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【スターコラム】チャン・ヒョク、僕の人生でもっとも大切な二つのもの…“家族と軍隊” ― Vol.2
チャン・ヒョクはいつも情熱的で真面目だ。演技に誰よりも熱い情熱を持っている彼。男らしい姿だが、内面には意外と親切でおしゃべりな性格を持っている意外な魅力が溢れている人でもある。1997年SBSドラマ「モデル」でデビューし、「学校」「日差しに向かって」「明朗少女成功記」「ありがとうございます」など、多数の作品に出演し俳優としての地位を固めた。最近では、MBCバラエティ番組「僕らの日曜の夜-リアル入隊プロジェクト本物の男」(以下「本物の男」)や映画「FLU 運命の36時間」などに出演し、あらゆる面で活躍している。男の中の男である彼の実際の軍隊生活はどうだったのだろうか?二人の息子がいる父チャン・ヒョクの幼い頃の姿は?NAVERスターコラム読者のため、2部では俳優としてのチャン・ヒョクの他に人間チョン・ヨンジュン(チャン・ヒョクの本名)の姿を詳しく公開する。それでは、まもなく公開!ご期待ください!/編集者NAVER スターコラム:チャン・ヒョクこんにちは。チャン・ヒョクです。1部で僕の演技人生について色々と話しましたが、楽しんで頂けましたか。もうちょっと面白く書きたいのですが、言いたいことがあまりにも多くてどこからどういうふうに話し始めればいいのか分かりません。第2部では幼い頃の僕と愛らしい妻、子供に関する話はもちろん、軍隊時代や「本物の男」に関連するエピソードもお話しします。最後までお楽しみ下さい。海外勤務が多かった父幼い頃、父は長い間建設業に勤めていました。だから海外勤務が多かったです。1年中で父に会えるのは長くて1ヶ月か15日ほどでした。最近皆キャンプにはあまり行きませんが、僕はキャンプへの強烈なイメージを持っています。父がテントを持って僕たちをよく連れて行きましたので。長い間離れていて実質的に一緒に暮らすようになったのは18歳からだと思います。父は現場と宿舎にいて月1、2回だけ家に帰りました。だから僕の幼い頃の夢は先生や会社員でした。なぜかというと、6時に退勤できるためです。早く家に帰れるし、たまには友達にも会えるのではないでしょうか。長期間父と離れていたので僕は子供とよく一緒にいる父親になりたいと思いました。撮影が終わって家に帰ると実は疲れます。エネルギーを使い切った状態で家に帰りますので。でも、子供たちに会う前に玄関でエネルギーをアップさせなければなりません。ハハ。それからリラックスして眠ります。重要なことは、子供たちが僕と一緒に過ごせる時間があまりないということです。一緒にいられますが、共有できる時間は長くありません。小学校に入っただけも友達と遊んで親とはあまり付き合わないと言われました。今がどれほど黄金のような時期なのかが分かればこのまま見過ごすわけにはいかないでしょう。だから週末はできるだけ一緒に出かけます。愛と信頼が作り出した家族ご存知の方もいらっしゃると思いますが、僕には息子が二人いるだけです。多くの方から「娘は欲しくないか」と聞かれますが、そんなことには僕より妻の方が敏感だと思います。実質的に育てるのは妻ですので。僕は、息子も娘もいいけれど、妻は本当にずっと子供と一緒にいなければならない立場なので簡単ではないと思います。弟に最近娘ができたのでそれで満足しています。妻の話が出たついでにもうちょっと話しますと、妻は本当に理解と配慮が多い人です。長い間ダンサーとして生活していたのでパートナーシップについて誰よりよく知っています。仕事をしながら調和を求めることの意味と必要性がよく分かりました。だから僕が活動し、俳優として生活する際にお互いに不必要な誤解が生じたことはなかったと思います。僕たちが恋愛した8年間、僕は浮気をしたことがありません。それが事実なのか疑う方もいらっしゃいますが(笑) そうなるしかない状況でした。一応2年は軍隊にいたので除けば、残りの6年は現場にいました。僕は21歳でデビューしましたが、「モデル」というドラマは事前制作でしたので96年にデビューしたことになります。それから97年末から98年にオーディションを受けて映画「チャン」を撮りました。ドラマ「学校」「日差しに向かって」に続き、映画「火山高」「ジャングルジュース」を撮影しました。「僕の彼女を紹介します」以降「王の男」を準備していたある日、軍隊に行きました。現場から離れた時間がなかったので浮気をしたりする時間もありませんでした。もちろん、愛と信頼があってこそ可能なことでした。基本に忠実な生活を追及これは少し違う話になりますが、僕が人生で重要だと思うことは「基本に忠実にしよう」ということです。僕は多くの芸能人の方々と仲良くさせてもらっているので義理男というニックネームもありますが、実は僕が義理を守るということではありません。最小限の基本的なものは守っていこうということです。そういう考えに忠実な人であるだけです。もし僕に出来るのであれば、他人の立場から考えることもできますので。人が人に向けてできる配慮とはそれほど大して難しいものではないでしょう。僕はそう思います。それから僕は特別に義理があって相手に何かを施すとは思いません。当たり前のことをするだけです^^軍隊で新しい世界に出会う僕の30代は、軍隊で始まりました。先に申し上げたように20代はずっと撮影現場にいました。そのときは良くない状況で軍隊に行くことになり、文化的に表現すればその間歩んできた足跡が消えてしまうような感じでした。10年間チャン・ヒョクでしたが、軍隊ではまたチョン・ヨンジュンと呼ばれました。そのとき感じました。僕は本当の自分を忘れていたことを。