映画レビュー
記事一覧
【映画レビュー】観客1千万人動員の「国際市場で逢いましょう」は映画に過ぎないという人たちへ
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。ユン・ジェギュン監督の映画「国際市場で逢いましょう」が新年初の観客1千万映画になった。現在はある程度落ち着いたが、この映画をめぐる論争は公開前から激しかった。「国際市場で逢いましょう」にあの頃の父たちが受けるべき賛辞を代わりに送る人がいれば、粗末な構成を指摘する人もいた。また、監督の口で「政治的性向を排除した」と語るこの無色の映画が、誰かの思惑に利用される可能性について懸念する人もいた。あっという間に保守とリベラルの葛藤にまで広がった論争に人々は「映画は映画に過ぎない」と注文し始めた。これは「国際市場で逢いましょう」との映画のテキストのほかには、あの時代であれこの時代であれ、批判的な視線は辞めようとの言葉と違いない。実際「映画は映画に過ぎない」との理屈は、この論争を収拾する最も簡単な解決作だ。多くの人々が口を揃えるように「国際市場で逢いましょう」では、ユン・ドクス(ファン・ジョンミン)の至難だった人生に共感し、涙を流せばそれで十分かもしれない。しかし「映画は映画に過ぎない」との言葉の軽さが最大化される瞬間、これは便利に誰かの口を封じ込む手段になる。映画への批評の流れに無理やり入り込もうとするこの理屈は「国際市場で逢いましょう」への批判が、時代の流れに体を預けるしかなかった小市民であり、産業化の担い手だったドクスたちまたは、観客を侮ることとの誤解から始まる。「映画は映画に過ぎない、格好つけるな」だ。「国際市場で逢いましょう」を批判すると映画を観る視点が高いことが証明され、大泣きしたからといって映画のことが分からない知識の乏しい人になるわけではない。映画をありのままで楽しむ行為と、これを内外で批判することは全く別のことだ。また、私たちは、完璧ではないが、今日を共有する全世代の血と涙が滲んだ悩むことができる土壌の上で「国際市場で逢いましょう」を見る。そのように、誰もが悩んでも良い時代が作られたものの、今は父に関する話だから「映画は映画に過ぎない」と悩むことを辞めろという。それが産業化時代の労苦に感謝し、その時代を思う唯一な方法だろうか。そうするために再び悩むことさえも贅沢だった時代に戻るべきだろうか。ドクスを生かし、犠牲にしたのは時代ではなく家族ユン・ジェギュン監督のJTBC「ニュースルーム」とのインタビューを抜粋すると「国際市場で逢いましょう」は「政治的、社会的、歴史意識を持って始まっていない」映画だ。しかし、無色も色であり、無臭も匂いだ。さらに無色とは最も純粋に見えるが、最も染まりやすい状態でもある。「国際市場で逢いましょう」は自ら政治的色なしを主張したが、これは結果的にこの映画をそれぞれ好きなように利用できるようにする根拠となった。同映画でほぼ唯一解釈が分かれた、夫婦喧嘩の途中「国旗に対する敬礼」をするシーンを考えてみよう。誰かはこの状況を愛国心の表現だとし、誰かはこれを国家主義を批判する風刺だと評価した。これに対する監督の答えは「あなたも正しく、あなたも正しい」だった。監督は誰の機嫌も損ねたくなかったのだろうか。結局、このような答えはそれぞれの解釈が論争に広がる原因となった。また、これは1千万映画への監督の熱望が現れる部分でもある。我々はみんな父と母から受け継いだ人生を生きる。彼らが譲ったのは「食事を欠かすことはない」または「温かく、満腹な」経済的自由だけでなく、彼らの苦痛は「食べ物も着る物も足りなかった」肉体的苦痛だけではない。映画のドクスの「この厳しい世間の荒波を我々の子どもではなく我々が経験してよかった」との呟きは、自身の子ども世代に譲り渡したくない世の中に対する悩みから始まった、胸にしみる独白だ。そして、その世間の荒波とは、国家の権力に服従するしかなかった、本と音楽を自由に楽しめなかった、精神的な自由を奪われていた状況での苦痛まで含む。しかし、この映画はドクスの個人の歴史に近現代史の中の大きな事件をこじ入れたにも関わらず、彼が経験した苦痛の原因を完全に家族のものにする。三兄妹と妻を置いてマクスンを助けると興南(フンナム)埠頭から消えた父(チョン・ジニョン)は、幼いドクスの手に負えない罪悪感を与えた。ドクスに次々と押し寄せてくる苦難は決まった運命、または天変地異のように偶然的で、これを克服することはドクスの家族愛といわゆるタイミングだ。結局映画の中でドクスをはじめとする父たちを犠牲にしたのは、時代というよりは家族だ。ドクスを生かしたのも、犠牲にしたのも家族であることは当然のように受け入れられる事実であるため、さらに悲しい。しかし、そのようなドクスの苦痛を強調するために、残りの家族はどこまでも軟弱で我がままな人物に描かれ、時代的背景は完全に観客の感情的爆発だけのために所々切り取られた。実に軽く感傷的な描写だ。ドクスという人物の平面性をファン・ジョンミンの演技がせめて活かしたように見えるほどだ。そのため、このストーリーは「国際市場で逢いましょう」との空間が抱いている特殊性を揮発させ、どの国、どの時代にもありそうな千篇一律的な英雄物語になった。結局親時代の過ちはもちろん、功の表現さえも大雑把なものになり、あれだけ苦労していた父たちの過去は、如何なる時代的省察もなく、ただ2時間あまりの映画として消費されるだけだ。映画の中で父と尊い犠牲だけを読み上げて欲しいのであれば、奇皇后の名前と時代を借りる必要もなかったラブストーリーのドラマ「奇皇后」のように、あえてドクスの「国際市場で逢いましょう」である必要もない。そのため「国際市場で逢いましょう」が誰も簡単に触れられなかった父たちの過去の中で、映画にしやすい部分だけを切り取って販売したとの印象をなかなか拭えない。特定の時代が口にしてはならない聖域のように扱われることを望むわけではない。父の時代だけでなく、どの時代も省察と尊重のない浅い視覚を通じて「映画としてだけ観ることを強要される映画」で描かれないことを願うだけだ。世代間の論争が熱いこの映画の最大の教訓、他の時代との疎通「国際市場で逢いましょう」は確かに気軽に見れる無難な映画だ。楽しく観てもよく、悲しみと懐かしさに嗚咽してもよく、「フォレスト・ガンプ/一期一会」と同じだと感じても良いだろう。このような純粋な感想こそが映画を映画として観た時に出るもので、誤解してはならない評価だ。しかし、映画の影響力に対する過小評価でもある「映画は映画に過ぎない」との言葉が、誰かの悩みを止める手段として用いられることは警戒すべきだ。父の父、父、そしてまだ父になれなかった子たちは、お互いにそれぞれの時代を生きることに追われ、お互いを理解できなかった。これは、現在我々が直面している現実であり、映画の中でもかなり繊細な方式で描写された。「国際市場で逢いましょう」の最後に、頑固な年寄りになったドクスは子どもたちから慰められないまま、寒い部屋に閉じ篭り、父のコートをつかみ自身を慰める。この苦い絵はそれぞれの世代の中の個人たちが、お互いに対する悪意を抱いたから発生したことではない。これは、話す準備も、聞く準備もできていない世代同士の葛藤の悲しい肖像だ。父になることを諦めた世代に、父になることの喜びを説明したところで共感できるはずがない。そのため、我々は他の世代の苦痛を直視する必要がある。お互いが抱いている苦痛の形と原因を見ても、わざとその重みを計る必要はない。「国際市場で逢いましょう」がくれる最大の教訓は、この過程で存在する疎通の必要性だろう。ユン・ジェギュン監督は映画の外面的な部分で父世代に対する深い配慮を見せた。「国際市場で逢いましょう」が500万観客を突破してから監督とスタッフは、ソウル清凉里(チョンリャンリ)のパプポ無料給食所で一人暮らしの年寄りに昼食を配った。それが一回限りのイベントだったとしても、海雲台(ヘウンデ)に見晴らしの良いアパートを持つドクスほど成功できなかった数多くの父たちにフォーカスを当てることには成功した。統計庁の「2014高齢者統計」によると、韓国の老人貧困率は48.1%に達する。OECD国家の中でも断トツの数値だ。そして、この老人たちは「国際市場で逢いましょう」のスポットライトを当てられなかった、また違うドクスたちであり、関心が必要な歴史だ。
【映画レビュー】「明日へ」希望を見つけるのは観客の役目だ
