チュノ~推奴~
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韓国時代劇の歴史を顧みる…1960年代「国土万里」から2011年「根の深い木」まで
2012年、韓国では時代劇がブームを巻き起こしている。年頭から「太陽を抱く月」を始め「武神」「神医」「アラン使道伝」「大王の夢」「馬医」など、数々の時代劇が出ている。時代劇の人気は、昔も今も変わらないようだ。いったい韓国の時代劇の魅力とは何だろうか。韓国の時代劇の歴史は、どういうものなのだろうか。初期野史中心から本格的な王朝史への拡大テレビで放送された韓国最初の時代劇は、1963年にパク・ジンマンが脚本を手がけ、キム・ジェヒョン監督が演出したKBS「国土万里」だった。好童(ホドン)王子と楽浪(ナクラン)姫のラブストーリーを題材にした同ドラマは、当時高い人気を得た。キム・ジェヒョン監督は、「国土万里」で放送業界において自身の能力を認められ、スター監督としても注目を集めた。キム・ジェヒョン監督と「国土万里」の登場は、韓国の時代劇が一歩を踏み出す歴史的な瞬間だった。この時点から各放送局は、どこでも意味があるうえにお金にもなる時代劇を作ることになった。この時期に作られたものが「麻衣太子」「ミンミョヌリ-許嫁-」のような作品だ。当時の時代劇は、王朝史よりは野史や古典を中心に視聴者の民族情緒を刺激することに集中した。このような特性は、1970~80年代にもそのまま受け継がれ、「伝説の故郷」のようなドラマの誕生につながった。興味深いことは、1960年代中盤から後半になって官僚的な権威主義体制だったKBS、商業的で軽快だったTBC、その両局の中間だったMBCが多様な時代劇を制作し、時代劇ブームを加速させたということだ。このとき作られたドラマが「チョンミョンお嬢様」「淑夫人伝」「月山夫人」「首陽大君」「林巨正-快刀イム・コッチョン」「女人天下」「元暁大師」「善徳女王」「キム・オッキュン」のような作品だ。この時期になって時代劇の題材は、野史や古典のみならず、本格的な王朝史へ拡大した。そして、よりスケールの大きい作品が登場し始めた。1970~80年代キム・ジェヒョン監督のライバル、イ・ビョンフン監督が登場放送業界で起きた時代劇ブームで脚本家も世間の注目を集めた。このとき登場したのが、シン・ボンスンとイム・チュンだ。彼らは、当時一番高い人気を得たドラマの脚本家として活躍し、高い原稿料をもらった。シン・ボンスンとイム・チュンは1960年代に登場し、それから30年間韓国の時代劇を左右する影響力を発揮した。時代劇で一躍スターダムに駆け上がった俳優も多かった。そのうちの1人が女優のユン・ヨジョンだった。1971年にMBC「張禧嬪(チャン・ヒビン)」で張禧嬪役を演じたユン・ヨジョンは、ドラマの高い視聴率とともに当時一番ホットな女優として注目を集めた。もちろん、悪役だったためにCMから降板させられたり、視聴者から非難を受けるなどの紆余曲折もあった。それにも関わらず、彼女はその時期を「私の全盛期はその時」と語る。1980年代のカラーテレビの導入は、韓国の時代劇にもう一度変革をもたらした。当時彗星のようにドラマに登場し、韓国の時代劇で波乱を起こしたのが、キム・ジェヒョン監督の永遠のライバルイ・ビョンフン監督だった。彼は、最高の時代劇脚本家であるシン・ボンスンとともになんと8年以上「朝鮮王朝500年」シリーズを演出し、放送業界に新しい変革をもたらした。誰もが口を揃えて不可能だと言った「朝鮮王朝500年」シリーズは、イ・ビョンフン監督の根気と強い意志で誕生した傑作中の傑作だった。8年間にわたって放送され、視聴率には浮き沈みがあったが、彼は太祖から純宗に至る朝鮮500年の歴史の大事件を安定的に演出する手腕を発揮した。このシリーズでイ・ビョンフン監督は、当代最高のスター監督だったキム・ジェヒョン監督と肩を並べる時代劇の達人として名を馳せることになる。面白い事実は、このときのイ・ビョンフン監督が「朝鮮王朝500年」のような王朝史のみならず、「暗行御史(地方官の監察を秘密裏に行った国王直属の官吏)」のような時代劇でも能力を発揮したことだ。イ・ビョンフン監督とキム・ジョンハク監督が手を組んで作った「暗行御史」は、毎回完結するエピソードで3年間人気を得た。恋愛ドラマのスターだった俳優のイ・ジョンギルが暗行御史を演じ、房子(お使い)役を演じた俳優のヒョンシクは、同ドラマでスターダムを駆け上がった。特に、特有のコミカルな演技をアピールしたヒョンシクは、「暗行御史」を始め「馬医」が放送されている2012年まで、20年以上イ・ビョンフン監督の時代劇に出演し、活躍している。1990年代優れた時代劇の作品で社会的ブームを起こした「龍の涙」1980年代に一番注目された作品は、イ・ビョンフン監督の「暗行御史」と「朝鮮王朝500年」シリーズだったが、90年代にはキム・ジェヒョン監督の活躍が目立った。その中でもキム・ジェヒョン監督が演出し、シン・ボンスンが脚本を書いた1994年のKBS「韓明澮(ハン・ミョンフェ)」は、40%を越える高い視聴率を記録し大きな反響を得た。韓明澮役を熱演した俳優のイ・ドクファは、このドラマでその年のKBS演技大賞を受賞し、世祖役のソ・インソク、仁粹大妃役のキム・ヨンランも注目を浴びた。1995年には、KBS「王妃チャン・ノクス~宮廷の陰謀~」、SBS「妖婦 張禧嬪」など、宮中時代劇もたくさん出演した。特に、チョン・ハヨンが脚本を手がけ、俳優のユ・ドングン、パク・チヨン、ハン・ヒョンジョンなどが熱演したKBS「王妃チャン・ノクス~宮廷の陰謀~」と、イム・チュンが脚本を手がけ、俳優のイム・ホ、チョン・ソンギョン、キム・ウォニが出演した「妖婦 張禧嬪」は、それぞれ40%を越える視聴率を記録し時代劇不敗の法則を証明した。だが、明成(ミョンソン)皇后の一代記を描いたハ・ヒラ主演の「燦爛たる黎明」や、光海君から愛された女官キム尚宮(ケトン)の人生を描いたイ・ヨンエ主演の「宮廷女官キム尚宮」は、それほど注目されなかった。1994年に「韓明澮」で人気を得たが、1995年「宮廷女官キム尚宮」の成績不振で面目がつぶれたキム・ジェヒョン監督は、丸1年間歯を食いしばり、1996年「龍の涙」で韓国時代劇の新たな境地を切り開いた。韓国の時代劇は「龍の涙」以前とそれ以降に分かれると言っても過言ではないほど同ドラマの興行成績は、時代劇がドラマのレベルを超え、社会的にどれほど莫大な影響力を与えられるのかを見せてくれた一大事件だった。