現実にしっかりと気づいてこそ一つずつまた足跡が残るような気がしました。以前僕が軍隊に行って感じたのは「ここも人が生きるところだな」ということでした。その前は漠然とした不安がありました。しかし、いざ行って経験すると考えが異なってきました。良くないことがあったその当時、たくさん父と母のことを思い出しました。それでも親は理解してくれると思いました。しかし、そのときと変わったことは今は子供ができたことではないでしょうか。過去は消えないものなので、僕の子が今は分からなくても後から分かったとき、どういうふうに受け止めるかということについても考えるしかないのです。それでも父として、男として何かしてみようと思いました。それで「本物の男」に合流することにしました。「本物の男」で再び軍服を着るまで除隊後再びチャン・ヒョクに戻りましたが、時間が経つと足跡が鮮明でなくなりました。土を踏んでいるのに、浮かんでいる感じとでも言いましょうか。「本物の男」を見てそんな状況に置かれたならば、僕なりに定着できるのではないかと思いました。そうです。最初にそこに入ったときは感情的な流れが確かにあったと思います。最近では自分にも癒しになるし、色々な面でとてもいいです。その中でこういう話が心に響きました。「静穏な海は老練な船頭を作れない」本当にその通りだと思います。怖くてできないと言うよりは、まず自分自身を投げてみると何かをやっているということです。「本物の男」は僕個人的に癒しになる番組です。僕も軍隊生活をしていたのでその時期の僕と再会することは非常にいいと思いました。それで出演したいと言いました。今は1週間撮影し、3週間休んでいますが僕の足跡が少しずつ残っていくような感じです^^ポジティブな平行線多くの方々は僕がマッチョ役を主に演じてきたとおっしゃいますが、実はまったくそうではありません。僕は優しい役も演じましたし、まったく違う感じの演技もしましたが、ただ男らしい役を演じた作品が目立ったからだと思います。しかし、そのような考えも僕が活動しながら徐々に変えなければならない部分だと思います。僕が軍隊で習ったことは「何でも適応すればできるんだ」ということでした。しかし、慣れるばかりではいけないと思います。世の中は何とかずっと回って行くし、演技も同じですので。僕は俳優だから人々とポジティブな平行線を持っているべきだと思います。お互いに努力しなければならないでしょう。そうしてこそ長く続くのではないかと思います。「本物の男」もそうですし、「FLU 運命の36時間」もそうですし。最近本も出しましたが、こういうことが少しずつ人々に僕の中の違う部分を見せられるものだと思いますので。このような気持ちをより多くの方々に分かっていただければもっと嬉しいと思います。NAVERスターコラムの読者の皆様、僕の虚心坦懐な話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。ちんぷんかんぷんになり、面白かったのか分かりません。できるだけ正直に僕をお見せするため努力しました。「本物の男」と「FLU 運命の36時間」、それから僕がこれからチャレンジする作品も見守り応援してください。いつもありがとうございます。暑さに気をつけて、元気にお過ごし下さい!文:チャン・ヒョク「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】チャン・ヒョク、情熱溢れる俳優 ― Vol.1
いつの間にかデビュー17年目を迎えたチャン・ヒョク(本名:チョン・ヨンジュン)は長い間愛されている長寿型俳優の一人だ。毎回飽きない演技と鋭いアクションで人々を楽しませるエネルギーに満ちた俳優でもある。最近では、MBC「僕らの日曜の夜-リアル入隊プロジェクト本物の男」(以下「本物の男」)を通じて、堂々としながらも人間的な姿で人々とコミュニケーションしている。そうかと思えば、現在上映中の人気映画「FLU 運命の36時間」では救助隊員に扮し、骨身を惜しまない熱演で観客を魅了した。毎回多様な作品で様々なキャラクターを演じ、人々から全面的な支持を得ているチャン・ヒョクがNAVER スターコラムを通じてもう一度共感作りに乗り出した。チャン・ヒョクの素朴で率直な話に耳を傾けてみよう。NAVER スターコラム:チャン・ヒョクこんにちは~チャン・ヒョクです。猛暑の中、皆さん大変苦労なさっているでしょう? でももうすぐ涼しい秋になるので幸いです、ハハ。こんなふうに皆さんに僕の話をお伝えする機会をいただき、本当に光栄です。僕がおしゃべりであることはご存知でしょう?^^ ちょっと恥ずかしいのですが、またとないチャンス(?)だと思い、これまで言えなかった話を存分にさせていただきます。Vol.1ではまず、僕の演技人生について打ち明けたいと思います。面白くなくても最後まで読んでいただければ幸いです。それでは、始めます!「『ありがとうございます』僕の人生で最もありがたく、幸せだったドラマ」僕には本当に忘れられないドラマがあります。それはMBC「ありがとうございます」です。「一番記憶に残る作品は何か」と聞かれる度に僕は「ありがとうございます」を挙げています。もともとは「僕たちがいた」という仮題でした。2006年末に台本読み合わせをしましたが、そのときの感じをいまだに鮮やかに覚えています。本当に興奮していましたし、まるで新人になったような感じでした。おそらく除隊後の復帰作だったからなおさらそうだったのかもしれません。僕は軍隊にいたときもいつも何かを持ち歩きました。シナリオであれ、本であれ、演技の練習になるものをいつも持っていました。同じ部屋にいた人の中に演技がしたいという人がいました。その人に僕が分かる範囲で演技を教えたりしました。俳優は人が分かってくれないと終わる職業なので、続けてドアを叩くしかないと思います。