重いテーマを美しく描いた映画正直な完成度を見せる「接続 ザ・コンタクト」「建築学概論」などの作品で作品性と商業性の調和を追求したと評価され、名声を得てきたミョンフィルムが今年注目したのは、韓国の雇用不安だった。「明日へ」は大型スーパーで働いていた職員たちが過度に悪化した労働環境に対抗し、会社を相手に一緒に戦う話を描いたドラマだ。まず、同映画は思ったより面白い。大型スーパーで女性職員を解雇する事件を重点的に扱い、しかも労働組合のストライキをかなり具体的に見せる「明日へ」について人々は「面白くなさそうだ」「見たくない」「居心地悪そうだ」と思ったはずだ。しかし「明日へ」の長所は大きく分けて2つあり、その一つ目は芸術性だ。映画が始まると、マートの職員たちが午前の打ち合わせをするシーンに続き、主人公たちが働く大型スーパーが登場するが、撮影セットであるにもかかわらず、きれいで非の打ちどころがない。実際のスーパーで撮影したものよりはリアルではないが、まさにその点が「明日へ」の芸術性を見せてくれる。芸術性は創造性と美しさを伴う必要がある。大型量販店のセットを作った「明日へ」制作陣の創造性は、そのセットで動く登場人物の体当たりの演技で具現された美しさと出会う。特に突然の解雇後、自分たちの空白を埋めるため投入された人々を登場人物らが追い払うすシーンは、韓国の雇用の現実を非常に明らかに見せてくれるもので、美しい感じさえする。「明日へ」の中の登場人物は個人の性格を強調されるより、共通の目的やストーリーに合致する方向に動く場合が多い。それでもヘミ(ムン・ジョンヒ)とソニ(ヨム・ジョンア)という2人の登場人物は印象的だ。「明日へ」の2番目の長所はその2人の人物を演じた女優たちの好演だ。特に、ヨム・ジョンアは比較的陳腐なソニというキャラクターで少なくとも2回の感動を与えた。息子のテヨン(EXO ディオ)に失業したことを知らせることができず、洗面台の前で涙を流すシーンはヨム・ジョンアが優れた女優であることを立証する証拠になると思う。また、ソニがテヨンの彼女に会い「あなたはお祖母さんにとても頼りになるだろう」と言うときのソニの表情を見ると、ヨム・ジョンアという女優から今まで経験した感動の絶頂を感じたと言っても過言ではない。この映画、特に若者たちに意味があるプ・ジヨン監督が演出し、ミョンフィルムが制作した「明日へ」。この映画の作品性、あるいは完成度は正直だ。2作目の長編映画を作ったプ・ジヨン監督としてはミョンフィルムという良い制作会社に出会い、難しい課題のような同映画をよく完成させた。プ・ジヨン監督の脚色能力も輝いた。この映画を見ると、ところどころキャラクターの非論理性が見られる。易しくてシンプルなストーリーと展開も残念だ。しかし、ある程度了承が可能な小さな部分だと思われる。何よりこの映画は10代と20代が見なければならない作品だと思う。すでに30代以上の世代は速やかに既成世代になる国が韓国だ。「明日へ」ほどではないが、雇用不安や不当な労働環境、釈然としない解雇などは韓国で職場に通ったことのある人なら経験したはずだ。特に「明日へ」のように非正規職の場合はなおさらそうだ。ところで、そのような現実は最近に限った話なのだろうか。いや、数十年前からそうだった。これは何を意味するのだろうか。韓国の労働環境を変えることより働き先の確保への心配が大きい人が多数を占める現実は、昔も今もさほど変わってないことを意味する。それなら、このような現実は未来にも続くのだろうか?それは分からない。そうなるかもしれないし、そうでないかもしれない。「明日へ」の制作陣が映画の結末で対立していたヘミとソニを共同体化したことは連帯の必要性への主張ではあるが、希望的な未来への強要ではない。この映画の結末で希望を見つけるのは観客の役目だ。そして、より希望に満ちた未来を作ることに貢献できる人々はディオを見るため「明日へ」を見に行き、「映画、超悲しい」という短い感想を残す若いEXOのファンになるかもしれない。既成世代の仲間入りを果たせば、現実を変えるよりは現実に適応しようとする。後ほど既成世代になる若い彼らが、それでも絶望的でない「明日へ」を見ながらなんであれ気づくことに意味があるという話だ。
【映画レビュー】「提報者」誰もが知っている話なのに…手に汗握らせる興味津々な展開
ES細胞捏造事件をめぐる死闘を描いた映画「提報者」は2005年、韓国を揺るがした胚性幹細胞(ES細胞)論文捏造スキャンダルをモチーフにした映画だ。大多数の国民はもとより、マスコミや大物政治家、政府のいずれもヒトの胚性幹細胞(ES細胞)製作の成功に国益がかかっていると信じて疑わなかった時代。チェ・スンホ、ハン・ハクスプロデューサーが率いたMBC「PD手帳」だけが国家とマスコミが作った神聖不可侵な領域の誤りを突き止めるため、恐れず事件の真相に迫った。真実こそ国益だという信念があったためだ。単純によく知られた話を超え、韓国全体を揺るがすほどショックを与えた事件だった。当時、ES細胞論文捏造疑惑を取材していた「PD手帳」は、その研究を検証するだけで相当な後遺症に苦しまなければならなかった。「提報者」は取材を妨ぎ、放送を防ごうとするあらゆる圧力や懐柔にも屈せず、真実を知らせるために努力した言論人、そしてモラルに欠けた行為を正すため、全てをかけて時事告発番組に通報したある男の話だ。実話をベースにしたほとんどの映画がそうであるように、「提報者」も実際にあった事件を映画化することに重点を置く。まだ多くの人々の脳裏から完全に消えていない有名な事件を扱う「提報者」の視線は、割と淡々としている。すでに観客たちが知っている結果をわざと変えるより、起きた事件をそのまま再現することに満足しようとする。実際の事件をそのまま再現ドキュメンタリーのような映画主要人物の詳細な設定を除いては実際に起きた事件と同様に展開されるため、「提報者」を見ていると、まるでパク・ヘイル、イ・ギョンヨン、ユ・ヨンソク、パク・ウォンサン、リュ・ヒョンギョン、クォン・ヘヒョなど、有名俳優たちが大挙出演するドキュメンタリーのような感じがする。しかし、多くの人が記憶しているように、話が進んでいく過程と結果を見せながらも「提報者」はなかなか興味津々な展開を披露する。実際に起きた事件そのものもドラマチックだが、すでに知られている話であるにもかかわらず、手に汗握らせる展開はイム・スルレ監督の力量とパク・ヘイル、イ・ギョンヨン、ユ・ヨンソクなどの俳優のすばらしい演技が生み出した結果だ。9年という時間が過ぎたが依然として敏感な事件であるにもかかわらず、イム・スルレ監督だけを信じて「提報者」への出演を決めたというパク・ヘイルは、いつものように最高の演技を披露する。劇中で「PD手帳」のハン・ハクスプロデューサーをモデルにした「PD追跡」のユン・ミンチョルプロデューサーを演じるパク・ヘイルは、いかなる状況でも決して屈しない、まっすぐな言論人の理想的な姿を見せてくれる。最近、tvN「応答せよ1994」「花より青春-ラオス編」に出演し、最高の人気を誇るユ・ンソクはイ・ジャンファン(イ・ギョンヨン)博士の研究論文の捏造を暴露する良心的なエリート研究員シム・ミンホを演じるが、「花より青春」ののイメージは全く見当たらない。ここにどんな役を演じてもメソッド演技(役に入り込み、その役と全く同じように身も心も演じること)が可能なイ・ギョンヨンが加わり、夢の共演を果たした。しかし、この映画の本当の主人公は優れた演技を披露した俳優でも、映画の企画や制作にインスピレーションを与えた当該事件でもない。国民の知る権利を大切にし、真実を報道するために巨大な圧力にも躊躇せず対抗し、戦う言論人の姿勢だ。9年前、実際にあったある時事告発番組の奮闘が2014年を生きている私たちを厳粛な気持ちにさせ、心に響く。
【映画レビュー】“指を切り落とせるの?”「魔女」のぞっとする提案