太祖イ・ソンゲの朝鮮建国から王子の乱、太宗の即位、譲寧大君(太宗の長男)の廃位、世宗(セジョン)の即位まで、朝鮮初期の膨大な歴史を息詰まるほど描き出した「龍の涙」の最高視聴率は、何と49.6%(AGBニールセン・メディアリサーチ、以下同一)で、歴代の時代劇が記録した視聴率を全て上回る記録となった。同ドラマで太宗イ・バンウォン役を演じた俳優のユ・ドングンは、その年のKBS演技大賞を受賞し、ミン氏役を鳥肌が立つほどリアルに表現した女優のチェ・ミョンギルは、演技派のベテラン女優として確実なイメージの変身に成功することになった。1996年、キム・ジェヒョン監督が「龍の涙」でブームを起こしたとき、SBSは当時無名に近かった俳優チョン・フンチェ主演の「林巨正-快刀イム・コッチョン」を制作し、大きな話題を集めた。現代ドラマのようなスピーディーな展開で視線を引いた「林巨正-快刀イム・コッチョン」は、商業放送であるSBSの色を明確に示した企画物だった。「林巨正-快刀イム・コッチョン」で代表されるSBSの企画時代劇は、1998年キム・ソクフン主演の「ホン・ギルドン」につながり、もう一度大ヒットすることになる。1990年代末時代劇の危機、「王と妃」「ホジュン~宮廷医官への道」で乗り越えただが「好事魔多し」と言うのだろうか。次々とヒットした時代劇は、1998年本格的に始まった通貨危機とともに危機に直面する。各放送局は、大規模な制作費を要する時代劇の制作を一時中断することになり、この時期に計画されていた数々の時代劇は撮影中止、または延期されることになった。だが、その時期にもかなり良い時代劇の作品が出ており、それが「王と妃」であった。「龍の涙」の後続ドラマとして制作された「王と妃」は、KBSが制作費を節約するために「龍の男」のオープニング音楽をそのまま使うようにするなど、放送局からあまり支援を受けずに始まった。だが、仁粹大妃を熱演した女優チェ・シラの本格的な登場ともに上がった視聴率は、最高視聴率44.4%を記録し、「韓国の時代劇は死んでいない」という気持ち良い反応を得た。チェ・シラは、この作品を通じてシン・ソンウとの婚約破棄騒動を完全に克服し、KBS演技大賞を受賞した。1996年「龍の涙」、1998年「王と妃」に続き、1999年にはその名も有名な「ホジュン~宮廷医官への道」が登場する。イ・ウンソン脚本家の小説「東医宝鑑」を原作に、チェ・ワンギュが脚本を手がけ、イ・ビョンフン監督が演出を担当したMBC「ホジュン~宮廷医官への道」は、言葉通り韓国全土から人気を集め、大きな話題を呼び起こした。「ホジュン~宮廷医官への道」の放送とともに原作小説「東医宝鑑」は飛ぶように売れ、ベストセラー1位を記録し、全国の漢方病院は例を見ないほど賑わった。最高視聴率63.7%という驚異的な視聴率を記録し、最高の民衆時代劇で国民的時代劇と呼ばれた同ドラマは、イ・ビョンフン監督が10年ぶりに復帰し、直接演出を担当した作品でより意味があった。「朝鮮王朝500年」シリーズで王朝時代劇の可能性を見せた彼は、10年ぶりに「ホジュン~宮廷医官への道」で民衆時代劇の新たな境地を切り開き、韓国が自慢する最高の監督としてその位置を確かにした。また、同作品で主演を演じた俳優のチョン・グァンリョルは、その年MBC演技大賞を受賞する。2000年代初めキム・ジェヒョン監督 vs イ・ビョンフン監督、避けられなかった2回の対決2000年代に入ってから時代劇の歴史は、より一層多彩に発展する。2000年に注目を浴びたのは、キム・ヨンチョル、チェ・スジョン主演のKBS「太祖王建(ワンゴン)」だった。「太祖王建」は、朝鮮時代が中心となっていたそれまでの時代劇から一歩離れ、高麗の歴史に注目したという点で大きな意味を持った作品だったし、最高視聴率も60.2%を記録する国民的な時代劇になった。ほぼ2年近く放送された同ドラマは、2000年には弓裔(クンイェ)役のキム・ヨンチョルに、2001年にはワンゴン役のチェ・スジョンに演技大賞の栄光を抱かせる快挙を達成した。一つのドラマから演技大賞の受賞者が2人も出る珍しい光景が展開された。「太祖王建」が人気を得た2000年を過ぎ、2001~2002年には時代劇ブームが復活する。この時代劇ブームをリードしたのは、やはりキム・ジェヒョン監督とイ・ビョンフン監督だった。KBSを離れ、SBSに移ったキム・ジェヒョン監督は、チョン・ナンジョンと文定王后の一代記を描いた「女人天下」でブームを起こし、イ・ビョンフン監督もチェ・インホの小説を原作にしたドラマ「商道-サンド-」を作り、20%を上回る良い視聴率を記録した。当時「女人天下」と「商道-サンド-」は、同じ時間帯に放送され激しい視聴率競争を繰り広げたが、結果的にこの視聴率合戦で一勝を挙げた、キム・ジェヒョン監督だった。「女人天下」と「商道-サンド-」が激しく競争した2002年には、チョン・ハヨン脚本、イ・ミヨン主演のKBS「明成皇后」も制作され、高い人気を博した。一時期30%に近い視聴率を記録し、人気を得た「明成皇后」は、「私が朝鮮の国母だ!」という流行語を残すなど、数々の話題を呼んだ作品だった。しかし、高い人気にも関わらず、女優のイ・ミヨンが、放送延長に反対し途中で降板し、論議になった。2002年「女人天下」と「商道‐サンド‐」で激突したキム・ジェヒョン監督とイ・ビョンフン監督は、2003「王の女」と「宮廷女官チャングムの誓い」でもう一度激突する。韓国時代劇のプライドのような2人の巨匠の二番目の激突は、意外とイ・ビョンフン監督が序盤に圧倒的な人気を得て簡単に勝敗が決まった。キム・ヨンヒョン脚本、イ・ビョンフン演出、イ・ヨンエ主演の「宮廷女官チャングムの誓い」は、主人公が数々の苦難を克服していくストーリーでイ・ビョンフン監督の時代劇の水準を一段階グレードアップさせたと高く評価され、57.8%という高い最高視聴率を記録した。特に、この作品は韓国での人気をもとに海外に輸出され、幅広い人気を得た。イランでは、視聴率が90%に達するほど高い人気を博した。イ・ヨンエはこのドラマ一つで韓国を代表する最高の女優として認められることになり、イ・ビョンフン監督も演出家として享受できる富と名誉を一気に享受する栄光を得た。「宮廷女官チャングムの誓い」は、いまだに韓流最高のキラーコンテンツであり、輸出の担い手として評価されている。2000年代半ばまだ時代劇の進化は続く「宮廷女官チャングムの誓い」の成功から、韓国の時代劇は様々なジャンルへの変化を試し、もう一度変身を試みた。この時期に登場したのがチェ・スジョン、チェ・シラ主演の「海神(ヘシン)」で、チェ・スジョンはKBS演技大賞を受賞する。