とにかくその後、ようやく復帰した作品が「ありがとうございます」でした。どれほどワクワクしたことでしょう。実は軍隊以前のチャン・ヒョクとその後のチャン・ヒョクは非常に違います。今だから申しあげますが、本当に恥ずかしいです。ところで、本当に不思議なことに、この作品は僕にとってあまりにも宝物のようなドラマでした。特にコン・ヒョジンという素晴らしい女優が僕をしっかりとリードしてくれました。コン・ヒョジンさんが演じるキャラクターは、決して簡単なものではありませんでした。脚本家さんにも感謝していますし、周りにも感謝すべき方が本当に多かったです。ここまで来られたのもその方々のおかげだと思います。「誰かが命をかけること、危険を避ける必要はない」最近「本物の男」を通じて皆さんと共感することになったのも、そして「FLU 運命の36時間」という良い映画で観客と出会うようになったことも、僕を求めてくれるありがたい方々がいらっしゃるためだと思います。毎日上昇する仕事運で本当に楽しく生活しています^^僕も仕事において体を惜しむタイプではありません。ちょうど2つのルールがあります。相手が「あの俳優ともう一度共演したい」と思うように演技することと、2つ目は「紛らわしいキャラクターを見せないようにする」ということです。僕が思う俳優は、人形劇に例えれば人形を操る人が俳優だと思います。人形の動きによって観客の作品を見る目も変わるのではないでしょうか。キャラクターの良し悪しを離れ、僕がどういうふうに動くかによって人々の視線も大きく変わってくると思います。デビュー後30余りの作品の現場を経験してきて、良い俳優、またはそうでない俳優が見えるのも事実です。僕は現場でなるべく感情を見せないために努力する方です。その代わりに情熱を持っています。頑張るという表現よりも情熱という言葉のほうが好きです。ハハ。あ、情熱を持つようになった決定的なきっかけですか?かなり前に遡って映画「チャン」の影響が大きかったといえます。(ご存じない方が多いと思いますが、僕にはとても大切な映画です) そのとき初めてスタントマンに会いました。アクションシーンが少しある映画でした。その方が僕の代わりに車にはねられる場面がありましたが、事故で本当にはねられました。そのとき、どんなに驚いたかわかりません。「大丈夫」とおっしゃっいましたが、僕は本当に申し訳ない気持ちでした。30~40分後、再び立ち上がってそのシーンをNGなしにこなしていました。僕はその後から、なるべく代役を使わず一人でこなそうと思っています。誰かが命をかけてやっているのに僕が危険な状況を避ける理由はないと思いました。ただ情熱を持って渾身の力を尽くして演技すること。それが俳優人生で一番重要だと思います。新型インフルエンザの悪夢を思い出した「FLU 運命の36時間」の撮影現場最近上映中の「FLU 運命の36時間」はピンとこない映画でした。ジャンルもそうですし。どうしても実際に体感してみないと分からない映画だと思います。初めてシナリオを読んだときは、本当に怖かったです。生々しい恐怖が僕の体に食い込むような感じでした。撮影をしながら新型インフルエンザウイルスを思い出しました。それで鳥肌が立ったことが何回かあります。「あ、本当に怖い」と思いました。実際に新型インフルエンザウイルスよりも噂の方がもっと怖かったと思います。僕は健康な免疫体系を持っていますが、僕の息子は生まれたばかりでしたので。今思い出してもまた鳥肌が立ちます。「スーパーマン、英雄のようなキャラクター?ただの人間チャン・ヒョクの姿」映画を見た知人たちやファンたちから、ジグの姿がスーパーマンみたいではないかとよく聞かれました。でも、僕はそう思いません。確かに現実的な感じはありましたし、実際の救助隊員の方々がそういうふうに仕事をされていました。実際に会って話をしてみたら、僕たちが考えるより遥かに苦労をなさっていました。実は、ジグ役に扮し、どういうふうに演技すべきかかなり悩みました。監督は「ただあなたの姿を見せればいい」とおっしゃいましたが、それは言葉のように簡単なことではなかったので。ハハ。もう一つ注文されたことは英雄のような姿はなくしてほしいということでした。ただ監督の言葉を信じて本来の僕の姿を多く入れたと思います。もし映画の中の状況が実際に起きたとしてもそういうふうに行動したと思います。もしかしてカン・ジグという人物がチャン・ヒョク化したのかもしれません^^あ、この辺でスエさんの話をしなければならないと思います(笑) スエさんとは必ず一度ラブコメディをしてみたいです。スエさんはまだラブコメディをしたことがないですね。人々にとって女性らしくて気高いイメージになったのは、そのようなキャラクターをたくさん演じたためではないかと思います。実際に撮影現場でのスエさんはそうではありません。とても人間的な面が多くて魅力的です。また、集中しなければならないシーンでは物凄く集中しますので、息を合わせるのはまったく大変でも難しくもありませんでした。次の作品でも必ず会いたい人です^^残念ながらいよいよ僕の話を締めくくる時間になりました。ちんぷんかんぷんな僕の話どうだったか分かりません。皆様にどう判断されるか、かなり緊張しています^^これからも僕は僕が歩んできたこの道を休まず引き続き歩いていく考えです。皆様もそうですし、多くの方々がチャン・ヒョクというと逞しくてカリスマ性溢れる男性を思い浮かべますが、実は必ずしもそうではありません。ハハ。多分そんな姿のほうがより深く刻まれたせいだと思います。僕はあえて刻まれたイメージに気をとらわれないようにしています。周りの雰囲気にののまれることもないと思います。簡単な例として、数人で運動をすれば雰囲気に流されがちじゃないですか。僕はどこにも流されず、着実に川の流れに沿って流れるつもりです。未熟な部分も多いですが、応援していただければと思います!まだまだ暑い日が続きますが、ご自愛ください。Vol.2ではVol.1より面白い話をたっぷり準備してきます!文:チャン・ヒョク「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】コ・アソン「スノーピアサー」へようこそ