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。映画「魔女」自ら魔女になった者と、誤解で魔女狩りされる者の物語韓国は、韓国戦争の惨状により全てが灰と化したが、短期間で産業化に成功し、世界の大国と肩を並べる奇跡を成し遂げた。世界を驚かせた韓国の経済発展はライン川の奇跡に擬え漢江(ハンガン)の奇跡と呼ばれるほど、漢江は韓国の産業化の象徴のような場所だ。映画「魔女」の脚本と演出を担当したユ・ヨンソン監督は、「グエムル-漢江の怪物-」続編の脚本を書いた経歴の持ち主だ。漢江が生んだグエムル(怪物)を取り上げたポン・ジュノ監督の「グエムル-漢江の怪物-」とその映画の続編を考えたら、「魔女」が最初のシーンで漢江を映すのは偶然ではない。「魔女」は、漢江と周辺道路上の多くの自動車、そして軒を並べる高層マンションを映すことで、経済発展の裏面、他でもない私たちが失った価値と孕んだ怪物について物語ることを示す。周りの無関心から、自らを魔女にした女新入社員のセヨン(パク・ジュヒ)は、上司のイソン(ナ・スユン)に報告書を提出し、ひどい出来だと叱責される。頑張るというセヨンの答えに、命でも掛ける自信があるかとイソンは皮肉る。激昂した二人の会話は、決まった時間内に報告書を完璧に仕上げればイソンの指1本を、失敗したらセヨンの指1本を切り落とすという、とんでもない賭けに発展する。「魔女」は、セヨンを調べるイソンを通じ、愛されない存在として成長した一人の女性の悲しいストーリーを物語る。セヨンの正体を掘り下げる過程で暴かれるいじめ、復讐、執着は、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」、三池崇史の「オーディション」、ロマン・ポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」を自ずと思い浮かばせる。実際にユ・ヨンソン監督は主演女優のパク・ジュヒに、セヨンのキャラクターを演じる上で参考にするようにと「キャリー」「オーディション」「ローズマリーの赤ちゃん」を紹介したという。子供の頃からセヨンの両親は病弱な姉の世話で忙しく、彼女には関心を注げなかった。学校で、会社で彼女は人からの関心を欲しがるが、周りは彼女に冷たい。セヨンが周りから感じる孤立と、人から愛されたいと思う気持ちは、「キャリー」の友達からいじめられるキャリー(シシー・スペイセク)の気持ちと同じだ。「オーディション」で子供の頃から虐待された山崎麻美(椎名英姫)は「不幸だと思ったことはない。なぜなら、私の人生が不幸そのものだった」と話し、男たちへの復讐に乗り出す悪女だ。セヨンも「愛される者たちは全部死んでしまえ」と、似たような台詞を投げる。彼女は、無関心が与えた傷を、麻美と同じく苦痛で仕返しする。キャラクターの設定以外にも、復讐の方法論でも「魔女」は「オーディション」に似ている。現代版の悪魔を取り上げた「ローズマリーの赤ちゃん」でローズマリー(ミア・ファロー)は、お腹の子供を奪おうという者たちに恐れを感じ、避けようとする。彼女は赤ちゃんのためなら何でもやると決心する。都市と魔女をリンクさせた「魔女」で、セヨンは辛うじて得た周りの関心を失うまいとあがく。女鬼で読む韓国のホラームービーに関する本「月下の女哭声」で、著者のペク・ムンイムは「近代が失っている統一性と調和に対するノスタルジーを実現していたヒロインは、いまや近代的な物神性及び流動的なアイデンティティを実現する、大きく威力的な怪物になる」と書いている。著者が指摘した、新派の可憐なヒロインがお化けに化ける1960年代韓国映画の流れは、1990年代「狐怪談」に拡張しても意味を持つ。以降、競争と勝利を強調する私たちの顔は、「リング」の生存、「ヨガ教室」の整形で描かれた。「魔女」は、学園と家庭を抜け出し職場へ入り、現代化が生んだ病弊に触れる。映画は、自ら魔女になった物と、誤解により魔女狩りされる者の2つの姿をセヨンとイソンに交互に投影しながら、加害者と被害者を隠喩する。「ある会社員」がジャングルの野獣のように弱肉強食の仕組みで血なまぐさい戦いを繰り返すサラリーマンの人生を、銃を握らせ表現したならば、「魔女」は魔女に恐怖という外皮をまとわせ、私たちの社会を覆っている歪んだ価値を批判しようと試みる。「魔女」は素晴らしい目標に向け弓を引いたが、スコアは不十分だ。職場で繰り広げられる二人の戦いは、不当に立ち向かったり、多くの人が夢見る、上司への復讐など代理満足の面では一定の快感を与える。しかし、オフィスから出てしまえば物語は道に迷ってしまう。色んな人の口を借りセヨンに関するストーリーをあれこれ積み重ねるだけで、然るべき形につなげることには失敗している。ストーリーを集める過程でイソンはセヨンに執着するストーカーに成り果てる。特に、イソンのストーリーで、姉のセミン(イ・ミソ)に会う部分は、映画的な飛躍が激しい。セヨンは今なぜそのような行動をするか理解できないため、共感しにくい。その上、「キャリー」「オーディション」「ローズマリーの赤ちゃん」の痕跡までちらつかせているため、落ち着きのなさと安易さはさらなるものだ。「魔女」で褒めたい点は、イソンがセヨンに「どれだけ努力するの?命でも賭けられるの?」と叱咤し、続いて「今日の夜8時までに仕上げられなければ、指1本切り落とせるの?」と提案するシーンが与えるゾッとする感覚だ。セヨンはきれいに仕上げることができたが、上司であるイソンの指を切り落とすことはできなかった。ただ冗談で終わるだけだった。反対に、セヨンが約束を破った時はどうなったかが、大変気になるところである。
【映画レビュー】「群盗」もっともらしい“韓国版ウェスタン”…見なければならない理由とは
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。「誰を断罪しているのか」と疑問が残るがキムチウェスタンの可能性を見せる西部劇はほとんどが単純で典型的だった。物語の中に勧善懲悪がはっきり現れ、主人公は普通、妻などの家族が悪党により犠牲になったクールな男性が演じる。背景は砂嵐が画面を黄色く彩る荒野がほとんどで、灼熱の太陽の中、眉間にしわを寄せた美男たちが腰にかけた拳銃を電光石火のスピードで取り出す。ほとんどが復讐劇だが、たまにはあまりにも強い敵を倒すための主人公の成長話も描かれたりする。このようなジャンルの典型性にも関わらず、西部劇は長時間にわたり忠誠度の高いマニア層を構築してきた。思うに、その理由は西部劇がカッコいいからだろう。実際、西部劇ほど娯楽という映画の機能に最適化されたジャンルもない。目を楽しませるアクションと、入り込みやすい単純なストーリーのお陰で、映画に完全に吸い込まれることが西部劇の魅力だ。もちろん、資本家に対する抵抗のメッセージが法律の制約を乗り越えるアクションで痛快に描かれることも、観客をしばらくではあるが自由にする西部劇の要素の一つだ。さらに、複雑に頭を回さなくてもそれこそ心の向くままに行動し、大義のためには自身の命などを重要に思わない純情男に観客は熱狂した。そして、彼らは殴り合いなんかはしない、銃撃戦の達人だ。もっともらしいキムチウェスタンしかし言葉が多すぎる「許されざる者」「悪いやつら」のユン・ジョンビン監督が演出を務め、下半期の期待作の中でも断然期待を集めた「群盗」もまた、西部劇の典型を追う。初のシーンからセルジオ・レオーネの映画に流れていたエンニオ・モリコーネの音楽を連想させる雄大なサウンドトラックが、荒野の上に低く敷かれる。これにウェスタンジャンルのファンたちは戦慄したはずだ。キャラクターに命を吹き込むきめ細かい世界観は、ユン・ジョンビン監督の繊細さを目立たせる。一撃必殺の銃は使わないものの、弓の達人マヒャン(ユン・ジヘ)、布で包んだ鉄の玉を振り回すチョンボ(マ・ドンソク)はもちろん、背よりも長い槍を使うデホ(イ・ソンミン)まで、自身の性情とぴったりの武器を使うキャラクターがくれる楽しさもなかなか大きい。火賊の群れ群盗の精神的な柱であり、彼らの行為に正当性を与える僧侶のテンチュ(イ・ギョンヨン)と策士のテギ(チョ・ジヌン)もまた、視線を引き寄せるキャラクターだ。また、屠殺用のナイフを武器に使う主人公のドチ(ハ・ジョンウ)は、ジャングルナイフを持ち歩きながら敵の首を切る「マシェティ」を連想させる魅力的な人物だ。ドラマが後半に向かう頃、ドチが敵に乱射する機関銃は、「ジャンゴ」が妻の棺の中に入れていたものとも似ていた。このように有名な西部劇の中のカッコいい設定、カッコいいシーンは「群盗」で立派なキムチウェスタンとして生まれ変わった。しかし、映画が進むにつれストーリーの中にどぶんと飛び込んでから揚げられる感じがし始める。必要以上に挿入されたナレーションが、世界観を親切に説明する役割を乗り越え、当該シークエンスをドキュメンタリーにしてしまったためだ。映画の人物の台詞で説明するには分量の問題があったためだろうか。特に、このナレーションの問題は、悪党チョ・ユン(カン・ドンウォン)のキャラクターを説明する過程ではっきりと現れる。チョ・ユンと対決する主人公のドチは、母と妹がチョ・ユンの手下たちに殺害され復讐を誓う。これは典型的であるだけに、理解しやすい方法で描かれたが、それ以上がいらないことも事実だ。