2006年には、50%を越える視聴率を記録したソン・イルグク主演の「朱蒙(チュモン)」が人気を集め、2007年にはイ・ビョンフン監督のもう一つのヒット作である「イ・サン」が、2009年にはキム・ヨンヒョン脚本、コ・ヒョンジョン、イ・ヨウォン主演の「善徳女王」が50%に近い視聴率で大きな人気を得た。2006年にソン・イルグクは「朱蒙」で、2009年にコ・ヒョンジョンは「善徳女王」でそれぞれMBC演技大賞を受賞した。2010年には、チャン・ヒョク、オ・ジホ主演の「チュノ~推奴~」がフュージョン時代劇の新しい境地を開き、話題を呼んだ。「チュノ~推奴~」は、韓国の時代劇がどれほど洗練される形になれるのか、その中でどれほど面白さを与えることができるのかを確かに見せてくれた意義のある作品だった。同ドラマでチャン・ヒョクは、KBS演技大賞を受賞した。2011年に注目すべき時代劇は「根の深い木~世宗(セジョン)大王の誓い~」だった。イ・ジョンミョンの同名小説をもとに作られた同ドラマは、「善徳女王」の名コンビ、キム・ヨンヒョン&パク・サンヨン脚本家が執筆し、俳優のハン・ソッキュが出演して大きな話題となった。ハングル創製を題材に、優れた推理ドラマを描いた「根の深い木」は2011年最高の優れたドラマとして高く評価され、主演のハン・ソッキュはその年のSBS演技大賞を受賞した。このように韓国の時代劇は、50年あまりの歴史の中で大きく変化、発展しながら視聴者の期待を満たしてきた。時代劇に含まれているイデオロギーと思想、悠久な歴史はその時代の精神を眺める一つの窓としての役割を忠実に果たしてきたのだ。そして、これを見守った私たちは、その中で新しい時代のイデオロギーと理念をもう一度発見することができた。これまで時代を描くために努力し、歴史を創造するために情熱を注いだすべての方々に心より拍手を送る。また、これからその道を歩いていく方々にも声援を送りたい。
Vol.2 ― チャン・ヒョク「僕のキャラクターはまだ成長が止まっていないと思う」
―テギルの武術も歴史的な背景やテギルの環境を考えて決めたのか。テギルとテハの武術スタイルは明らかに違う。どのようにアプローチしたのか。チャン・ヒョク:アクションは武術を担当する方々が作るけれど、僕はアクションで見せたいと思う部分があった。アクションと演技は繋がりが必要だし、俳優は自分がやるものについて方向性を持つべきだから。それで、監督や武術監督に相談しながら武術デザインをやってみたいと話した。「チュノ~推奴~」での武術の意味はキャラクターを見せる演技の一部だから。テハやチョルンがやっているのは伝統武術で、宮中で形と枠が組まれている武術をするとしたら、僕みたいなチュノ師は街の中で生き残るために武術を身につけたから、スタイルが違うのが当たり前だと思った。それでいて、チェ将軍とワンソンとも違ったスタイルである必要があるし。「どんなにアクションがかっこよくても、感情を変に表現したら素敵に見えない」―そういう部分が知りたかった。テギルは両班(ヤンバン:朝鮮時代の貴族)の息子出身だから、武術をちゃんと教わったことがなかったはずだと思ったから。テギルの武術はコンパクトで素早く、実戦性が目立つ。チャン・ヒョクさんが修練中であるジークンドー(截拳道)のように。チャン・ヒョク:戦場で教わった武術と街中で教わった武術は違う感じを持つ。そして、当時の街は人が剣を持ち歩いた場所で、特にチュノ師の仕事をするというのは命を外に出して歩いているのと同じだ。そのため、毎日のように命がけで戦ったら、武術の形というものを持つことはできない。手に持ったものが長剣でも短刀でも石でも関係なく、戦って生き残ることだけが何よりだ。だから、チョン・ジホは石で人を殴ったりもする。テギルも全てのものを使うことが出来る必要がある。どんな状況に置かれるか分からないから。そして、両班の息子であった時は、安定した環境に恵まれて決まりきったことばかりやっていたが、生存のためには残酷さを持つことも必要だ。だから、雰囲気や剣を持つ姿から、少し夜叉のような感じもする。また、逆剣(剣を反対側に持つ姿勢)を取る時もあるし、剣を持っているが気軽に台詞を言う時もある。それほど、剣と一緒に生きてきたという感じが必要だ。そのため、僕がやっているジークンドーと似ているように思われる。ジークンドーは決まった枠組みを退け、本質的には生存するための武術だから。―剣を持つアクションはどのように教わったか。チャン・ヒョク:以前、乱切りの技を教わったことがある。そして、ジークンドーでは武器は武器とみなされない。剣を手に持ったら、武器を手にしたというより僕の手が長くなったという意味だ。そして、僕が「チュノ~推奴~」でやっている武術は、正確に言うとジークンドーでなく、詠春拳である。詠春拳はブルース・リーが教わった拳法だから、護身術としてたくさん参考にした。そして、歴史的にも詠春拳は「チュノ~推奴~」の時代以前に厳詠春という人が創始した拳法だから、その時代に使っても考証(描いている歴史的な過去の様子が、史実として適正なものか否かについての検証)も問題ないし。―しかし、ドラマだから実戦性だけを強調するより、視聴者に見せる部分も考えなくてならなかったはずだが、その部分の調整はどうだったか。チャン・ヒョク:実戦なら一発で終わらせなくてはならない。それができないなら、戦わない方がいいし。しかし、ドラマだからビジュアル的に印象に残るようなアクションをデザインすることが必要となる。その意味で詠春拳の護身術が役立った。そして、テギルが武術を修練する時に使うこけし人形も当時、清にそのような人形があって清と朝鮮は交流があったから、テギルがそれを参考にして作ったと思って設定した。ここ10年間のテギルの修練方法を見せる必要があったから。武術を演じる時、重要なのはそのような細かい部分だ。一方、ビジュアル的にアクションをデザインするのは技術面である。しかし、アクションを本当にかっこよく撮っても、感情を盛り込む部分を疎かにに表現してはいけない。テギルが武術をやる時、どんな過去と感情からそれを使っているかを理解して表現する必要がある。―クァク・ジョンファン監督がチャン・ヒョクさんについて「アクションに感情を乗せる」と話したのがそのような部分であるようだ。チャン・ヒョク:これは、ボクシングの試合と似ていると思う。24ラウンドの中、選手がいくつのパターンを持ち、どのラウンドで力を入れ、どこで抜けるか。ただ、アクションをやるのでなく、その流れを考えながらやらなくてならないと思う。もちろん、監督も監督なりに全体的な流れの中で、それぞれの放送回でストーリー進行の速度を調整するし。「今も1つずつ重ねている過程にあると思う」―そういうところから、テギルはチャン・ヒョクさんがこれまで重ねてきた人生の結果のように思える。