平和な日々を送っていたコ・アソンにポン・ジュノ監督が手を差し伸べた。彼が生み出したグエムル(怪物)は中学生だったコ・アソンを連れ去ってしまった。それだけ苦労したお陰か「グエムル-漢江(ハンガン)の怪物-」は1000万映画(観客1000万人を超えた映画)になった。「綺麗なカフェで綺麗な台詞だけを話す映画を撮ろう」と約束したポン・ジュノ監督が再びコ・アソンにオファーを送った。一緒にご飯を食べようと言われて行ってみたら、綺麗なカフェの話どころか、今回は永遠に止まりそうもない「スノーピアサー」に乗せられた。撮影が終わると以前した約束をまた取り出しながら。人々の前になかなか姿を見せなかったコ・アソン。人々は見違えるほどに変わった彼女の姿を見て一気に成長したと表現する。しかし、彼女は絶えず地道に成長している。「スノーピアサー」を理由にコ・アソンとのコンタクトを試みた。彼女が明かす作品のビハインドストーリーと彼女の夢に耳を傾けてみよう。/編集者NAVER スターコラム:コ・アソンこんにちは。コ・アソンです。インタビューや公の場でしか話をしたことがなく、このように私自身について直接語れるチャンスが出来て嬉しいです。これほどまでに忙しくなったのは本当に久しぶりで、本当に幸せな日々です。「スノーピアサー」への反応も良く、成績もどんどん良くなって、今は何をしても幸せです。ここまでたくさんの方々に気に入ってもらえるとは思いませんでした。最近は私の作品もそうですが、どの映画も興行を予想することが出来ません。外れるケースが多く、興行成績を見通す目に対する自信が無くなりました。それでも面白い映画が失敗するケースは殆どないと思います。「スノーピアサー」ですか?もちろん面白いです!^^ポン・ジュノ監督、ソン・ガンホ先輩との縁7年前、中学生の時にポン・ジュノ監督とソン・ガンホ先輩に初めて会いました。「スノーピアサー」の話をする前に、この場をお借りして二人に是非伝えたい話があります。映画「グエムル-漢江の怪物-」で知り合った私に対し、3ヶ月に1度は会ってご飯もおごってくださったり、色々な話をしてくださったポン・ジュノ監督とソン・ガンホ先輩に感謝の言葉を伝えたいです。これまでの時間が私にとってたくさんの勉強になりました。自分でも知らないうちに、あの方々の見る目を私が見習うことになったからです。これはプレゼントではあげられないことだと思います。本当に素晴らしいものを頂きました。今回の映画を撮りながら役者としての目標が出来ました。ポン・ジュノ監督とソン・ガンホ先輩の期待に及ぶ役者になるという目標です。楽しみにしていてください!列車に乗る前と後「スノーピアサー」は、出演者だけでなくスタッフの皆様にとっても新しい試みでした。今までになかった構成だからです。それでもみんなが同じ立場だったので、不安を感じるよりは楽しく撮影しました。撮影をする前はプレッシャーが大きかったです。しかし、そのプレッシャーを撮影現場にまで持ち込むわけにはいきません。私を選んでくださった監督に対する礼儀でもありません。シナリオが出る前からオファーを受けて、私に合わせられた役柄だったからです。撮影する前に俳優さんたちとかなり親しくなったので距離感が大分なくなりました。ものすごい俳優さんたちと一緒に撮影すること自体が私にとっては感謝すべきことで、光栄でした。実際、共演者の方々も本当に優しくしてくださって、スムーズに共演することが出来ました。特に、クリス・エヴァンスさんと一緒に演じながらも心配していましたが、彼の目を見た瞬間「余計な心配だったな。俳優は皆一緒なんだな」と思いました。言葉を使わずに演じる時、暗黙のうちにやり取りするアクセントだとかジェスチャー等が問題にならなかったからです。私の演じたヨナは、映画を通して登場する人物ではないので、撮影する全ての瞬間に力を注ぎました。出演する俳優が多い映画だったので、インパクトを与えるためにむしろ力を抜こうと努力しました。撮影が終わると、逆に負担が大きかったです。公開前にマスコミ試写会や懇談会などをするとき、本当に「スノーピアサー」が公開されなければいいのにと、自分勝手な考えもしたほどです。今はむしろ落ち着きを取り戻したと思います。公開直前と直後には本当にすごいマインドコントロールが必要です。反応にこだわらないために努力しています。今後映画を撮影しながら、このような現場の雰囲気やトキメキをまた感じることがあるのでしょうか?ヨナのビハインドストーリー「スノーピアサー」を見ると、キャラクターごとにそれぞれビハインドストーリーがあります。私が演じたヨナというキャラクターの出発地点は、イヌイット族(エスキモー)です。ヨナが1歳の時、母親も父親のナムグン・ミンス(ソン・ガンホ)も、列車の中で迫害されるよりは外に出たほうがマシだと思います。そこで母親が先に出て、1年後に住居地を作っておくので父親に私をつれて来るようにと約束したのです。列車が地球を1年に1周ずつ回るじゃないですか。再び戻ったそ場所に凍った7人の銅像があるわけです。映画をすでにご覧の方だと更に分かりやすいと思います。尾根に見える銅像とヨナに関するビハインドストーリーです。このように「スノーピアサー」は、キャラクターにまつわるそれぞれのビハインドストーリーを探しながら見ると更に面白いと思います。様々なキャラクターが登場するので、誰の観点から見るのかによって物語が変わってきます。