一方、チョ・ユンの場合、生まれた時から持っていたトラウマをいちいち紹介しながら、彼が悪党になった理由を観客に納得させようとする。チョ・ユンはただの悪党ではないとのことだ。そして、そのようなチョ・ユンの前史にかなりの分量が割り当てられたにもかかわらず、これをほとんどナレーションで処理する。このナレーションは、チョ・ユンの過去を説明する間、終えるべき時点を何度も逃してしまう。精密に描写した悪党に比べ、おおざっぱにまとめた民衆そのためだろうか。137分との短くない上映時間にも「群盗」の中の活き活きとした助演のキャラクターには、スポットライトを受けられるチャンスが与えられなかった。両班(ヤンバン:朝鮮時代の貴族)と民衆の対決との、いとも巨大な構図を映画の中に持ち込んだが、悪党1人の行為の動機を細密に描写したことに比べ、民衆はおおざっぱにまとめてしまったままだ。エンディングクレジットに「マヒャンの過去の夫」など、丸ごと編集されたような役割が確認されることから、助演たちにもそれなりの事情があったことが分かる。キャラクターたちは非常に強い個性を持っているが、彼らはただ民衆の口を借りた時のみ、発言権限を得られた。しかし、このように多少長いナレーションで薄くなった娯楽的な要素も「群盗」に大勢出演した実力派助演たちのスパイスとなる演技である程度克服される。テンチュは「復讐心は計画を台無しにしかねない」とし、なりふり構わずチョ・ユンに食いかかろうとするドチを阻止する。これは、主人公が抱いていた善の価値を一段と高いところに引き上げようとした措置だったが、結局彼らの戦いで命を失ったのはまた、違う民衆かも知れない人たちだった。チョ・ユンとのラスポスに近づくための犠牲にしては、あまりにも残酷な共食いだ。「群盗」がドチ以下、主なキャラクターたちの単純な復讐劇だったら、むしろこのような後味悪い気持ちはなかったかもしれない。しかし、更に巨大な民衆を映画の中に持ち込むのであれば、民衆の境界もまた、はっきり引けば良かっただろう。いったい群盗は誰を断罪しているのか。このように数多くの疑問が湧いてくるにも関わらず、この映画「群盗」を見なければならない理由があれば、それはカッコいいからだ。チョン・ドゥホン武術監督ならではの派手なアクションが長いカン・ドンウォンの体にかぶさり、強靭なハ・ジョンウの刀に宿る時は、その瞬間がすべて美しい静物になる。桜の木はないが、桜の花びらが舞い散る中で展開されるドチとチョ・ユンの最後の決闘もまた注目すべきシーンだ。敵を目の当たりにした瞬間、汚れのついていた顔にいきなり目に力が入り、武器を振り回す群盗の姿は、断然火賊界のプロだった。荒野に砂嵐を巻き起こしながら走る群盗の姿もまた、西部劇らしい壮快さを誇る。そこで「群盗」はその格好良さだけでキム・ジウン監督の「グッド・バッド・ウィアード」やチ・ハジン監督の「鉄岩渓谷の決闘」のようなキムチウェスタンとしての可能性を見せている映画だ。そして、もう一つ補足すると、「群盗」のカン・ドンウォンは本当に恐ろしいほど格好良く、ハ・ジョンウは恐ろしく若い。
【映画レビュー】「泣く男」はなぜ「アジョシ」になれなかったのか…共感しにくい男の涙
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。2010年に公開されたイ・ジョンボム監督の「アジョシ」は当時600万人を超える観客を動員し、その年の韓国映画興行成績ランキングで1位になった話題作だ。「アジョシ」が人気を集めた要因としては、まず俳優ウォンビンが挙げられる。普通の近所のおじさんとは違い、近所にいるとは想像すらできないイケメン俳優のウォンビンをアジョシ(おじさん)にするという大胆な設定だったが、自ら長い髪を切り、少女を救い出そうと意志を燃やすシーンは多くの女性の心を刺激し、非現実的な状況を克服した。そして従来の韓国のアクション映画とはレベルの違う強烈なアクションシーンは、男性にもアピールすることができた。映画「レオン」や「TAKEN」、そして「ボーン」シリーズが適度に混ざった「アジョシ」は、不足していた独創性を俳優とアクションでカバーし、韓国のアクション映画の新たな転機となった。それ以降に作られた強い男性が登場する映画、例えば「ある会社員」「プンサンケ」「シークレット・ミッション」「同窓生」「サスペクト 哀しき容疑者」などは、「アジョシ」が作り出した韓国映画のフィールドで育った作品だ。ありきたりな設定から新しさを見い出そうとする試みイ・ジョンボム監督が俳優チャン・ドンゴンとタッグを組んだ「泣く男」は、監督のデビュー作「熱血男児」と2作目の映画「アジョシ」に続く男性シリーズと言っても遜色がないほど似た要素が多い。「熱血男児」では友人の死、「アジョシ」では妻の死で傷ついた人物が登場したが、今回は殺し屋のゴン(チャン・ドンゴン)が主人公として登場する。組織の命令でターゲットを葬り去っていたところ、ミスで少女を殺してしまったゴン。彼がどうしても殺すことができないターゲットは少女の母親であるモギョン(キム・ミニ)だ。モギョンは殺さなくてはならないターゲットの母親だったキム・ジョムシム(ナ・ムニ、「熱血男児」)と、最後まで守らなければならない少女ソミ(キム・セロン、「アジョシ」)と同じだ。「アジョシ」の影響を受けた映画が多数登場したせいか、イ・ジョンボム監督は「泣く男」で主人公のゴンを殺し屋に設定することで変化を図った。しかし、殺し屋は「熱血男児」のヤクザ、「アジョシ」の元特殊要員よりもリアリティのない設定だ。そして、新しいものを見せたいという情熱は大胆な銃器の活用に走らせた。ゴンの身体に刻まれたタトゥーと涙からは「クライング・フリーマン」が、女性を守るために全てを投げ打つ殺し屋からは「狼/男たちの挽歌・最終章」が頭をよぎる。何よりも「泣く男」がこれらの映画から拝借してきたのは冷酷な殺し屋がある事件をきっかけに失われた感情を取り戻すという内容だ。90年代のアクション映画のスタイルで有名な「クライング・フリーマン」と「狼/男たちの挽歌・最終章」に深く影響を受けた「泣く男」は、まるで70年代に生まれた世代(イ・ジョンボム監督は1971年生まれ)が感じていた映画の情緒を自己流の方法で噴出した試みのように感じられる。アクションとスタイルで勝負、その結果は「泣く男」は前作よりもスタイルへの拘りがより一層強くなっている。まるで一時期流行っていた香港ノワール映画の銃撃戦を見ているようなデジャブさえ感じる。そして、スタイルへの執着が強くなるほど映画のストーリーはますます現実離れしていった。ストーリーはスタイルを表現するための道具になってしまい、悪い意味で浪費と言ってもいいほど消費され、捨てられてしまった。「熱血男児」の母親と「アジョシ」の少女を思い出してみよう。主人公は何らかの事情で彼らと接点を持ち、気になる存在になる。彼女たちが主人公の感情に与えた影響は明確で、何故主人公がそう行動するようになったのか観客にはっきり伝わった。しかし、「泣く男」は違う。ゴンが殺した少女の母親で娘を失ったモギョンの話と、子供の頃に遠い異国に捨てられたゴンの過去は感情の繋がりがない。ゴンが何故そのような行動を取っているのか?罪悪感からなのか、過去から逃れようともがいているのか、或いは自身の安息のためなのか、全く見当が付かない。ゴンの行動と彼が流す涙に感情移入できない状況で、しきりに登場する銃撃戦は疲労感を誘発するだけである。銃撃戦もあまりにも現実離れしていて実感が沸かない。ソウルの真ん中で銃撃戦を繰り広げているのに警察は一人も見当たらないし、隣人も出てこない。都心で爆弾テロが起きるという通報を受けて出動した警察が取る行動はバカバカしく、ソウルの高層ビルから警備員が一人も見えなかった時は呆気にとられた。映画はただスタイルに拘っているだけで、リアリティを出す雰囲気を調整することには関心がないようだ。「泣く男」でモギョンはゴンに「何故私にこのようにするのですか」と聞き、ゴンは「疲れている」と答える。ストーリーとスタイルの不一致が続き、耳を刺激する銃撃戦だけが乱発する「泣く男」を見る観客も疲れるのは同じだ。「熱血男児」でソル・ギョングが流した涙と「アジョシ」でウォンビンが流した涙を観客が理解することができたのに対し、「泣く男」は威圧感のあるチャン・ドンゴンの眼差しだけが印象に残った。イ・ジョンボム監督の3番目となる男性シリーズは男性が流す熱い涙を見せることに失敗した。
【映画レビュー】「ハン・ゴンジュ」あなたたちは皆加害者だろう…そうじゃない?
