【映画レビュー】「泣く男」はなぜ「アジョシ」になれなかったのか…共感しにくい男の涙
※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。
普通の近所のおじさんとは違い、近所にいるとは想像すらできないイケメン俳優のウォンビンを“アジョシ(おじさん)”にするという大胆な設定だったが、自ら長い髪を切り、少女を救い出そうと意志を燃やすシーンは多くの女性の心を刺激し、非現実的な状況を克服した。そして従来の韓国のアクション映画とはレベルの違う強烈なアクションシーンは、男性にもアピールすることができた。
映画「レオン」や「TAKEN」、そして「ボーン」シリーズが適度に混ざった「アジョシ」は、不足していた独創性を俳優とアクションでカバーし、韓国のアクション映画の新たな転機となった。それ以降に作られた強い男性が登場する映画、例えば「ある会社員」「プンサンケ」「シークレット・ミッション」「同窓生」「サスペクト 哀しき容疑者」などは、「アジョシ」が作り出した韓国映画のフィールドで育った作品だ。
組織の命令でターゲットを葬り去っていたところ、ミスで少女を殺してしまったゴン。彼がどうしても殺すことができないターゲットは少女の母親であるモギョン(キム・ミニ)だ。モギョンは殺さなくてはならないターゲットの母親だったキム・ジョムシム(ナ・ムニ、「熱血男児」)と、最後まで守らなければならない少女ソミ(キム・セロン、「アジョシ」)と同じだ。
「アジョシ」の影響を受けた映画が多数登場したせいか、イ・ジョンボム監督は「泣く男」で主人公のゴンを殺し屋に設定することで変化を図った。しかし、殺し屋は「熱血男児」のヤクザ、「アジョシ」の元特殊要員よりもリアリティのない設定だ。そして、新しいものを見せたいという情熱は大胆な銃器の活用に走らせた。
ゴンの身体に刻まれたタトゥーと涙からは「クライング・フリーマン」が、女性を守るために全てを投げ打つ殺し屋からは「狼/男たちの挽歌・最終章」が頭をよぎる。何よりも「泣く男」がこれらの映画から拝借してきたのは冷酷な殺し屋がある事件をきっかけに“失われた感情”を取り戻すという内容だ。90年代のアクション映画のスタイルで有名な「クライング・フリーマン」と「狼/男たちの挽歌・最終章」に深く影響を受けた「泣く男」は、まるで70年代に生まれた世代(イ・ジョンボム監督は1971年生まれ)が感じていた映画の情緒を自己流の方法で噴出した試みのように感じられる。
「熱血男児」の母親と「アジョシ」の少女を思い出してみよう。主人公は何らかの事情で彼らと接点を持ち、気になる存在になる。彼女たちが主人公の感情に与えた影響は明確で、何故主人公がそう行動するようになったのか観客にはっきり伝わった。
しかし、「泣く男」は違う。ゴンが殺した少女の母親で娘を失ったモギョンの話と、子供の頃に遠い異国に捨てられたゴンの過去は感情の繋がりがない。ゴンが何故そのような行動を取っているのか?罪悪感からなのか、過去から逃れようともがいているのか、或いは自身の安息のためなのか、全く見当が付かない。ゴンの行動と彼が流す涙に感情移入できない状況で、しきりに登場する銃撃戦は疲労感を誘発するだけである。
銃撃戦もあまりにも現実離れしていて実感が沸かない。ソウルの真ん中で銃撃戦を繰り広げているのに警察は一人も見当たらないし、隣人も出てこない。都心で爆弾テロが起きるという通報を受けて出動した警察が取る行動はバカバカしく、ソウルの高層ビルから警備員が一人も見えなかった時は呆気にとられた。映画はただスタイルに拘っているだけで、リアリティを出す雰囲気を調整することには関心がないようだ。
「泣く男」でモギョンはゴンに「何故私にこのようにするのですか」と聞き、ゴンは「疲れている」と答える。ストーリーとスタイルの不一致が続き、耳を刺激する銃撃戦だけが乱発する「泣く男」を見る観客も疲れるのは同じだ。
「熱血男児」でソル・ギョングが流した涙と「アジョシ」でウォンビンが流した涙を観客が理解することができたのに対し、「泣く男」は威圧感のあるチャン・ドンゴンの眼差しだけが印象に残った。イ・ジョンボム監督の3番目となる“男性シリーズ”は男性が流す熱い涙を見せることに失敗した。
写真=Dice Film、CJエンターテインメント
2010年に公開されたイ・ジョンボム監督の「アジョシ」は当時600万人を超える観客を動員し、その年の韓国映画興行成績ランキングで1位になった話題作だ。「アジョシ」が人気を集めた要因としては、まず俳優ウォンビンが挙げられる。普通の近所のおじさんとは違い、近所にいるとは想像すらできないイケメン俳優のウォンビンを“アジョシ(おじさん)”にするという大胆な設定だったが、自ら長い髪を切り、少女を救い出そうと意志を燃やすシーンは多くの女性の心を刺激し、非現実的な状況を克服した。そして従来の韓国のアクション映画とはレベルの違う強烈なアクションシーンは、男性にもアピールすることができた。