結末を明かすことは出来ませんが、最初にシナリオを読んだ時は絶望的な結末だと思いました。しかし、映画を見た観客の方々の反応を見ると、むしろ希望的という雰囲気でした。聞いてみるときっとそうだと思います。私はヨナの立場でばかり考えていたようです。今は子役俳優の人生をもう少し最近、「成長した」という言葉と共に「大人の演技はしないの?」とよく言われます。うーんそれでもまだ子役俳優としての人生をもう少し楽しみたいです。子役の演技は今でなければやりたくても出来ませんから。そのほうが自然なのではないでしょうか。幸い、私は今まで自分に合った作品を選択してきたと思います。私がこれまでに選択した作品を見ると、いつも若干問題(?)があるキャラクターばかりです。しかし、私はそういった部分で魅力を感じるようです。あ!近く撮影に入る映画「優しい嘘」でもキム・ヒソン先輩の長女として登場します。問題とまでは言えないかも知れませんが、兄弟を失った喪失感で平凡でない人生を生きる人物を演じます。コ・アソンの変身、お楽しみに!たくさんの方々が今後の計画や目標、夢について質問してきます。うーん昔はあれこれしてみたいことがたくさんありました。様々な方面のことがしてみたかったです。しかし、今は俳優と言う分野一つをしっかりやってみたいと思います。一つの分野の専門家たちを見ると本当にカッコイイです。例えば、テレビで見た40年間時計だけを修理してきたお爺さんの話や、料理の味を守るために一代を築かれた方々の話です。上手くやって行けると信じながら私も演技一つだけに集中したいと思います。こう見えても適応能力は高いほうです。また愉快に暮らそうと心がけています。今まで生きていて本当に大変だと感じたことは無いと思います。本当に厳しいことがあるとすれば適切に眼を背く方を選びます。私は時間の力を信じます。あららら私はまだコミュニケーションが未熟なほうなので、何を話したのか良く分かりません。調子に乗って喋っていたような気がしますが、いかがでしたか。久しぶりに復帰したのに歓迎し、「スノーピアサー」を沢山愛してくださって本当にありがとうございます。最近、本当に暑いですね。再び訪れた氷河期がメイン背景である「スノーピアサー」を見ながら、少しの間でも涼しい夏を過ごせますように。それでは健康に気をつけて、皆様、楽しい夏を~!文:コ・アソン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】夏休み特集!「モンスター」ハ・ヨンスの自由研究
最近ケーブルドラマで注目を集めた作品が一つある。Mnetミュージックドラマ「モンスター~私だけのラブスター~」だ。ニュージーランドで羊飼いをしながら暮らしていた転校生ミン・セイ(ハ・ヨンス)と、いつも「俺様はスターだ」と叫ぶアイドルスターユン・ソルチャン(BEAST ヨン・ジュンヒョン)、すべてが完璧な会長チョン・ソヌ(カン・ハヌル)が描くやわらかいストーリーは、マニア層を形成するほど人気を集めた。その中で魅力的な二人の男性の愛を同時に受けるハ・ヨンスは、今回の作品で大衆にしっかりと自身の存在を知らせた。「あ!映画『恋愛の温度』でイ・ミンギの彼女として登場したあのハ・ヨンス!」いうの嘆声を残したまま。しかしまだ大衆に公開したハ・ヨンスの姿は氷山の一角に過ぎない。彼女がまだ大衆の前に立つことが不慣れであるように、大衆もまだ彼女について知らないことが多いゆえに、これを機にハ・ヨンスについて調べてみよう。/編集者NAVER スターコラム:ハ・ヨンスこんにちは。ドラマ「モンスター~私だけのラブスター~」ミン・セイ役のハ・ヨンスです。このように挨拶できる日が来るとは私にとってはすべての瞬間が新しい経験だと思います。今まではスターコラムの読者の立場でしたが、私にこのようなチャンスを下さるなんて、感謝いたします。文章を書くことは上手ではありませんが、頑張って私について書きたいと思います。下手でも大目に見てくださいますよね?^____^ハ・ヨンスにとって「モンスター~私だけのラブスター~」とは?私にとって「モンスター~私だけのラブスター~」という作品は、忘れられない作品です。一言で言うのは難しいですが、うーん何か夢と未練を同時にくれた作品です。監督は作品を作るときのモットーは夢だとおっしゃいました。なので、始まる時に私たちに夢を与えたいと言われたのです。未だにうまくやっている子たちと一緒に作業できたと思います。はあ最初の頃は本当に大変でした。ギターの練習も必要で、曲が変わるたびにその曲の練習に夢中でした。台本を読んだり、撮影したりする時間を除いてはほぼ毎日ギターの練習をしたと思います。後からは自分も知らないうちにその歌を歌っていました。音楽もしたいと思っていたので「もう少し時間があれば」とも思いましたが、その瞬間の感情に集中して頑張ったので、後悔はありません。そして私は役者でしょう?私だけの歌い方があるわけでもありませんから(笑) 私の足りない部分は同僚たちが埋めてくれると信じました!そそうでしょう?^^;;さらに、演技の途中に歌を歌うので、もっと集中しなければなりません。本当にたくさん経験したのに、そのたびにどれだけ緊張するのやら真心が感じられる歌があることが「モンスター~私だけのラブスター~」が愛される理由だと思います。皆様はどの歌が一番記憶に残りましたか?私は最初にギュドン役で出演するカン・ウィシク兄さんと歌った「風が吹く」が記憶に残っています。撮影時間も長く、呼吸も長く、練習も本当にたくさんしたからです。あ~未だにその時が思い浮かびます>_「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】イ・ユビ“キョン・ミリの娘”今や立派な役者!