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。我々が生きる世の中は、どれだけ多くのゴンジュを殺さなければならないのだろうか?旅客船セウォル号沈没事故が起きた翌日。狂ってしまいそうな喪失感を抑えきれず、映画館に向かった。悲劇からの希望を見たいという切実な願いが私を映画「ハン・ゴンジュ」に向かわせた。数十人の動物に強姦された女子学生という題材で映画そのものから希望を見出すことは難しいと予測したものの、非常に立派なエンディングという言葉が少なくとも最後には希望を抱かせてくれるはずだと早とちりしていた。その結論は完全に間違ったものだったのだが。映画は最初から最後まで観客に繰り返しあるイメージを見せる。最初に扇風機の前に立っていたゴンジュの学校の先生は、映画の後半に性的暴行をしたゴリラが扇風機の前に立っているシーンで繰り返される。男のせいでゴンジュを捨てた母親は、やはり恋人の警察のせいでゴンジュを手放す先生の母と重なる。さらに性的暴行で妊娠した友達が水に飛び込んだことも、水に飛び込んだハン・ゴンジュの姿と重なる。自殺する前にかけた電話をゴンジュが受けなかったことと同様に、ゴンジュが水に飛び込む前にかけた電話をウニは受けない。映画は、繰り返される。この繰り返しを通じて我々はゴンジュを傷つけた直接的な加害者と間接的な加害者である社会を同一視することになる。最大限ゴンジュの面倒を見ようとした学校の先生も、結局ゴンジュの手を握ってくれなかった先生の母親も、お金を受け取って嘆願書に署名させる父も、ゴンジュの面倒を見てくれなかった母親も、ゴンジュをせき立てた警官も、最後の電話を受け取ってくれなかった友達も、みんな直接的な加害者の行為と重なり、加害者の一部になる。さらに被害者だったハン・ゴンジュも友達の電話を受けなかった事実を明かし、もう一人の加害者だったことを明かす。このように映画は私たちはみんな加害者ではないかと繰り返し聞く。話題になったエンディングシーンでハン・ゴンジュが海に落ちてしまった時、私は簡単にその先を予測することができた。ハン・ゴンジュは死んで、世界によってもう一度水に溺れるようになるだろうと思った。水に落ちて自殺したゴンジュの友達を持ち上げた隊員たちがロープを手放してしまい死体を再び水に落としたシーンを通じて、私は十分にそれを予測することができた。ゴンジュは自殺するが、映画がずっとそうだったように、世界はもう一度彼女を傷つけるはずだった。幸いなことだったのだろうか、私の予測とは違ってゴンジュは水の上に上ってきた。ひたすら自身の力で。彼女は死ぬ瞬間に生きたくなるという希望を最後まで捨てず、水泳を習った。彼女は加害者だけの社会でどうにか生きていくためにじたばたし、水から上がってきて人生を生き続ける。このシーンを通じてこの映画は希望を捨てなかった。安堵感。どうしても生きていかなければならないという最後の希望を映画は握る。しかし、この映画は希望だけでは終わらない。水から上がってきたゴンジュは画面の上の方、つまり遠い海の方に向かう。世の中からの自由、解放だ。しかし、その後ゴンジュは再び画面の下、ゴンジュが飛び降りた大橋の方に泳いてくる。画面ではまるで観客に近づいてくるように見える。ここでハン・ゴンジュは最後に問う。「私は最後の希望をつかんだけど、あなたはどうする?」映画を観た観客の心が痛いのは、潜在的な加害者になる可能性もある私たちに投げるその質問のためだ。世界は依然としてゴンジュにはあまりにも厳しいところで、我々がどうやってそれをより良い状態に変えてあげられるかは見えてこない。世の中は同じものだと私たちは無意識のうちに信じているから。「ハン・ゴンジュ」は最初から最後まで簡単な映画ではない。それが私たちの社会の姿を見せているためなおさらそうだ。映画が終わった後、どうしようもなく悲しい気持ちになって非常に辛かった。繰り返しテレビで流れる悲劇的なニュースを見ると、もっと辛い。果たして我々が生きる世の中はどれだけ多くのゴンジュを殺さなければならないのだろうか。
【映画レビュー】東野圭吾原作「さまよう刃」正義とは何か?…未成年者犯罪に対する疑問を投げかける
東野圭吾は、「火車」の宮部みゆきや「夜のピクニック」の恩田陸とともに日本の推理小説作家を代表する1人だ。日本ですでに11本の映画と27本のテレビドラマで映像化されているほど、彼の小説は大衆性と作品性を兼ね備えている。韓国でも「白夜行-白い闇の中を歩く-」と「容疑者X 天才数学者のアリバイ」が映画化された。深刻な社会問題を多く取り上げてきた東野圭吾は「さまよう刃」に未成年者が犯した罪により娘を失った父親を登場させる。被害者の父親が自らの手で裁きを下そうと犯人を追い詰める展開を通じて、少年法を含む日本の司法制度の問題点を暴く。「さまよう刃」は、すでに日本で益子昌一監督によって映画化されている。日本で制作された映画「さまよう刃」は、復讐に乗り出した父親の怒りと、彼を捕まえなければならない警察の苦悩、どちらも説得力ある形で見せられないまま、原作小説のストーリーにただ従うばかりだった。また、人物の描写でも、生気のない演技トーンを見せ、演出と演技両方でよい評価を得られなかった。娘を失った父親と彼を追う刑事に焦点を絞って脚色映画「ベストセラー」でデビューしたイ・ジョンホ監督は、2作目の映画「さまよう刃」を制作するにあたり、日本で映画化された作品とは異なる方向を選ぶ。監督は小説で匿名の情報提供を受けて訪れた家で、娘の死に関する動画を見るという設定と、最後の広場での対立する状況を除き、その他の部分はほぼ変更したと言ってもいいほど、脚色に力を注いだ。脚色により、復讐に乗り出した父親に自首を勧めるペンションのオーナーの娘と新たな事件の被害女性の父親は省略された。映画は、必ず犯人を見つけ出して復讐すると決心した父親サンヒョン(チョン・ジェヨン)と被害者ではなく殺人事件の容疑者としてのサンヒョンを追う刑事オクグァン(イ・ソンミン)2人の構図に絞りこまれた。「さまよう刃」は、被害女性の父親から、人(犯人)を殺した加害者へと変わる、サンヒョンの感情の変化を繊細に扱う。映画の冒頭に登場する雪原と、葉がすべて落ちた枝は、サンヒョンの心理状態を物語るシーンだ。ハンドヘルド(カメラまたは照明装置を手で持つこと)を駆使した撮影技法と荒涼とした画面のトーンもサンヒョンの心理を反映する手段として一役買っている。「誰のための法律か、警察のしていることはなんなのか」と葛藤する刑事オクグァンと、新米刑事ヒョンス(ソ・ジュニョン)には、昨今の現実を批判する声が込められている。映画の中で刑事はやっと犯人を捕まえるが、強圧的な捜査をしたのではないかと追及され、弁護士を動員して様々な理由で量刑を減らす「有銭無罪、無銭有罪」の状況を迎える。彼らは、殺人を犯したのが未成年者という理由で大きな処罰を受けない世の中を見て、「罪に子どもと大人はない」と自嘲気味に話す。未成年者犯罪に対する疑問「法律は絶対的に正しいのか」日本と同じく韓国でも未成年者による犯罪が増加している傾向だ。しかし、凶悪な罪を犯しても未成年者というだけで犯した罪の重さに見合わない判決が下される。特に、14歳未満の場合、刑法適用の対象ではなく「触法少年」という法律で守られ、特別な措置を受けない。彼らによる犯罪は日増しに大胆になり、凶暴になっているのが実情だ。2004年密陽(ミリャン)で、13歳と14歳の女子中学生姉妹を40人の男子生徒が集団レイプした事件で、被害者の生徒は家出をしたほど、ひどい後遺症に苦しんだのに比べて、加害者である生徒のうち5人のみが「保護観察」処分を受け、残りの加害者は何事もなかったかのように日常に戻った。このような現実を見て多くの人は憤りを隠せない。社会の現実を反映した映画は様々な角度から事件を見た。「ポエトリー アグネスの詩」は、加害者家族の視点から事件を観察し、「ハン・ゴンジュ」は被害者遺族の目の高さで世界を見る。そして「母なる復讐」は法の力を借りずに自ら復讐に乗り出した家族を見せ、憤りを爆発させた。東野圭吾は、小説の中で父親の言葉を借りて「裁判所は犯罪者をきちんと裁いているのか? むしろ裁判所は犯罪者を救っている。罪を犯した人に更生の機会を与え、彼らに対し憎しみを持つ人々の目の届かないところに犯罪者を隠す。それを刑罰と言えるのか」と司法制度を批判した。被害者とその家族の傷については考慮せず、罪を犯した未成年者の将来を考えるよう要求するのは行き過ぎた理想だと指摘した。映画「さまよう刃」は、脚色により小説の登場人物が大幅に省略されたため、様々な人物の心理を積み重ねて最後の広場のシーンで一気に爆発させるという劇的な状況を再現することはできなかった。また、被害者の父親については冷静な理性からあえて目を逸らし、熱い感情に訴えようとする面が強い。しかし、映画は小説が投げかけた「法律は果たして絶対的に正しいものか」というテーマをうまく活かしていた。現実で正義だと信じていたものが揺れる光景を目撃している今、映画が投げかける正義に対する疑問が重くのしかかってくる。私たちが正義の刃だと信じているものは、本当に正しい方向を向いているのだろうか? 映画は観客に問う。
