恋愛ドラマならではの切なさと感動を与えてくれる「太陽を抱く月」が現れたのだ。
恋愛を前面に押し出している宮廷ロマンス
「太陽を抱く月」で描かれる記憶喪失は、恐らくKBS「冬のソナタ」以来、最も効果的な演出装置として機能している。ヨヌがウォルとしての人生を生きるという設定は「冬のソナタ」のジュンサン(ペ・ヨンジュン)がミニョンとしての人生を生きることで生じる混乱に似ている。そんな“定番中の定番の展開”に不自然さを感じない理由は「太陽を抱く月」がラブロマンスの王道を行く時代劇であるからだ。このドラマはよそ見せず“宮廷ロマンス”という一つの目標に向かって黙々と前進する。従来の時代劇と違って恋愛要素を前面に押し出している。皆韓服を着て冠をかぶっているが、ドラマの内容自体は軽く楽しいノリに仕上がっている。このドラマでは主人公二人の恋が中心で、それ以外の存在は背景でしかない。だから、王が仕事もしないでフラフラしていても気にならないし、母方の親戚をはじめとするずる賢い臣下たちと大王大妃(王の母)は二人の恋を邪魔する装置として登場するが、不自然ではない。そこに“渡しそびれた手紙”の演出が加わり、より一層切なさを増して、涙を誘う。ドラマ「宮~Love in Palace」とは違って仮想の王が登場したり、過去の時代を背景にしたりしているが、見る者は次第にこのドラマの世界観にハマっていく。これは時代劇のファン層が熱くなったということを意味する。「床入り」シーン以外の見どころは?
使い古された記憶喪失という素材からも分かるように、このドラマは“宮廷ロマンス”の王道を行く。しかし、従来のドラマでは見られない、女性主人公の“漁場管理(思わせぶりな言動・行動をとること)”と性的欲望が鮮明に描かれている。驚くべきことにこれはヴァンパイアロマンス「トワイライト」シリーズでも使われているパターンでもある。ウォルは色々な男の心を手玉に取る女性として描かれる。そしてフォンはすべての者の上に立つ王でありながら、誰と寝るのかも簡単に決められない男性として描かれている。彼の困った表情こそ「床入り」のシーンを政治的な行為や、単なる夫妻の床入りと考えないという証拠である。しかし、そのような考え方は女の専売特許だった。フォンが王妃(キム・ミンソ)に「俺の心を奪おうと思わないことだな」と言うセリフも、従来のドラマの中では女性のセリフだった。それ以外にも「太陽を抱く月」の女性たちは自身の欲望に忠実かつ積極的に従う。純真なミンファ王女(ナム・ボラ)も王妃に勝るとも劣らない狡猾な女性として登場する。登場人物の関係を見てみると、恋愛において消極的な王がどんな態度を取るかが「太陽を抱く月」の展開を大きく左右させる。王や王妃、ウォル、この3人は立派な大人に成長したにも関わらず、体の関係を持ったことがないという奇妙な設定が「床入り」に対する関心を高めている。あらゆる理由でこの「床入り」のシーンが先延ばしにされているが、これは「トワイライト」シリーズでも中核テーマとして取り扱われている。女性視聴者たちはウォルに感情移入することができなくても、フォンに対しては彼の幸せを祈る。すべてを持っているようで実は何も手に入れてなかった男、不可能なことはないように見えるが、実は何もできなかったこの男の心の苦痛が消えることを、祈らずにはいられないという気持ちになってしまう。女性を困難な状況から守り、幸せをくれる“王子様”はこのドラマでは見当たらない。いつからか、女性と男性の立場が変わっている気がする。SBS「シークレット・ガーデン」のキル・ライムがキム・ジュウォンを守っているように、ウォルもフォンを守ることができるだろうか?ドラマも中盤に差し掛かった今“誰が世子嬪(世継ぎの嫁)になるのか”“いつ誰と夫婦の契りを交わすのか”に対する答えだけでは足りない。男女の恋愛模様をもう少し掘り下げていく必要がある。悲しい表情をクローズアップすることや、切ないバックミュージック以外に「太陽を抱く月」が見せなければならないことは多いはずだ。/記事:チョ・ジヨン
「これが宮廷の中にある最も大きい穴だ」王であるイ・フォンは民の声が自分に届いていないことは、承政院(王命の伝達と履行の報告を王に行う官庁)に原因があると主張する。だが、最も大きい穴は彼の心にあった。「太陽を抱く月」で“太陽”を象徴するフォンはヨヌを忘れられずに悲しみ、王妃であるボギョン(キム・ミンソ)に心を開かない。愛する人がいなくなって悲しむのは当然のことだが、8年という長い年月が経っても忘れずにいるのは、ある意味で彼の“意地”なのかもしれない。