イ・ユビはデビュー3年目の新人だ。2011年総合編成チャンネルMBNシットコム(シチュエーションコメディ:一話完結で連続放映されるコメディドラマ)「ヴァンパイアアイドル」でデビューし、KBS 2TVドラマ「優しい男」でカン・チョコ役を演じ、可愛いらしい外見と演技で名を知らせ始めた。何よりイ・ユビという名前を世間にはっきりと刻めたのは、母キョン・ミリのお陰だ。キョン・ミリの娘として役者活動をしていれば、他の人に比べて容易く活動できたはずだが、イ・ユビの選択は違った。最近放送終了したMBCドラマ「九家の書」でチョンジョ役を演じ、視聴者に強烈な印象を与えたイ・ユビは、いつの間にかキョン・ミリの娘という言葉から解放されているようだった。既に準備された役者であるしかなかったイ・ユビの全て、彼女の話に耳を傾けてみよう。/編集者NAVER スターコラム:イ・ユビこんにちは!うわあ。本当にワクワクします。トップスターにしかできないというNAVER スターコラムで、私がご挨拶できるとは思いませんでした。本当に光栄です。何をどこから話せば良いのかよく分かりませんが、それでも私の話に最後まで耳を傾けてください。それでは始めます。声楽を始めた理由私が子どもの頃から声楽をしてきたことは、皆さんご存知だと思います。私は小さい頃から母と一緒にテレビ局やドラマの撮影現場によく行っていました。しかし、そのたびに私を見た方々は口を揃えてこう言いました。「ユビも、もうすぐ母を見習って役者になるだろうな」「ユビの夢は当然役者だろう?」等々。そんな話は本当に聞きたくなかったんです。そこで自ら「私は絶対、役者にはならない」と誓いました。返事もしました。私はやらせてくれても絶対に演技はしないと。ちびっ子のくせに本当に生意気でした。母を見習ってという言葉を聞かずに済む仕事は何かと考えました。そしてCNNのニュースキャスターが頭に思い浮かんだのです。それなら母と一緒にテレビに映ることはないから。母に留学したいとおねだりしました。そして小学校4年生の時までカナダに留学しました。しかし、そこで偶然「ロミオとジュリエット」というミュージカルを観ました。本当に面白かったです。その時からミュージカル俳優になりたいと思い始め、声楽を学ぼうと考えました。そのようにして6年の時から声楽を始めたのです。ミュージカル俳優になるという思いで芸術中学校、芸術高校まで進学しました。しかし高校に進学してから声楽について真面目に考え始めました。欲が出てしまったんです。実力は友だちに比べて多少劣ってはいましたが、いきなり夢ができたので。ヨーロッパやアメリカのオペラ劇場に立ちたかったんです。大学1年の時まではそれが私の夢であり目標でした。しかし、今はそのような舞台への未練はありません。けれど、ミュージカルには是非挑戦してみたいです。声楽の発声を応用するミュージカルがありますよね?いつチャンスが来るか分かりませんが、今から一生懸命に準備したいと思います。演技は私の運命大学2年の時でしょうか。その時思春期が来たと思います。へへ。突然その時に私がしてみたいと思うことは全部したいと思いました。そこで些細なことから始めました。ピアスもして、髪も染めて、スクーターにも乗りました。そうして些細な願いを一つずつ叶えていって、演技まですることになりました。役者になりたいわけではありませんでしたが、一度してみたいとは思っていたからです。自分でもどうすることもできなかったみたいです。私が始めて演技をしたのはオーディション会場ででした。それまでは特に演技を習ったことがありませんでした。私のデビュー作であるシットコムの公開オーディションでしたが、生まれて初めて、そこで演技をしました。オーディションに合格したのは、本当に運が良かったからです。私の役は神秘主義の少女のキャラクターであまりカメラに映ることもなかったので、本当に素人の新人をキャスティングしたのです。そのキャラクターと私が運よくマッチしたわけです。私は雑誌に載ったことすらないのに合格するなんて、ただ運が良かったとしか言い様がありません。あ、当時シットコムの制作スタッフは母の存在を全く知りませんでした。しかしある日、撮影現場に噂が立ちました。撮影が中盤に差し掛かっていた頃、記事が報じられたのです。私たちの中にキョン・ミリの娘がいると。女優は4人だけでした。面白いのは、誰もそれが私だとは思わなかったことです。もちろん、後から皆さんが知りました。そして「知ってから見るとお母さんに似ているね」とも言われました。母のことが知られてからも特に変わったことはありません。チョコからチョンジョまで「優しい男」に出演した時は、末っ子の私にも皆さんは本当に優しかったです。新人の私にとってはただただ感謝するだけでした。雰囲気も本当に良かったです。カン・チョコの役は「九家の書」で演じたパク・チョンジョの役に比べると演じる量は少なかったです。「優しい男」で私が重要度の低い役割を担当したとすれば、「九家の書」では重い役割を担当したというべきでしょうか。「九家の書」の序盤では感情的にとても高ぶっていたと思います。また、一緒に演じたイ・ソンジェ先輩が集中できるように助けてくださいました。実はイ・ソンジェ先輩はとてもお茶目で、本当に優しい方です。そこでむしろ心配になったりもしました。本当に集中しなければならないのに、できなかったらどうしようと。こう言ったことがあります。「先輩、私は今チョ・グァンウンを恐れるべきなのに、チョ・グァンウンが好きになってはいけないのに、それが上手くできません」と。それでもいざ撮影が始まると雰囲気がガラッと変わります。そして私も一つになるのです。実はチョンジョは、状況も台詞も強かったです。そのため正直負担にもなりました。一番大きな悩みは果たして私がチョンジョのキャラクターに合うのかどうかでした。私がもう少しシャープな顔だったら良かったのにとまで思ったほどです。なので一生懸命に演技の練習をするしかありませんでした。チョコの時も悩みはありました。初めての本格的なドラマだったからです。今考えてみると、世の中に容易いことは何一つないようです。これからも、どういう役を演じるか分かりませんが、果たして簡単な役などあるのでしょうか。少しずつ感じられる認知度「九家の書」に出演してから私に気付いてくださる方が本当に多くなりました。「優しい男」が終わったときは友達と買い物したり、おしゃべりしたり、美味しいものを食べに行ったりしても気付かれませんでしたが、今はどこに行っても気付かれます。それまでは、なぜ芸能人が公共の場所に行ってはいけないんだろうと思っていましたが、今は芸能人だから行ってはいけないのではなく、周りの方の邪魔になるような気がしました。