【映画レビュー】「殺人者」はマ・ドンソクに借りを作った、観客の期待に応えないスリラー映画とは…
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。ジュヒョプ(マ・ドンソク)は不倫を犯した妻を殺害して、身分を隠したまま田舎町に隠れて過ごす。彼の息子ヨンホ(アン・ドギュ)は学校で仲間外れにされるが、その理由は父親のジュヒョプが犬飼いであるためだ。ある日、ジス(キム・ヒョンス)という女の子がソウルから転校して来て、ヨンホは友達とあまり付き合わないジスに興味を持つ。母親(キム・へナ)と二人で田舎に来たジスは、浮気者の父親に傷付けられた子どもだった。ヨンホとジスはお互いの傷に共感したかのように少しずつ近付いていく。二人が近くなるほど、ジスはジュヒョプの正体に気付き、ジュヒョプは息子ヨンホが自身の過去を知ることが怖い。ジュヒョプは自分と息子の間に亀裂を起こしたジスを殺害しようとする。韓国で実際に起こった連続殺人犯カン・ホスン事件をモチーフにして公開前から話題になった映画「殺人者」は、昨年様々なジャンルの映画でシーンスティーラー(Scene Stealer:スターよりも注目される脇役)として活躍して存在感をアピールした俳優マ・ドンソクを主人公に抜擢した。映画はどっしりとした体格、鋭い目つきだけで観客を圧倒するのに十分なマ・ドンソクのビジュアルとイメージを最大限に活用して、じっと立っているだけでも冷ややかな空気が漂う連続殺人犯ジュヒョプを作り出した。ポスターや予告編だけを見ても、彼がこの映画に適役だということに異論はない。観客がこの映画を期待していたとすれば、その理由はただ一つ、マ・ドンソクだったはずだ。しかし、この映画はマ・ドンソクを上手く活用できていない。映画は最初から彼の活動範囲を制約してしまったため、アイデンティティが曖昧になった。マ・ドンソクが演じるジュヒョプは妻の不倫を目撃して、妻と愛人をその場で残酷に殺害した人物だ。それ以来、彼は最初の犯罪から受けた精神的な傷を克服するためにまた殺人を犯すことになり、いつの間にか自分でも知らないうちに意味も名分もない殺人を繰り返す殺人鬼になってしまったというのが彼に与えられた設定である。しかし、6年が過ぎた後、ジュヒョプは過去を隠したままある田舎町で犬を飼育しながら過ごしている。「殺人者」はタイトルとは反対に、ジュヒョプが殺人鬼として生きた過去ではなく、正常に生きようと努力する現在から話を進める。つまり、映画で話したいことは殺人鬼の本能を押さえているジュヒョプの苦悩と、悪い血がそのまま残って自分も父親のように悪くなるのではないかと心配するジュヒョプの息子ヨンホの内的葛藤である。鮮血が飛び散るハードコアなクライム・スリラーを期待した観客に、映画は心理スリラーとして調理した料理を突きつけている。観客の期待を裏切ってでも突きつけた監督のお勧めコースは美味しかったのだろうか。残念ながら、監督が推薦した料理の味は水準以下だ。料理には誰が見ても新鮮で良い材料であるマ・ドンソクという俳優がいるにも関わらず、監督のレシピは材料の新鮮さをそのまま生かせずに、味気ない料理を作ってしまった。どこに問題があったのだろうか?一番大きな問題は現象だけが存在しているということだ。ジュヒョプが殺人を止めるきっかけが描かれないまま、殺人を止めて元気に過ごしている現象だけが存在する。ジュヒョプがジスを見て思い出す場面はあるが、そのような現象について映画が具体的に提示する手掛かりは何もない。ジュヒョプの直感、突然思い出した昔の記憶だと遠回しに暗示するだけだ。このように蓋然性が単純で粗い映画の物語は、観客がしきりに時間を気にするようにする。シナリオの問題はこれだけではない。映画の中の台詞を噛みしめてみよう。映画の中の人物は一様に鳥肌が立つレベルの台詞を言っている。皆が激しい思春期を経験しているようだ。「幸せになりたい。一人でいたい」など、直接的な感情表現の他に意味の分からない台詞がほとんどだ。これはジュヒョプが隠しておいた殺人鬼の本能を取り戻す時も同じだ。「どうして出てくる、お前さえいなければ良かった!」と。この映画はホラージャンルを掲げながらも汚い言葉は控えており、台詞の作り方が下手だ。結局、「殺人者」は観客の期待を裏切ったことに止まらず、適当な満足感さえ与えられなかった。強烈なタイトルとマ・ドンソクという俳優のオーラを観客を引き寄せる材料として使ったものの、いざ映画は過度に従順な流れで退屈さを与える。スリラーなら人物とストーリーで緊張感を作らなければならないが、この映画はその足りない部分を頻繁に音響効果で埋めようとする。観客がその程度のやり方にだまされるほど甘くないということを監督は見落としたのだろうか。この映画は全般的に不安で退屈だ。人物の関係設定とストーリーの流れは十分に予想可能で、結末ではジャンルの変化を試みる。最初からこの映画が言おうとする話、つまり正しく生きようとする殺人鬼の人生の後半部と自分の父親が殺人鬼という事実を知った息子の内的葛藤だけに集中して伝えようとしたらどうなったのだろうか。ジスの介入なしに父親と息子の間に流れる緊張感だけに集中したなら、映画の不安を少しは取り除けたのではないだろうか。結果的に、映画「殺人者」は俳優マ・ドンソクに借りを作ってしまった。
【映画レビュー】「朝鮮美女三銃士」韓国の歴史とハリウッドの素材が融合“忠実に模倣”
重いストーリーと荒唐無稽なコメディの間で面白さが失われたことが残念「朝鮮美女三銃士」は最近韓国の映画界で巻き起こっている時代劇ブームと深く関連している。しかし、歴史的事実の再解釈を試みた「王になった男」や、官能的な要素を浮き彫りにした「後宮の秘密」、歴史的事実に意外な素材を融合させた「観相師」などとは方向性が違う。「朝鮮美女三銃士」は、「シャーロック・ホームズ」を手本にした「朝鮮名探偵 トリカブトの秘密」や韓国版「オーシャンズ11」を掲げた「風と共に去りぬ!?~THE GRAND HEIST」に酷似している。これは、韓国の歴史とハリウッド的な素材とジャンルを結びつけたハリウッド製品の安価な国産化戦略である。もちろん、基礎となった映画がハリウッドのアクション映画「チャーリーズ・エンジェル」であることは子供でも分かるだろう。「朝鮮美女三銃士」は「朝鮮にもチャーリーズ・エンジェルのような便利屋がいたならば、どうなっていただろう?」という想像力を発揮した。「朝鮮にもチャーリーズ・エンジェルがいたら?」という想像から優れた剣術の実力者でリーダーのジノク(ハ・ジウォン)、金になることなら誰よりも先に立ち、宙返りと手裏剣を得意とする主婦の剣客ホンダン(カン・イェウォン)、愛嬌の欠片もないぶっきらぼうな性格で弓と爆発物を得意とするカビ(Brown Eyed Girls ガイン)は、ムミョン(コ・チャンソク)から与えられる様々な情報から賞金のかかった犯罪者を追跡する朝鮮最高の賞金稼ぎである。そして彼女たち「美女三銃士」は、王の密命を受け失われた十字鏡探すために乗り出す。十字鏡に隠された秘密が清の軍事地図という設定からすると、「朝鮮美女三銃士」が舞台にしている時代は朝鮮が北伐計画(中国の歴史上で北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすこと)を推進していた孝宗(ヒョジョン)時代だ。実際、密かに進められていた北伐計画が、清と繋がっていた者たちによって密告された事件が孝宗時代にあったとされている。「朝鮮美女三銃士」は、歴史を基にしているが歴史から何かを抽出して作られた作品ではない。スモーキーメイクの剣客が登場し、ヨーヨーとヌンチャクが武器として使われる「朝鮮美女三銃士」は、ファンタジー武侠映画として見るべきだろう。「もし朝鮮にもチャーリーズ・エンジェルがいたらどうなっただろう?」というパク・ジェヒョン監督の言葉通り、「朝鮮美女三銃士」は朝鮮の歴史にチャーリーズ・エンジェルという素材を投げ入れた作品だ。「朝鮮美女三銃士」というタイトル(「チャーリーズ・エンジェル」の韓国でのタイトルは「美女三銃士」)、「チャーリーズ・エンジェル」のチャーリーとボスレーを合わせたような役を担うムミョン師匠、画面分割で始まるオープニングからバレエダンスのシーンまで、かなりの面で「チャーリーズ・エンジェル」を忠実に模倣している。