ジークンドーを習って、DVDを集めながら映画を見てキャラクターを分析したこれまでの人生の結果。チャン・ヒョク:「チュノ~推奴~」に出演する前、どんなターニングポイントがあったのかと何回か聞かれたことがある。たぶん、軍隊や結婚、子どものような部分を考えて質問したと思う。もちろん、それは人生の大きな部分ではあるが、自然に流れていく物事の一つでもある。いきなり変わるものではなく、自然に流れて重ねていくものだ。今、35歳になって「チュノ~推奴~」に出会い、最も多くの物事を作品に注ぐことができたとしたら、「プランダン 不汗党」の時は、ただただそうするしかなかった作品だと思う。―DVDをずっと集め続けている人の言葉らしいと思える(笑) 以前、公開したDVD棚を見たことがあるが、その棚は集めていく楽しさを知っている人が1枚ずつ集めている棚のように見えた。チャン・ヒョク:人の部屋を見たら、その人がどんな人なのか分かるという言葉もあるように、僕のスペースに何をどう飾ったらいいかを考える。ただのインテリアだと意味がないから。僕のスペースの中にあるDVDや本、フィギュアの1つ1つは、全て僕が見て、感じて、僕だけのおもちゃになるものだ。そのため、自分に合う範囲を決めるのも重要だと思う。所蔵をすることも大事だが、見られる分量や範囲を探すことが必要だ。―そのため、映画も毎日一本ずつ見ているのか。映画を一本見終わってから、次の作品を10分くらい見て寝るという話を聞いたが。チャン・ヒョク:10分だけ見たら、次の日、その映画の内容が気になってまた見るようになる。1日に3、4本くらい見続ける時もあるし、DVDは撮影する時も持っていく。面白い作品はもう一度見て、オーディオコメンタリー(映画の解説や実況中継などの音声プログラム)も聞く。ちなみに、運動器具や本も撮影現場に持っていく。―そのような生活がチャン・ヒョクさんの演技において、どんな影響を及ぼしているか。「ワンルンの大地」から「ありがとうございます」、そして「チュノ~推奴~」まで、チャン・ヒョクさんは新しいキャラクターを演じることより、キャラクターの内面をより深く表現することにフォーカスを合わせているように見える。チャン・ヒョク:例えば、僕がジークンドーを1日に3日分練習したとしても次の日休んだら、それは次の2日分をやったことにならない。休んだのはただ休んだことになるから。だから、頭の中で複雑に考えなくていい。そして、そのように演技も気楽にやろうとしている。作品を撮影する時、常に何年間も演じ続けていれば、経験も腕も重ね続くものだと思う。いつか、キャラクターのデザインもやってみたい。それはあるキャラクターが与えられたら、それに細工してキャラクターを立体的に作り上げることだ。そんなことに興味を持っている。―これまでチャン・ヒョクさんが演技経験を積んできたことでジークンドーのように人生の経験も重ねながら、テギルまで来ることができたと思う。テギルがチャン・ヒョクさんの俳優人生の中で1つの区切りをつけたような感じもするが、気分はどうか。チャン・ヒョク:なぜ演技をするかと聞かれたら、キャラクターを表現するのが面白く、キャラクターに躍動感を吹き込むことが面白いからだと答えたい。僕が演じるキャラクターはまだ成長が止まっていないと思う。それはキャラクターの性格を土台にして、成長ストーリーを見せてくれると思う。そして、キャラクターの中には僕に関するいくつかの記録も残るはずだ。様々な役を演じながら、僕の個人史ができて、誰に出会おうとそれがまた僕に違う影響を及ぼすと思うから。そのようなものが流れていく中で作り上げるのが、僕の演技だ。そのため、今も1つずつ経験を積み重ねている過程にあると思う。
Vol.1 ― チャン・ヒョク「『チュノ』はイ・テギルの成長ドラマだ」
「武術に関してなら少しは話せるが」インタビューを始める前、チャン・ヒョクはまるで武術にかなりはまっているアクションスターのように話した。しかし、インタビューが終わる時には、チャン・ヒョクにとって武術に関して話すということは、自分の演技と人生に関して全てのことを話すのと同じ意味であることが分かった。武道家の悟りの原点が武術であるように、チャン・ヒョクは演技をしながら自分の人生を突き進んでいた。彼は武術を演技に溶け込ませてキャラクターを理解し、分析しながら、自分の人生を振り返る。そのため、チャン・ヒョクがKBSドラマ「チュノ~推奴~」でテギルを演じるということは、過ぎた人生の全てをキャラクターに注ぐのと同じことである。テギルを演じながら、彼が得た悟りがどんなものであるかを確認してみよう。 ―「チュノ~推奴~」のシナリオを初めてもらった時、どうだったか。チャン・ヒョク:最近は、ジャンルの境界線がなくなっていると思う。「第9地区」のような映画も、一本の作品の中でSF、アクション、恋愛や政治風刺などが全て入っているじゃないですか。今はジャンルよりも視線や形式、視点の方が重要だと思う。「チュノ~推奴~」も同じだと思った。一般的に、ドラマは主人公がストーリーを引っ張っていき、助演たちは背景にあるという感じだった。しかし、「チュノ~推奴~」は「バンド・オブ・ブラザース」のように様々な人物がそれぞれのストーリーを持つように思えた。ここではテギルの話をしているけれど、違う所ではきっとまた違う話が展開されているみたいな。それぞれの立場によって事件を見る視線が違うけど、ストーリーにおいて焦点が違うだけで似ているストーリーがバランスよく流れるみたいな形だったので、みんなが主人公でありサブにもなるドラマだと思った。「皆がただその時代の中で暮らしていく民衆たち」―そのため、「チュノ~推奴~」はキャラクターに関するストーリーではなく、1つの世界に関するストーリーだと思える。チャン・ヒョク:僕もそう思って、個人的には「チュノ~推奴~」のエンディングにドキュメンタリー形式の映像を付けて、この世界を客観化したいという望みもある。最初は1人のキャラクターの視点で主観的に始まったが、最後を客観的に終えたら、この世界をありのまま見せることができると思う。映画「ファンサンボル(黄山ヶ原)」が好きだけど、その作品では住んでいる地域によってそれぞれ違う方言を使う。そのように、ただ視点だけ変えたのに、これまでの時代劇では見たこともない現実を見せてくれたことがその映画が好きな理由だ。「チュノ~推奴~」もそのような作品の1つだと思う。―だとしたら、「チュノ~推奴~」はどんな世界を描いたストーリーだと思うか。チャン・ヒョク:ドラマの最も重要なポイントは民衆だ。人々がその時代の歴史に影響を受けながら暮らし、その人々の歴史が今まで流れてきたという観点からストーリーを始めたのが「チュノ~推奴~」だと思う。