迷惑をかける気分といいましょうか。一度はこういうこともありました。レストランに入ったとき、私に気付かれた方々がいました。そして賭けをしたみたいなのですが、私にイ・ユビではないかと聞いてきました。そこで「違います」と答えました。急に悪戯がしたくなったんです。もちろん、改めて挨拶しましたが。そうすると本当に喜んでくださいました。正直、誰かが私のことを知っていることが不便な時もありますが、気分は本当に良いです。交際説そして破局説「優しい男」の撮影の時でした。その時初めて交際説が報じられました。記事がとても具体的でした。知人の紹介で出会い、出会って1ヶ月ほど経ち、またCOEXでデートをしたと。私は知人の紹介で会ったこともなく、友達みんなと一緒に会いました。ク・ウォンとはデビューする前から親しい友達でした。あ、その記事が報じられる何ヶ月も前からCOEXには行っていないのに、「あれ?何これ?」と思いました。私は交際説で話題になる立場ではなかったのに。世間では私のことに興味がないと思っていましたが、そのような記事が報じられると正直実感がありませんでした。本当に恥ずかしかったです。そしてこの前、破局説が出ました。活動を始めてから、友達にも会えずにいたのに。ここではっきりと言いますが、本当に事実ではありません。誤解しないでください。スケジュールが忙しく疎遠になり破局を迎えたって?もう~。このようにとんでもない噂が続くと、1度や2度なら笑ってすごせますが、他人の話も信じられなくなるような気がします。前は芸能人の話をしていて、そういう話題になると「あ、そう?」という反応でしたが、今は「それは、分からないだろう」という見方をとります。そうすると友達から芸能人の見方をするんだと非難されます。私が実際に経験してみて、今まで交際説に悩まされた方々の気持ちが多少は分かるような気がしました。スターコラムを終えながら長い話を読んで頂きありがとうございます。これからも更に一生懸命に活動しながら良い姿をお見せします。そのような期待にお応えできるよう努力しますので、見守っていてください。あ、そして暑い日が続いていますのでお体に気をつけてください。今までトップスターの方々だけが書くスターコラムでしたが、私が書いて多少驚かれたかと思います。私もとても光栄に思っています。最善を尽くして書きました。どうでしたか?もし、これからも気になることがありましたら質問してください。書き込み一つ一つ全部チェックしていますので。文:イ・ユビ「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】「花より男子」のキム・ヒョンジュン、韓国を超え世界へ ― Vol.2
SS501のリーダーキム・ヒョンジュンの3rdミニアルバム「ROUND 3」が、米ビルボードのワールドアルバムランキングのトップに登った。これは、Nielsen SoundScanの非英語圏の国に発売されたアルバムを対象に、1周間のアルバム販売量でランク付けするランキングだ。キム・ヒョンジュンは、カムバックしてから大きなプロモーションを行わずワールドアルバムランキング1位になったため、さらに有意義な記録と言える。2009年、「花より男子~Boys Over Flowers」のユン・ジフ先輩として女性ファンたちの心をくすぐった彼が、いつの間にか韓流スターを超え、ワールドスターとして成長している。世界へ飛び出し、国の名をも上げているキム・ヒョンジュンの音楽と韓流に対する率直な話を聞いてみよう。/編集者NAVERスターコラム:キム・ヒョンジュンこんにちは。キム・ヒョンジュンです。NAVERスターコラムの第1部で、僕の子供の頃と人間キム・ヒョンジュンについてよくお分かりになったと思います。第2部では、バラエティ番組「ニュー!日曜日は楽しい-裸足の友達」(以下「裸足の友達」)についての話と、海外公演と海外ファンたちについての話をしようと思います。皆さんのために一生懸命記憶を辿ってみましたので、どうか最後まで読んでくださいね。^^リアルバラエティで感じたリアル感想僕は最初「裸足の友達」に出演する時、楽しもうと思って行きました。でも、思ったよりバラエティって大変なんですね。おかしくないから笑わないのに、笑わないって愚痴言われるんですから。ハハハ。正直言って、僕は本当におかしくないと笑わない人なんです。なので、僕の想像とは少し違っていたようです。でも、どれだけリアリティバラエティとは言っても、少しの調味料みたいなものは必要ですから。あんまりリアル過ぎると、番組にならないので。リアルバラエティ番組の最大の長所は、兄弟のような情が生まれる点です。ウン・ジウォンさん、ユン・ジョンシンさん、カン・ホドンさんには毎週会えるので、情があります。ジウォンさんは、前の事務所の直属の先輩でしたし、本当に実の兄のような感じです。芸能人の中で実の兄のような人は初めてです。ジウォンさんも気持ちとしては、僕のことを実の弟のように思ってくれます。芸能界ではそれほど友達を作ることもできないので。バラエティ番組のレギュラーをやっていたら、家族ができたようで非常に嬉しいです。懐かしい第1世代アイドルの音楽郷愁音楽の話を少しすると、実はアーティストは大衆はどんな歌が好きだろうと悩まなければならないんですが、以前はそれを排除していたと思います。大衆を引っ張っていくことも必要なのに、それは僕の望む作業ではなかったんです。僕はフックソング(何度も同じフレーズを繰り返す曲)などはあまり好きじゃないので。ポップ的なものがやりたかったんです。全て聞いてみないとその曲の内容が分からない、それくらいの歌であって欲しいと思っていました。以前の第1世代のアイドルの歌、ですからDEUXの「夏の中で」やTURBOの「回想」などを見ると、ダンス曲でミディアムテンポでも、明白なストーリーはあるんです。最近はそういうものがなくなっている傾向なので、残念です。僕が時代についていけないのか、若いころの郷愁に浸っているのかは分かりませんが、僕は昔の歌が好きです。最もアナログ的なものが正解だという言葉もあるじゃないですか。ニューアルバム、新しい方向を模索する約2年ぶりのアルバムですが、負担はあまり感じないようにしました。人気よりは、自分が得意で自分ならではのカラーを持つ音楽がやりたかったんです。後にこの歌を歌っても恥じないような、そんな音楽がやりたかったです。ジャンルを特定せず、様々なジャンルをカバーしようとしました。僕が歌いたい歌は、僕が好きになれる歌です。