フォンがヨヌを忘れられない理由
ウォルと初めて出会った時から「以前にどこかで会ったことはないか」と尋ねるフォンも、ヨヌの兄、ヨム(ソン・ジェヒ)に「君の妹は私の記憶の中ではいつも十三歳のままだ」と話すミョン(チョン・イル)も、彼女のことを忘れられずにいる。しかし、彼らを悲しみから助けることができるヨヌは記憶喪失になってしまった。ウォルからヨヌを見つけようとするフォンに、彼女は「私の中に誰の痕跡を探してらっしゃるのですか?」と答えるだけだ。相手に持ってないものを出せというのも暴力的だが、初めて会った時から続いていたフォンの確認は、はるかに強迫的だと言える。それはウォルに対する確認であると同時に、自分が愛する対象は目の前のウォルでない、過去のウォルだということを繰り返して自分に確認させる行為でもある。ウォルが近付いてくるのも、遠ざかっていくのも嫌だと言うフォンのセリフは心に切なく響く。今一緒にいたい人はウォルだが、それがヨヌの記憶を飲み込むほど大きくなってはいけない。それは守らなければならない、一種の精神的純潔だと言えるだろう。純情な初恋について深く語るつもりはない。しかし、朝鮮の王として責任をまっとうすることができないフォンに、純情という価値は彼に都合のいい逃げ道を与えている。幼いフォン(ヨ・ジング)は大王大妃(キム・ヨンエ)に「世子(王太子)が動いて幸せになった人は誰もいません。その子(ヨヌ)が不幸になることがあれば、それは僕のせいです」と訴える。それは間違っていない。アリ(チャン・ヨンナム)はヨヌに太陽に近付いてはいけないと話しているが、濡れ衣を着せられて処刑された義城君(ウィソングン)のように王の傍にいるということは本来危険なことだ。意図した結果と異なっても責任を負うのが王の役割だ。しかしフォンは官僚をあざ笑い、責任を負うことを拒否する。ここで自分のせいで死んだ初恋人は、彼の優柔不断さを正当化する手段として使われている。フォンはボギョンに「あなたと、あなたの一族が望むすべての物を手に入れることはできても、俺の心を奪うことはできないでしょう」と言う。これは一見プライドが高いように見えるが、この言葉には心以外のすべての物は渡すことができるという意味が込められている。自分の命を捨ててもヨヌを助けると言った幼いヤンミョン(イ・ミノ)の心の叫びも同じだ。他のすべてのものをフォンに奪われた彼が、そう豪語できるのは、ヨヌは死んでしまってその言葉に対する責任を負わなくてすむからだ。
男性主人公はナルシシズムとファンタジーから目覚めろ!
フォンとウォル、あるいはヤンミョンとウォルが切ない眼差しを交わす瞬間さえ「太陽を抱く月」で描かれている恋愛模様がはっきりしてないなと思ってしまうのは、このように愛の対象が曖昧であるからだ。二つの太陽の愛は自己正当化につながる。世子フォンの補佐、ヒョンソンの突然の自殺に対して「今日僕のせいで人が死んだ」と告白したフォンが、ウォルを通じてあるいはウォルに投影されているヨヌを通じて聞きたかったのは「殿下のせいではありません」という答えだったのだ。これは前にも触れた大王大妃に訴えるシーンでも表れているように「太陽を抱く月」の中核を成すテーマなのだ。この慰めにも似た答えは、ただ一人を一途に愛する女性のそれとは違って、はるかに強くて主体的なものだ。相手のせいでなはないと“月”を慰めるのは、結局自分が招いた災いを無責任に眺める“太陽”を正当化するだけだ。すなわち愛を通じて責任を回避しようとするナルシシズムであり、また違う形の甘いファンタジーだ。「太陽を抱く月」を動かす最も大きい力である運命を克服できるのは、結局、冷笑(フォン)だったり、回避(ヤンミョン)しないで、自身の選択に責任を負う男性主人公の覚醒だけなのだ。また、それだけが目的ではなく、自分を正当化する手段として愛を利用しようとする、偽物の恋を克服する方法だろう。/記事:ウィ・グンウ- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- チョ・ジヨン、ウィ・グンウ、編集:イ・ジヘ、翻訳:ミン・へリン
topics