テギルも身分制度のせいで愛する女性と結婚できなかったし、家も没落した。その後、チュノ師(推奴:逃亡した奴婢を捕らえ連れ戻す役)になり、両班(ヤンバン:朝鮮時代の貴族)出身にも関わらず、中人(チュンイン:両班と平民の間の中間層の人)であるチェ将軍と賤民(センミン:最下層の身分とされた人)であるワンソンと一緒に行動する。そのため、「チュノ~推奴~」の中のキャラクターは善と悪の区分がない。皆がただその時代の中で暮らしていく人だからだ。―テギルを時代的な状況が作り出した人物だと思っているのか。チャン・ヒョク:僕が一番好きなキャラクターがドラマ「黎明の瞳」のチェ・デチだが、チェ・デチは歴史的な状況のせいで人生が変わってしまった人物だ。もし、日韓合併がなかったら、徴兵されなかったら、従軍慰安婦のユン・ヨオクに出会わなかったら、彼は共産党員にならなかったはずだ。この人に理念なんかない。ただ、生きていく中でどこかに属していなければならなかったし、彼も知らないうちに彼についていく人々ができただけだ。テギルもチェ・デチと同じだ。テハは大義名分をかけて闘争するし、奴婢たちは生きるために団結して奴婢たちの世界という理念を学習する。しかし、チュノ師たちは理念など持っていない。ただ、奴婢を捕らえることでその1日を生き延びることができて、その間ごとに消えた恋人、オンニョンを探しながら生きていく。そんな中で、他のチュノ師に奴婢を取られないためにただがむしゃらにやっていたら鬼のようなチュノ師になり、チュノ師の中でも1位となる。オンニョンを探し出すことができなかったら、たぶんそんな風に毎日を生きて、ある日、ある町で剣に刺されて死んだかもしれない。―しかし、テギルが時代の流れに押し流されながら生きるだけと言うには、彼は非常に複雑なキャラクターである。「チュノ~推奴~」でテハは真っ直ぐで正しい人、ワンソンは軽い人だと言うことが出来ても、テギルは一言で表現できないキャラクターだ。天下のならず者であるが純情派でもあり、軽薄だが真面目でもある。チャン・ヒョク:テギルは両班層で生まれたが庶民の間で暮らしているから、平等に関する理念が心の中にできそうな人物だ。そのため、そのような感じを根底にしてテギルを演じる。そして、庶民になった後、テギルは生きていくために必死だった。喪中の家の喪主が泣いている途中でもお腹が空いたらご飯を食べるというのに、テギルは言うまでもないと思う。ほとんどの日々は食べていくことに精一杯だったはずだし、ある日は笑ったり昔話もしただろう。そのため、普段生活している彼と彼の精神的な部分を取り出して表現できたら、テギルならではの特徴が表れると思った。―テギルならではの特徴って何だと思う?チャン・ヒョク:たとえば、チョン・ジホは本当に残酷だ。チョン・ジホは人を殺した直後も泰然とした声で部下を呼ぶことができる。しかし、テギルは実力は彼より上だが、性格は彼とは違う。奴婢を捕らえるチュノ師だが、奴婢を助けたりもする。それは彼が優しいからというより、その日はただ気分がいいから、昔のことが思い浮かんだから、助けただけだ。もし、その日気分が悪かったら助けなかったかもしれない。チュノ師のイ・テギルの中に両班家の息子であったイ・テギルが残って、かろうじて野生のけだものにはならずにいる。どのような人物というようにコンセプトを決め付けるより、そのような人生の中で、状況の中で感情通りに動いている。「テギルはいい人とか悪い人ではなく、ただ純粋な人だ」―状況により、言葉遣いにも変化を与えているようだが、チュノ師同士で気軽に過ごす時はリズムに乗りながら話すように感じた。チャン・ヒョク:それは監督と脚本家の先生に許可を得て試してみたことだ。テギルの雰囲気を生かせることができるなら、それが正解だと思ったから。テギルが両班家の息子であった時は間接話法を使った。父親が好きな女性がいるかと聞いたら「いないです。そんな人」と言いながら、心の中では父親が気づいてくれることを願うような話法である。しかし、チュノ師のテギルは自分で話さなくては生きていけないから直接話法を使う。そんな中、彼に様々なことが起こって口論をすることも多い。その時、相手が重要なポイントを話す瞬間、その言葉を切って彼が話し出したら相手はそれ以上話せなくなり、相手を制圧することができる。そうするためには、リズムに乗って話す必要があると思った。しかし、演技や話術より、気を使っている部分は目つきだ。テギルの目はいつも力が抜けている。重要なことではないと、視線も斜めにして対象を見る。そのように彼は普段、感情を隠して、節制して暮らしているから。―その目つきがテギルが悲しく見える理由だと思う。夢や希望を諦めて、普段はぼーっとしながら生きて行こうと自分で決めた人のように見える。チャン・ヒョク:その部分において、映画「ウサギとリザード」の出演経験がテギルを理解するのに役立った。その作品で僕が演じるキャラクターが希少病を持っていていきなり明日死んでもおかしくない人だったが、そのため、他の人はその人の考えを予測することができない。他の人はその人を不幸だと思っているけれど、本人はいつもそんな状況で生きてきたから昨日今日、明日も同じである。今日だけが存在して、世界に意味を付けることなんかしない。テギルも彼と同じだ。オンニョンを探すため、今日も出動して、明日も出動する。それがイ・テギルの純粋さだと思う。いい人とか悪い人ではなく、ただ純粋な人だ。―それでなのか、テギルは妙に子どもっぽいところがある。仕事面では銃に撃たれたその短い瞬間にも正確に状況を判断するが、他の部分ではチェ将軍の方がおとなしい。チャン・ヒョク:そうですね。仕事のうえでリーダーはテギルだが、精神的にはチェ将軍が引っ張っていく。そして、テギルがそんな性格を持つことで、チェ将軍やワンソンと一緒に1つのスペクトルでそれぞれの光の色を持つことができる。それぞれ違う姿を持つキャラクターが調和する感じが大事だ。そして、テギルを演じながら一番悲しかった時は、第1話でカン画伯が描いたオンニョンの絵を見るシーンだった。人相書を作らせるが、とりあえず10年前と同じ姿で描くように強く言う。オンニョンは10年前の彼女じゃないといけないし、自分が見た最後の姿でないといけないとテギルは思っているから。しかし、オンニョンを見つけたとしても、テギルはその後、どうすればいいか分からない。ただ、絵を見る瞬間だけは嬉しくなるから、その絵を持ち歩いて、古くなるとまた作らせる。このようにテギルは両班家の息子であったその時の記憶に捕らわれている部分がある。―それでは、テギルはオンニョンを見つけ出せば、その次のステップを踏むことができるだろうか。