映画「レオン」や「TAKEN」、そして「ボーン」シリーズが適度に混ざった「アジョシ」は、不足していた独創性を俳優とアクションでカバーし、韓国のアクション映画の新たな転機となった。それ以降に作られた強い男性が登場する映画、例えば「ある会社員」「プンサンケ」「シークレット・ミッション」「同窓生」「サスペクト 哀しき容疑者」などは、「アジョシ」が作り出した韓国映画のフィールドで育った作品だ。
ありきたりな設定から新しさを見い出そうとする試み
イ・ジョンボム監督が俳優チャン・ドンゴンとタッグを組んだ「泣く男」は、監督のデビュー作「熱血男児」と2作目の映画「アジョシ」に続く“男性シリーズ”と言っても遜色がないほど似た要素が多い。「熱血男児」では友人の死、「アジョシ」では妻の死で傷ついた人物が登場したが、今回は殺し屋のゴン(チャン・ドンゴン)が主人公として登場する。組織の命令でターゲットを葬り去っていたところ、ミスで少女を殺してしまったゴン。彼がどうしても殺すことができないターゲットは少女の母親であるモギョン(キム・ミニ)だ。モギョンは殺さなくてはならないターゲットの母親だったキム・ジョムシム(ナ・ムニ、「熱血男児」)と、最後まで守らなければならない少女ソミ(キム・セロン、「アジョシ」)と同じだ。
「アジョシ」の影響を受けた映画が多数登場したせいか、イ・ジョンボム監督は「泣く男」で主人公のゴンを殺し屋に設定することで変化を図った。しかし、殺し屋は「熱血男児」のヤクザ、「アジョシ」の元特殊要員よりもリアリティのない設定だ。そして、新しいものを見せたいという情熱は大胆な銃器の活用に走らせた。
ゴンの身体に刻まれたタトゥーと涙からは「クライング・フリーマン」が、女性を守るために全てを投げ打つ殺し屋からは「狼/男たちの挽歌・最終章」が頭をよぎる。何よりも「泣く男」がこれらの映画から拝借してきたのは冷酷な殺し屋がある事件をきっかけに“失われた感情”を取り戻すという内容だ。90年代のアクション映画のスタイルで有名な「クライング・フリーマン」と「狼/男たちの挽歌・最終章」に深く影響を受けた「泣く男」は、まるで70年代に生まれた世代(イ・ジョンボム監督は1971年生まれ)が感じていた映画の情緒を自己流の方法で噴出した試みのように感じられる。
アクションとスタイルで勝負、その結果は…
「泣く男」は前作よりもスタイルへの拘りがより一層強くなっている。まるで一時期流行っていた香港ノワール映画の銃撃戦を見ているようなデジャブさえ感じる。そして、スタイルへの執着が強くなるほど映画のストーリーはますます現実離れしていった。ストーリーはスタイルを表現するための道具になってしまい、悪い意味で浪費と言ってもいいほど消費され、捨てられてしまった。「熱血男児」の母親と「アジョシ」の少女を思い出してみよう。主人公は何らかの事情で彼らと接点を持ち、気になる存在になる。彼女たちが主人公の感情に与えた影響は明確で、何故主人公がそう行動するようになったのか観客にはっきり伝わった。
しかし、「泣く男」は違う。ゴンが殺した少女の母親で娘を失ったモギョンの話と、子供の頃に遠い異国に捨てられたゴンの過去は感情の繋がりがない。ゴンが何故そのような行動を取っているのか?罪悪感からなのか、過去から逃れようともがいているのか、或いは自身の安息のためなのか、全く見当が付かない。ゴンの行動と彼が流す涙に感情移入できない状況で、しきりに登場する銃撃戦は疲労感を誘発するだけである。
銃撃戦もあまりにも現実離れしていて実感が沸かない。ソウルの真ん中で銃撃戦を繰り広げているのに警察は一人も見当たらないし、隣人も出てこない。都心で爆弾テロが起きるという通報を受けて出動した警察が取る行動はバカバカしく、ソウルの高層ビルから警備員が一人も見えなかった時は呆気にとられた。映画はただスタイルに拘っているだけで、リアリティを出す雰囲気を調整することには関心がないようだ。
「泣く男」でモギョンはゴンに「何故私にこのようにするのですか」と聞き、ゴンは「疲れている」と答える。ストーリーとスタイルの不一致が続き、耳を刺激する銃撃戦だけが乱発する「泣く男」を見る観客も疲れるのは同じだ。
「熱血男児」でソル・ギョングが流した涙と「アジョシ」でウォンビンが流した涙を観客が理解することができたのに対し、「泣く男」は威圧感のあるチャン・ドンゴンの眼差しだけが印象に残った。イ・ジョンボム監督の3番目となる“男性シリーズ”は男性が流す熱い涙を見せることに失敗した。
- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- イ・ハクフ
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