「朝鮮美女三銃士」のB級ギャクスタイルから思い浮かぶ映画は、他でもないパク・ジェヒョン監督の前作「ウララ・シスターズ」だ。M&Aを「マザーアンドママ」と解釈し、「ママのように気楽に任せなさいという意味」を叫んでいた「ウララ・シスターズ」のギャクスタイルは、「朝鮮美女三銃士」でも有効だ。賞金稼ぎという本来の設定と、面白いギャグスタイルが力を発揮する「朝鮮美女三銃士」の序盤はB級映画として楽しめる部分が多い。まるで「アイアンマン」をパロディしようとして作られたような真鍮の鎧を着たシーンや、朝鮮時代には絶対なかったキックボードを連想させる乗り物での移動、ヨーヨーを利用したアクション、地形に偽装したソン捕卒(ポジョル:朝鮮時代の官員、ソン・セビョク)などがそうだ。男性ばかりの賞金稼ぎの中、女性たちが力と知恵を働かせて先にターゲットを狩る姿が与える快感も爽快だ。しかし、サヒョン(チュ・サンウク)が本格的に登場する中盤以降、映画は賞金稼ぎの話ではなくなり、一族の仇と復讐のドラマに切り替わる。問題は深刻なドラマが強調されるほど金目当ての賞金稼ぎという設定の面白さが失われる点である。重いドラマと荒唐無稽なコメディを脈絡なく行き来するせいで物語の一貫性が感じられにくい。深刻なサヒョンの恋人と余裕たっぷりの美女三銃士のメンバーとの行き来で忙殺されるジノクが可哀そうな程だ。ストーリーにジノク個人の人生が絡み、ホンダンとカビの割合が縮小する点も残念である。ジノクだけに焦点が当てられる後半、ホンダンとカビは活動するが、共に戦う相手は共通の敵ではなく、ジノクの復讐のために美女三銃士一味が動員されたような印象が強い。「チャーリーズ・エンジェル」や「ワンダー・ガールズ 東方三侠」がどのような形でキャラクターたちを魅力的に見せ、各自の、そして全員の物語を作り上げていくかを参考にしていれば、ホンダンとカビがこれほど冷遇されることもなかっただろう。アレクサンドル・デュマ・ペールの小説「三銃士」の名ゼリフ、「一人は皆のために、皆は一人のために(All for One, One for All)」が「朝鮮美女三銃士」にも必要だった。最近、忠武路(チュンムロ:韓国の映画界の代名詞)では女優たちの居場所が益々狭くなってきているのが現状だ。ハ・ジョンウ、ソン・ガンホ、リュ・スンリョンなど男性俳優たちは全盛期を謳歌しているが、女性キャラクターを全面に出した映画は稀だ。韓国を代表する女優チョン・ドヨンは、オファーをくれる映画があまりないと訴えた。このような状況の中、女優を全面に出した「朝鮮美女三銃士」は存在自体に意味がある。それだけに、映画がこのような完成度で仕上がったことが悔やまれる。
【映画レビュー】「僕らの青春白書」激動の1980年代を生きた若者たち…暴力と恋愛がすべてではない
「僕らの青春白書」は、1982年が背景の映画だ。粛軍クーデター(1979年12月12日に韓国で起きた軍内部の反乱事件)で国家権力を手に入れた全斗煥(チョン・ドゥファン)が第五共和国体制を発足させた直後である。政権に正統性がなかった新軍部政権は、自分たちへの国民の関心を他のところに向かせるため文化の統制を解除した。いわゆる3S(セックス、スクリーン、スポーツ)融和政策の結果、1982年にはプロ野球が始まり、劇場では「愛馬夫人」が上映された。そして維新時代(朴正煕(パク・チョンヒ)時代の後期、1972年10月17日から1979年10月26日まで)から続けられた通行禁止が解除されたのもこの頃だった。この時期に学生たちが手に入れたものは頭髪自由化と制服自由化だった。「僕らの青春白書」の主人公は、自由なヘアスタイルが可能になった1980年代最後の制服世代(制服自由化は1983年から施行された)である1982年、忠清道(チュンチョンド)に住んでいた生徒たちだ。ソウルから来たソヒ(イ・セヨン)に気に入られるためあらゆる手段を使うジュンギル(イ・ジョンソク)だが、ソウルの気難しい彼女は甘くない。幼なじみのジュンギルに片思いしているヨンスク(パク・ボヨン)は彼に猛アタックするが、彼は目もくれない。またグァンシク(キム・ヨングァン)は自分の気持ちを分かってくれず、ジュンギルだけを見ているヨンスクのせいで気持ちが穏やかでない。「僕らの青春白書」は、忠清道を制覇した洪城(ホンソン)農業高校の喧嘩の強い女子高生ヨンスク、沢山の女子高生を泣かせた洪城農業高校伝説のプレーボーイ・ジュンギル、ソウルから洪城農業高校に転校してきた清純で可憐な女子高生ソヒ、洪城農業高校のトップでヨンスクなどと忠清道一帯を制覇したグァンシクが主な登場人物である。ヨンスク、ジュンギル、ソヒ、グァンシクの交差する人間関係を描いた「僕らの青春白書」の観戦ポイントは意外性だ。「過速スキャンダル」で国民の妹として人気を得たパク・ボヨンは大胆なイメージチェンジを図った。リアルな忠清道訛りを駆使しながらコンパスで相手を制圧する喧嘩の強い女、ヨンスクはパク・ボヨンがこれまで演じた他の映画のキャラクターたちとは明らかに違う。少女のイメージを捨て、沢山のチンピラを部下に持つヨンスクに変貌したパク・ボヨンは、この映画の最大の見どころだ。「僕らの青春白書」はなぜ1980代に行かなければならなかったのか?レトロももう一つの楽しみだ。「サニー 永遠の仲間たち」から始まったレトロブームはその後「建築学概論」「ミナ文房具店」「全国のど自慢」などに広がった。ドラマでは「応答せよ1997」「応答せよ1994」が人気を集めた。今韓国の大衆文化は、まさにレトロ全盛時代と呼んでも過言ではないほどだ。「僕らの青春白書」はこれらの作品に負けじとレトロなものを熱心に並べる。サンウルリム(山びこ)の「いたずらっ子」と SONGOLMAEの「偶然に出会った君」が流れる中、80年代忠清道の生徒たちの通学手段だった通学列車とデートの場所だったパン屋が主な舞台となっている。また、当時の中華料理店と劇場も登場する。今は消えた教練授業とその時の学生たちの遠足などは、その時代を経験した人には思い出を、知らない人には新鮮さを与える。当時流行したマクガイバーナイフ(スイス・アーミーナイフのことを指す)やローラースケート、そのときに流行っていたブランドが刻まれたスニーカーや靴下などの小物も思い出を呼び起こす。4人の恋愛戦線が映画の主な流れになっているが、この映画はジュンギルの成長物語に近い。面白いことに「僕らの青春白書」は、1980年代のハリウッド人気映画「愛と青春の旅だち」と関係が深い。「愛と青春の旅だち」に登場した父と対立する息子の反発と離れた母への恨みなどが「僕らの青春白書」でほぼ同じように再現される。海軍学校の生徒だったザック・メイヨ (リチャード・ギア)の成長とジュンギルの成長は妙に重なるのだ。「愛と青春の旅だち」で人前で(そのような)ふりをして生きてきた男性が真の愛の前で初めて自身の姿を表す部分は、ジュンギルとヨンスクの関係と重なってみえる。さらに「僕らの青春白書」のエンディングシーンは「愛と青春の旅だち」のエンディングシーンをそのまま持ってきた。しかし「愛と青春の旅だち」のテーマ曲である「Up where We belong」ではなく、1980年代の別の映画である「マネキン」のテーマ曲だった「Nothing's Gonna Stop Us Now」を取り入れたことは疑問だ。おそらく「誰も私たちを止めることはできない」というは歌詞が「僕らの青春白書」によりふさわしいと思ったようだ。これまでの韓国映画で学園が舞台である、1970年代明るい笑いを誘った「ヤルゲ」シリーズと1980年代の受験地獄を題材にした「幸せは成績順じゃないでしょう」、1990年代のホラー映画「女子高怪談」シリーズの雰囲気とは全く異なる。「マイ・ボス マイ・ヒーロー」「風林高」「火山高」などは学園を暴力の場に変化させた。「暴力サークル」と「WISH」はこれらの正統な後継作品だ。いじめを題材にした「ケンカの技術」「放課後の屋上」は庶子だと見ても良いだろう。これを継承した「僕らの青春白書」の学園からは暴力の面白さ以外のものを見つけるのは難しい。「僕らの青春白書」は、レトロの他になぜ1980年代に行かなければならなかったのかを説明できない。1980年代のレトロ映画の展示会はもう10年前に「品行ゼロ」「夢精期」「海賊、ディスコ王になる」などで終わってしまった。これらに比べ「僕らの青春白書」が進歩したところはない。ただ学園を暴力の場にした、「サニー 永遠の仲間たち」の七姫派の拡張版程度の意味しかない。これは「悪い世界の映画社会学」で映画評論家のキム・ギョンウクが言及した「(1980年代の)政治、社会的痕跡を見せないためには、主人公たちは大人ではなく、まだ世間知らずの少年でなければならない。抑圧と暴力が混ざったその時代が少年たちの視線を通過し郷愁というふるいにかけられ、消えてしまう」という指摘と合致する。「弁護人」を演出したヤン・ウソク監督は1980年代を産業化と民主化の密度が一番高かった時期だと言った。彼は、親世代がそんな1980年代をどう乗り越えたのかを見せたかったとも話した。このような激動の1980年代を生きた若い世代を不良とプレーボーイの恋愛だけで描いている「僕らの青春白書」は、現実逃避の映画に近い。果たしてその時代を生きた血沸く青春が見せられるのは拳と恋愛だけなのだろうか?その時代の青春を別の形で描いた映画が出てくることを期待しよう。