今は、オンニョンと別れたその時から彼の人生が止まっているようだが。チャン・ヒョク:それは少し違う。僕の立場から見たら、「チュノ~推奴~」はイ・テギルの成長ドラマだ。人間は大人になってからも成長するが、テギルの場合はそれがコミュニケーション方法での成長だと思う。テギルはまだ子どもっぽく、他人とコミュニケーションがうまくできない面がある。しかし、テハをはじめ、数多くの人々とコミュニケーションをとりながら少し変わっていると思う。僕は寂しい、悲しい、痛いなどの1つの感情ではなく、その全てが積もった感情で変わるんだ。だから、テギルが少しずつ変わっていると思う。―そのように、キャラクターの内面に深く入り込むためには時代に関する分析が必ず必要だと思う。時代に関してはどんな準備をしたか。チャン・ヒョク:以前、「大望」をやった時も、商人を演じるから、その時代の貨幣や行商人、京江商人(キョンガンサンイン:朝鮮時代、漢江を中心に活動し、繁盛した商人)のような内容を勉強したように、今回も基本的な内容の資料は見た。演技のアドリブをするにも、それらの内容を知っておかなければならない。そして、歴史的には中国の明から清に変わる時代で、そのため、社会は混乱していたに違いない。そんな中で、両班の立場からは自分の所有物である奴婢たちの逃亡が頻繁に起こるから、彼らを捕まえるチュノという職業ができた。チュノ師はその時代の一種の傭兵でありながら探偵でもある。足跡をたどり追って、必要な時は戦うから。
【CLOSE UP】チャン・ヒョク ― 完成されていく俳優
テギルは加害者だ。彼は数多くの奴婢を不幸のどん底に追いこんだ。テギルは被害者だ。彼はある奴婢によって全財産を失った。テギルは狡猾だ。自分の利益のためには仲間さえ騙す。テギルは純粋だ。ひとりの女を探し出すために自分のすべてを賭ける。そしてテギルの顔はKBS「チュノ~推奴~」の顔となる。幼年時代は良家の両班家門の息子として育ち、ある日を境に市場をさまようチュノ(推奴:逃亡した奴婢を捕らえ連れ戻す役)として生きることとなった人生。筆を取り文を書いては、刀に持ち替え人を斬る、手。人生の生き方が複雑であるチュノのように、ドラマ「チュノ~推奴~」もひとつの言葉で定義するのは容易ではない。数十人に達する登場人物たちが各自の目的を持ちそれぞれの人生を生きる。オンニという言葉が朝鮮時代当時の意味で使用され、エギサル(一般の矢より広い射程距離とすぐれた殺傷力を持つ特殊な矢)のようなその時代の武器が登場するほど時代考証に対し徹底的だが、時折り、ファンタジーに近いようなシーンも見られる。テギルの中にチャン・ヒョクの35年があるチャン・ヒョクはこの複雑な世界の中心にある。チャン・ヒョクは「チュノ~推奴~」でほぼすべての人物と出会いながら、それぞれ異なる姿を見せてくれる。彼はチュノの仲間たちといる時は軽薄で、争う時は残酷なまでに鋭い刀を振るい、ヘウォンの絵を見る時はまるで子供のような表情を見せたりもする。それぞれ生き方が違うだけに個性の強い人物が登場する「チュノ~推奴~」で、チャン・ヒョクは彼らひとりひとりの前で違う姿を表し「チュノ~推奴~」の広くて複雑な世界をひとつに繋ぎ合わせる。「チュノ~推奴~」のクァク・ジョンファン監督が、チャン・ヒョクを「テギルという役を僕より理解している」と評したように、チャン・ヒョクはテギルを何種類もの断片的な特徴を持ったキャラクターとして表現していない。代わりに彼は「チュノ~推奴~」の世界を生きるテギルの人生の中に深く入って行き、簡単には定義できない一人の男の人生を完成させる。良家育ちのお坊っちゃんが、地獄のような、人生のどん底に落ちた時、どのように生きて行くか。チャン・ヒョクはそんな人生を生きたテギルが普段は正面から人と目を合わさない人物だとして演じ、訓練院教官であるテハと違い、実戦で使うことができるものなどを手当たり次第に学んできたテギルに合うように、実戦に重きを置いた動作などを徹底的に見せようと努力した。それでテギルは「チュノ~推奴~」の顔と、また、チャン・ヒョクの顔と重なる。チャン・ヒョクがテギルの人生の中に入ることができたことは、彼の人生が積み重ねてきた結果でもある。ただチャン・ヒョクが6年の間ジークンドー(截拳道)を学んでいたためテギルの武術を演じることが可能であったからだけではない。彼は映画「火山高」ですでに武術を演技に取り入れる方法を学んでいるし、映画「ジャングルジュース」からSBS「プランダン 不汗党」までたびたび軽薄な若者役を演じた。その自らが明日はないものと思って生きている点で、テギルの生き方は映画「ウサギとリザード」の奇病を患う患者、ウンソルとも似ている。チャン・ヒョクはSBS「タチャ イカサマ師」で憎くて仕方のない敵アグィ(キム・ガプス)の前でも軽薄な表情の中に自分の本音を隠し、波乱万丈な人生の中で拳を振りかざしながら生きて行くコニを見せてくれた。人生と演技を重ねる男そしてテギルはコニよりもっと纎細な表情で、そしてクァク・ジョンファン監督の言葉のようにアクションを通して感情の表現までできる。まるで自分と争った相手の技術をひとつずつ取り込んでいく武術家のように、または彼が10余年前からひとつふたつ集めてきた5000枚を超えるDVDのように、彼は自分の演技に以前演じたのキャラクターをひとつずつ積み重ねる。その道の上で彼はKBS「学校」の問題児で、MBC「ありがとうございます」のギソで、次第に「チュノ~推奴~」のテギルへと近づいて行く。彼は今まで心の中に深い傷を持ったまま世の中と対峙するキャラクターを演じることが多かったが、時が経つほど彼が見せることができる役は、ますます多くなる。そのため、「チュノ~推奴~」はチャン・ヒョクの人生において重要な分岐点になり得る。単に「チュノ~推奴~」が出演作の中では最も高い人気を得た作品だったという理由だけではない。チャン・ヒョクが今までに見た映画たちと、学んだジークンドと、演じた役・作品がゆっくり積み重なって「チュノ~推奴~」のテギルを通じ、ひとつの姿に完成されていく。アクションシーンはたくさんあるが、アクションにも感情が入っているため、主人公ではあるが格好よく見えると言うより複雑な人生を背負っている人物像が浮かんでくる。大衆的な感覚と複雑な内面を併せ持つ人物。チャン・ヒョクはテギルを演じながら自分の長所をひとつに集め、視聴者は時代劇では珍しいアンチヒーローを目にすることとなる。テギルは加害者だ。テギルは被害者だ。テギルは狡猾だ。テギルは純粋だ。そしてテギルは、わからない。そのわからない人間が世界の中心で自分の人生を見せる瞬間、チャン・ヒョクは完成された。自分の人生の記録と演技を重ねながら。
Vol.2 ― チャン・ヒョク「チュノ~推奴~」は“バンド・オブ・ブラザーズ”、「根の深い木」は“100分討論”
「まだカメラに馴染めません」―「根の深い木」は、チャン・ヒョクにとって25作品目であり、3作品目の時代劇となる。自身の演技の幅を広げた「根の深い木」とチャン・ヒョクの出会いは、順調なものではなかった。あチャン・ヒョク:カン・チェユンは当初、今のようなキャラクターではありませんでした。単純な捜査官というキャラクターで、魅力を感じられませんでした。その後、庶民の立場で王と対立する感性豊かなキャラクターに変更され、魅力を感じはじめました。最初に台本を読んだときは、カリオンというキャラクターの方に興味がありました。でも僕と年齢が違いすぎてダメだったんです。それでジェムンさんに直接カリオンというキャラクターを提案して紹介しました。 ―デビューして15年経った今でもチャン・ヒョクは、まだカメラに馴染めずにいる。「まだ撮影現場のカメラに馴染めなくて気まずい」という彼からは、撮影ごとに最善を尽くす姿勢が感じられる。チャン・ヒョク:今はだいぶカメラに慣れてきましたが、常に新しい人物、新しい状況の中で流れを掴んで表現しなければならない職業なので、やはりプレッシャーはあります。撮影現場では、数十人のスタッフとカメラ数台だけですが、それを数万人、それ以上の人が見るかもしれません。どう演じた時に視聴者の共感を得られるのか、共演者とはどう演じようか、という部分で絶えず悩まなければなりません。どれだけ理解して説得力のある演技ができるかを常に考えているので、簡単にはいかないものですね。―ハン・ソッキュとの共演は初めてという彼だが、チョ・ジヌン、シン・スンファン、キム・ギバンらの共演者とは仲が良いと話す。「根の深い木~世宗(セジョン)大王の誓い~」(以下「根の深い木」)の撮影現場の雰囲気は、本当に和気あいあいとしていたという。視聴者の立場でチャン・ヒョクが選ぶ名シーンはどれだろうか。チャン・ヒョク:個人的には名シーンといいますか、好きなシーンがあります。カン・チェユンが死んだ父親と再会したシーンです。回想シーンではありますが、全てを投げ出してこれ以上何もすることがないという時、その感情を上手く伝えられたと思います。特に「興じてみろよ」というセリフが一番記憶に残っています。「また一緒に仕事したいと言ってもらえる俳優になりたいです」―チャン・ヒョクは、2010年のKBS 2TV「チュノ~推奴~」で韓国に時代劇ブームを巻き起こした。そんなこともあってチャン・ヒョクといえば時代劇を思い浮かべる人も多い。チャン・ヒョクは、「大望」「チュノ~推奴~」そして「根の深い木」の3作品しか時代劇に出演していないが、この3作品で強烈な存在感を残した。そんなチャン・ヒョクが、「チュノ~推奴~」と「根の深い木」の違いについてこう語った。チャン・ヒョク:「チュノ~推奴~」では、僕はメインキャラクターではありませんでした。なので、人工衛星が回るようにキャラクターが分布していて、それを観察する側の立場で見ているという感じでした。「チュノ~推奴~」は、庶民的な部分が「根の深い木」より誇張されていると思います。「根の深い木」は名分と正当化の間の論理的な方向性を多く持っているので、「100分討論」を見ているようでした。例えるなら、「チュノ~推奴~」は「バンド・オブ・ブラザーズ」のように感性的な表現が多いとするならば、「根の深い木」は、「24」や「プリズン・ブレイク」のような感じだと思います。―19歳の時、初めて演技というものに接したチャン・ヒョクは、「どんな俳優になりたいか」という質問に「僕はよくできた作品ではなく、作品というものができるように一生懸命やるだけです。どんな俳優になるのかは、見ている皆さんが判断することだと思います」と答えた。チャン・ヒョクは、演技に関して自然体でいるように見えてはっきりとした意志を持っていた。チャン・ヒョク:今でも作品が終わると、次の作品のために100回以上のオーディションを受けます。俳優は、ピックアップされなければならない立場なんです。俳優は、自分のコンテンツと作品に入る姿勢だけはちゃんとしていなければなりません。作品が終わってもあの俳優ともう一度一緒にやってみたいと言われるようでなければならないと思うんです。僕は周りの状況、作品の全体的な基調は変わったとしても、僕が選んだキャラクターの個性と独創性、そして視聴者の共感を呼べるかどうかは、自分の役目だと思っています。
チャン・ヒョク「いつか自分が書いたシナリオで演技してみたい」
韓国の俳優なら誰もが映画「依頼人」のハン・チョルミンの役を演じたいと思ったかもしれない。チャン・ヒョクが演じたハン・チョルミンは登場されるシーンの比重とは関係なく、映画全体の鍵を握っている人物である。そして彼を描いたシーンは全てトリックであり、ストーリーの展開も予想できない。殺人容疑者である彼が真犯人であるかどうか突き止めるこの映画の中で彼が可哀想に思えたけど、ある瞬間、寒気がするほどの強いハン・チョルミンのオーラは写真撮影中にも再現された。カメラを鋭い目つきでにらんでいるチャン・ヒョクからふっとハン・チョルミンの顔が映りながら周りの温度が5度ぐらい低くなり、ハンサムな俳優の顔を怖く感じるほどだった。瞬く間に再びハン・チョルミンに戻れるほど没頭した映画「依頼人」から初回放送を間近にしている「根の深い木~世宗(セジョン)大王の誓い~」(以下「根の深い木」)まで、彼との対話を7つのキーワードと7枚の写真にまとめてみた。「昔は白紙だったけど、今はスケッチブック一冊になったようです」KBS「チュノ~推奴~」が終わった後のインタビューでクァク・ジョンファン監督はチャン・ヒョクについてこのように語った。「言葉通りにイ・テギルは彼であって、彼がテギルについてより深く知っていて、考えていたと思った」自分が演じる役を上手くやり遂げるための前提条件は作品全体を把握することであると、自分だけの演技理論を切り出した。雄弁ではないが演技に対する原則や経験について話す彼は適切な比喩と例えをあげて細かく説明してくれた。自分だけの演技理論がしっかりと成立された俳優にも関わらず、彼の演技理論はまだ補修中だと言った。「まだ確立されたのではなく、これからもずっと演技法を作っていきます。僕がある部分で正しいと思っていても、他の人と演技をしながら、その部分が壊れることもありますから。その時は補修していきます。ただし少しずつ固めてく感じです。昔は白紙一枚だったけど今はスケッチブックになった感じです。作品を始めると、その白紙に絵を描きます。でも作品が終わるとまた白紙になります。