【映画レビュー】「弁護人」拝金主義から人権弁護士への変化、ソン・ガンホが巧みに演じた
故ノ・ムヒョン元大統領の話が題材の映画「弁護人」は、公開前から高い関心を受けていた。政治理念や故ノ・ムヒョン元大統領に対する個人的な感情によって映画への反応は二分した。特定のグループによる評価テロと、故ノ・ムヒョン元大統領を懐かしむ人たちの期待である。そこに映画「スノーピアサー」「観相師」で連続ヒットに成功したソン・ガンホが故ノ・ムヒョン元大統領をモデルにした主人公ソン・ウソク役を演じたとあって、人々は連日映画館に足を運んでいる。先に断っておくが、「弁護人」は故ノ・ムヒョン大統領の政治的足跡を辿る映画ではない。この映画の中には政治的に偏った立場や主張などは盛り込まれていない。ただ一般的な常識では納得し難い事件に憤る人間ノ・ムヒョン、市民ノ・ムヒョン、弁護士ノ・ムヒョンが描かれているだけだ。80年代を背景にしているだけに、その時代の歪んだ権力、乱れた社会的背景を避けては通れない。しかし、背景は言葉通りただの背景であり、この映画はソン・ウソクという人物が激動の時代を通して得た省察がメインだ。故ノ・ムヒョン元大統領が生前よく言及していた常識という言葉。この言葉の意味を今、ソン・ウソクが振り返る。貧しい家庭で育った高卒の弁護士ソン・ウソク(ソン・ガンホ)は、大田(テジョン)で裁判官として働いていたが、退職して釜山(プサン)に帰り、登記・税法専門の弁護士になる。人々は「弁護士がそんなことをするのか」と嘲笑ったが、ソン・ウソクにとって弁護士という職業は金儲けの手段に過ぎず、社会的地位は重要ではなかった。そして彼はダンスクラブの前でも数十枚の名刺を配る。貧乏から抜け出そうとする彼の姿は、普通の家庭の家長となんら変わらない。優れたビジネス手腕で顧客を集めることに成功した彼は、希望通りマンションに引っ越すなどして成功を収める。その中で国家保安法と関連した釜林(プリム)事件の弁護を担当することになる。この事件には、貧しかった受験生の自分に熱いクッパ(韓国風雑炊)をご馳走してくれたクッパ屋のおばさん(キム・ヨンエ)の息子パク・ジヌ(ZE:A シワン)が関与していた。周囲から引き止められつつ事件を担当したソン・ウソクは、この事件を機に人権弁護士として生きることになる。「弁護人」は体感温度の高い映画だ。特に法廷ドラマが本格的に繰り広げられる後半部分は、ソン・ガンホの熱演でさらに盛り上がりを見せる。映画が発する熱気は、題材である釜林事件が浮上して始まる。釜林事件とは、1981年第5共和国当時、公安当局が釜山で読書会をしていた学生や教師、会社員など22名を令状なしで逮捕した後、不法に監禁し残酷に拷問した容共操作事件のことだ。公安当局が彼らを共産主義者だと規定した理由は、当時不穏の書とされていた「歴史とは何か」「小人が打ち上げた小さなボール」など、利敵表現物を学習・討論したということだった。映画は釜林事件を機にヒューマンドラマから法廷ドラマへと本格的に転換する。優しい笑顔とユーモアを兼ね備えたソン・ウソクは、乱れた社会に対し断固として言うべきことを言おうとする弁護士ソン・ウソクへと変わる。映画に充満する温もりと人間味もこの地点を過ぎてからは非常識への怒りと真実を明かそうとする情熱に変わる。そして興奮が頂点に達した時、ソン・ウソクの口から私たちが叫びたかった言葉が出てくる。「韓国の全ての権力は国民から出る。国家とは国民です」映画はソン・ウソク、あるいはソン・ガンホの映画だと言っても過言ではないほどソン・ウソクを中心に彼の変化を描いている。映画「南營洞1985」よりは「フォレスト・ガンプ/一期一会」のイメージに近い。公安当局の冷たく不気味な空気よりは人の匂い、湯気の立つ温かいクッパが印象深い映画だ。温かさの中でも不快だったり、怒りを覚えることがあっても、最後は切なくなるところがこの「弁護人」に盛り込まれた感情のジェットコースターだ。「弁護人」は、全体的に優れた構成のヒューマンドラマだが、所々残念な部分がある。しかし、これから話す3つの欠点は監督の意図によるものであり、この映画の良さを確実に見せるための試行錯誤による結果だ。まず一つ目は、話の展開速度だ。映画の序盤はソン・ウソクという人物が税法専門の弁護士にならざるを得なかった過程をスピード展開で見せてくれる。しかし、中盤からはそのスピードが徐々に遅くなる。それは恐らくソン・ウソクの感情を観客側に同じスピードで共感してもらおうとする監督の意図だと思われる。観客がソン・ウソクの感情を共有できるように十分な時間を使って描かれたが、これにより映画が少し退屈なものになってしまった。二つ目は、ソン・ウソクを除いた全ての周辺人物のキャラクターが立体的ではないことだ。これは、ソン・ウソクだけを際立たせるための監督の手法と言えるが、これにより複数の人物が存在感を失った。特にチョ・ミンギ演じるカン検事はソン・ウソクのカリスマ性に適確に応じることができず、イ・ソンミン演じる記者イ・ユンテクも職業の設定上見せる性格以外に人間的な魅力が見られなかった。その中で最も目立っていたと言える登場人物は、ソン・ウソクとは別の方法で愛国を示すチャ・ドンヨン刑事(クァク・ドウォン)だ。チャ・ドンヨン刑事が共産主義者の打倒に没頭する名分は、彼のひと筋の歴史が説明するものが全てである。クァク・ドウォンの好演により、チャ・ドンヨン刑事の存在感はしっかりしたものになった。一番の見所はチャ・ドンヨンがソン・ウソクと舌戦を繰り広げるシーンだ。涙が溢れんばかりの顔でジヌを弁護し、国家について説くソン・ウソクを前にしてもチャ・ドンヨンは動じず、堂々とした態度で自身の行動の正当性を疑わなかった。三つ目は、事件の調査過程でジヌの拷問シーンが繰り返されたことだ。拷問シーンは「南營洞1985」で飽きるほど見ているためデジャブを感じ、非常に直接的な描写は不快なほどであった。これは、ソン・ウソクが事件に対して更なる怒りを感じるようにさせ、観客たちを動揺させるためのものだが、その結果、温かい雰囲気の映画を重苦しく不快なものにしてしまったのではと思わせた。「弁護人」は、ソン・ガンホの演技抜きには語れない映画だ。この映画を通して初めてセリフを練習したと言うソン・ガンホは、完璧に近い演技を見せた。彼の演技は幅広いジャンルをカバーできる上、強弱をつけることに長けているという長所を持っている。今回の映画では、彼の演技力がそのまま発揮された。貧困、学歴などのコンプレックスから大学生のデモを客気に駆られた行動だと思っていたソン・ウソクがこの事件をきっかけに社会に関心を持つようになる過程は、ソン・ガンホの眼差しの変化からも分かる。クッパ屋のおばさんと手を取り合うソン・ウソクと、社会の悪からの握手を振り切るソン・ウソクは、ソン・ガンホの演技によって差別化され、同一視されたりする。力を抜くべきところでは抜き、力を入れるべきところでは力を入れる緩急の調整は、この映画の価値を高める核心的要素だ。3分にも及ぶロングテイクのシーンで彼の真価は発揮され、それと同時にキム・ヨンエ、クァク・ドウォン、オ・ダルス、シワンなどによる適切な演技は映画の完成度を更に高めた。2012年に公開された映画「26年」は、光州(クァンジュ)民主化運動を弾圧したあの人に復讐する内容を描いた作品だ。その1年後、「弁護人」は「26年」の中のあの人の時代に世の中を直視し、常識が通用する世の中を作ろうとした故ノ・ムヒョン元大統領、いや、弁護士ノ・ムヒョン、人間ノ・ムヒョンを描いている。実に皮肉なことである。「弁護人」は、あえて故ノ・ムヒョン元大統領を思い出さなくても商業映画として適確な完成度と面白さを兼ね備えた映画だ。この映画の善意は、どの時代にも不正に対抗しようとする正義が存在したという事実を教えてくれたことにある。騒然とした社会の中、観客が「弁護人」を見る理由が正にここにあるのではないだろうか。