だから、もう一枚めくって違う主題で絵を描いて、毎回作品を始めるたびにときめいて緊張します。今のようにこれからもずっとスケッチブックに描いていきたいです」「ハ・ジョンウか?投げたか?俺はチャン・ヒョクなんだぞ!そんな演技は出来ません」「依頼人」ではハ・ジョンウと一緒のシーンがほとんどである。しかし殺人容疑者であるハン・チョルミンと彼を弁護する弁護士カン・ソンヒはキャラクター自体も、これを演じる2人の俳優も正反対である。何を考えているのか全く分からないチョルミンは自分が持っている切り札を見せない。しかし自分が持っている札を全部見せながら閉ざされたチョルミンの隙間に入り込もうとするソンヒ。2人は毎回衝突する。今、最も注目されている30代俳優グループを構成している二人は「演技への信念のためにお互いに心を開いた」と話し、「条件なしに10です。11もダメだし9もダメです。相手が8を投げたなら僕は2を投げて、6を投げたなら4だけで支えるんです。そうすると10という見事な組み合わせが出来るんです。だけど僕が投げる瞬間、毎回その範囲が変わるのでお互いリズムに合わせなければならないし、事前に話し合っておかなければなりません。僕たちがいくら演技をするからといって『俺がこのように投げるから、お前はそれを受け取れ』とは言えません。基本的に土台になる筋道を決めておいて、お互いの感情が自由な状態で本能的に演技しなければなりません。ただ本能だけでは演技できません。『ハ・ジョンウか?投げたか?俺はチャン・ヒョクなんだぞ!』とは言えません」(笑)「幼い頃の夢は教師になることでした」1997年「モデル」(SBS)でデビューしたチャン・ヒョクはすでに演技は14年目である。ルックスで注目を浴びた若手俳優から、作品の責任を負う重要な俳優になるまで「俺、何でこんなことやっているんだろう?」と自ら疑問を持つほど俳優になるつもりはなかった彼の元の夢は教師になることだった。「父は建設の仕事をしていたので、現場が変わるたびに生活が変わりました。だから長い時間、家族と離れて過ごすしかなかったんです。だけど教師になったら6時に仕事が終わって、夏休みや冬休みには家に居られるし、自分の日常の枠で動けるから先生になりたかったんです。それに僕は興味があるテーマをみんなと話し合うことが好きです。人と共有したいことがあるから、教師になったら楽しいだろうなと思いました」「14年間、俳優として生きてきた僕だけのプライドがあります」チャン・ヒョクはドラマを除いてはテレビの出演も数少なく、プライベートについては殆ど話さない。ベールに包まれているのではなく、俳優として彼の人生観が表れている。「スターというイメージに負ける俳優にはなりたくないです。見ている人は僕とキャラクターを混同することがあります。それは僕のプライベートなことは知らないからでしょう。作品を通じて表れる作られた姿を見て、それが僕だと思っているけど、俳優は徹底的にキャラクターをコントロールする指揮者にならないといけないんです。僕がキャラクターを動かさなければならないのです。それにキャラクターに支配されると俳優生活は面白くなくなります。作品においても僕がこのキャラクターを作ったとしたら、他の作品では違うキャラクターを作るべきです。すでに作られたキャラクターよって渡される作品をまた引き受けたくはありません。これは14年間、俳優の仕事をしてきた僕だけのプライドです」「いつかは自分で書いたシナリオで演技してみたいです」作品を分析してキャラクターを解釈していく作業に興味を持った俳優にふさわしく、チャン・ヒョクは直接シナリオを書くことにも魅力を感じている。俳優と監督の両方で活躍している他の俳優のように彼も監督になる夢を抱いているのだろうか。「俳優は選択される立場だから、依頼を受けて他の人が作ったシナリオを自分の解釈で演技しますが、もし自分が作った脚本で演技をするなら、僕の感情がよりスムーズに入ると思います。もちろん演出も面白そうですが、シナリオ作家にもっと引かれています。演出だけが上手いからといって良い監督とは思いません。どれだけ現場をリードしていくかが大事です。たとえば演出を支配して統治する君主だとしたら、僕の性質は将軍にはなれるけど君主には向いてないです。(笑) シナリオの筋立てはいっぱい考えています。まだノートには書き出していませんが、歴史の規定から外れた部分に触れることが楽しいです」「『根の深い木』のチェユンとテギルは違います」「チュノ~推奴~」のテギルに引き続き、再び時代劇である「根の深い木」を撮っているチャン・ヒョク。チェユンはテギルのように武芸が抜群で、心に傷を負った人物である。しかしチェユンとテギルは違うキャラクターだと言っている。「チェユンの武術のシーンはアクションの華やかさを強調するためではありません。ドラマ自体もアクションがある時代劇ではなく探偵物語に近いです。チェユンはノイローゼになったキャラクターで夜眠れないんです。だけどテギルは昨日も今日も明日も関係ない人物で、ただ毎日が今日のような人なのです。目を開けたら生きることで、閉じたからにこの世が終わる。だけどチェユンは幼い時の強いトラウマのせいで眠れないくらいノイローゼがひどく、昨日だけを生きる人物なんです。今日と明日はなくて過去とらわれているから」「『不朽の名曲』、人生でこの3分間は存在しないと思ってやってみよう」この前チャン・ヒョクは久しぶりにステージに上がった。10年前アルバムを発売してラッパーTJとして活動したことがある彼は親しい弟パク・ジェボムを応援するためにKBSの「不朽の名曲」に出演した。パク・ジェボムの曲のタイトルである「マルヘジョ」を低い声で口ずさんだ後、堂々と口パクでラップを披露したコミカルな姿はいつも真剣だったチャン・ヒョクとはまた違う姿だった。見ている人々には楽しい出来事であったが、彼にはどうだったか。「最初から笑わせるより落ち着いた雰囲気から始めて、後から笑わせればさらに面白くなると思って考え出したアイデアでした。みんな親しいから楽しくやってみようって。実は最初、僕は始まりの部分だけやってステージから去る計画でした。ところが1人になってしまうスロ兄貴が「俺1人でどうすることも出来ないよ」というような強い目つきで訴えていました。兄貴をおいて行くのは戦場で戦友を残して逃げるような感じがして、とてもそうは出来ず残ることにしたんです。でも準備をしてなかったので大変でした。だからこの3分間は人生の中に存在しないと思いながらやりました(笑)」残念ながらそれ以来、彼のステージを再び見ることは難しいようだ。またいつかこのようなサプライズショーを見せてくれるかと質問したところ「世の中には一回で充分なこともあります」と答えてくれた。