どうしても、自分の歌が好きで聞き続けることはできないじゃないですか。それで、今回は自分が好きになれる曲をやろうと思いました。幸い、今回のアルバムは全曲気に入っています。移動する時も、自分で自分の曲を聞いているので。ハハハ。近いようで遠くに感じられる韓流多くの方が、ありがたくも僕を韓流スターと呼んでくださっているのですが、僕は韓流という言葉がプラスの側面だけを持っているわけではないと思います。人々がどれほど熱狂するといっても、反感を持つ人も多いので。アメリカは米流というものはないし、ただ彼らの音楽でコンテンツであるだけじゃないですか。無視できないから受け入れられるわけですし。まだ韓国の場合は、それほど自然に他の国から受け入れられてはいないようで、その点は少し残念です。そこで、韓流への抵抗も生まれているのだと思います。韓流スターを夢見る後輩たちは、海外で話を慎重にして欲しいです。本人にとって面白い話が、他人には面白くもないししらける話になることもあるじゃないですか。韓国はそれほど大きな台風が来たり津波がある国ではないですが、東南アジアは大きな津波の事件もありましたし、彼らを心から慰めることができたらと思います。育った環境がそうではないので、口から出た話で簡単に言うこともできるでしょうが、いざ聞く人は傷付くこともあるので。 海外ファンの情熱に感激する僕は日本で多くの公演をやってきましたが、日本の方たちは昔はあまり大声を出さなかったです。日本の文化がそうだったんですね。今は、K-POPが結構入って来ているので、韓国のファンたちと共に熱狂して歌も一緒に歌ったりします。以前は熱狂というよりは、ただ歌い終わったら拍手してくれるくらいでした。そのような点が韓国とは違うので、慣れない時もありました。日本のファンが送ってくれたプレゼントの中で一番記憶に残っているのは、たこ焼きを作るグリルです。料理が好きではないのですが、珍しいものが本当に好きなので^^ 中国にも有り難いファンがたくさんいますが、「クリスマスに彼女に贈ってもらいたいものは」という質問に、その年が龍の年だったので「龍くらいのマフラーが欲しい」と答えたことがあります。その後、中国のファンたちが100メートルのマフラーを編んで贈ってくれました。感動でした。 ヨーロッパの方には、僕を見に韓国に毎週来てくれるファンがいます。一度そのファンとお酒を飲みながら、色んな話をしました。韓国語と英語ができる、韓国のファンが通訳をしてくれました。4時間くらい焼酎を飲みましたが、韓国が本当に好きになったと、「ヒョンジュンさんが好きでなくても韓国に来る」と言ってくれました。本当にがっかりさせてはいけないなと思いました。後悔せず、今日を楽しんでください中国に地震があった時、1億ウォンを寄付したことがあります。多くの方に「どのようにしてそのような決定をしたか」と聞かれたんですが、もちろん簡単なことではなかったです。でも、そういうことは悩んでできる決定ではないです。気分の良かったある日、ニュースを見たら中国に地震があったんです。それで、社長にすぐ話しました。なぜなら、その時やらなければ後に寄付しないことを自分で分かっていたので。一晩過ぎたら「どうしてそうしたんだろう」と思うのが人の心じゃないですか。もちろん真心もこもっていましたが、思いついた時にやらかしてしまうんです。思いついた時にすぐやっておいて、後に後処理をするスタイルとでも言いましょうか。ハハハ。少し手に負えないですか? 人生は、そんな風に生きるほうがいいと思います。常に後悔せず、今日を楽しんでください。今日苛ついたことを解決できず、今日が過ぎてしまえば後悔だけが残るので。人々は、富と名誉がなければ幸せになれないと思います。僕も多くの富と名誉を得たと思いますが、それよりは現実に満足し、その中で幸せを探す方が重要だと思います。1万ウォンがあっても十分幸せに過ごすことができます。100万ウォンまで貯めて、100万ウォン分幸せになろうとしたら、逆に不幸になります。NAVERスターコラムの読者の皆さん、今日を楽しんで、自分が幸せな人だと信じてください!そして、キム・ヒョンジュンと僕の歌も愛してください^-^ 最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。文:キム・ヒョンジュン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】科学者を夢見ていた少年、キム・ヒョンジュン…音楽と恋に落ちる ― Vol.1
SS501のリーダーキム・ヒョンジュンが、約2年間の空白期間からカムバックした。ニューアルバム「ROUND 3」をリリースし、さらに男前になった姿でカムバックした彼は、現在SBSバラエティ番組「ニュー!日曜日は楽しい-裸足の友達」で隠れていたバラエティセンスを見せ付けている。これまでキム・ヒョンジュンは、音楽やバラエティ番組だけでなく、役者としても活発に活動した。2009年、「花より男子~Boys Over Flowers~」でユン・ジフ先輩を演じて女性の心を掴み、2010年「イタズラなKiss~Playful Kiss」では天才ペク・スンジョ役を熱演した。今も新しい作品でドラマ復帰を準備しているキム・ヒョンジュン。イケメンなマスクで数多くの女性をときめかせている彼の子どもの頃はどうだったのだろうか。NAVERスターコラムを通じてキム・ヒョンジュンの過去に行ってみよう。/編集者NAVERスターコラム:キム・ヒョンジュンこんにちは。キム・ヒョンジュンです。久しぶりにご挨拶します。皆様、お元気でしたよね?僕がこのようにNAVERスターコラムを書くことになるとは思いませんでした^^ このように皆様にお会いできて光栄です。これを機に、芸能人としての僕の姿と共に人間キム・ヒョンジュンについても語りますので、最後まで読んでいただければと思います。科学者を夢見ていた幼い少年実は僕は、子どもの頃から歌手を夢見ていたわけではありません。子どもの頃は科学者になりたかったです。家にある電子機器も全て分解して再度組み立てたりしました。機械をいじることが好きな子どもっているじゃないですか。僕もそうだったと思います。(電子機器を)全部分解してまた組み立て直したりしました。小学校の時は勉強もできる子だったと思います。負けん気が強く、他の友だちに負けないために更に一生懸命勉強したこともあります。 子どもの頃に科学者を夢見たせいか、今も科学や自然史に関することが好きです。この前最も面白かったのが、ディスカバリーチャンネルで放送した「マンモス複製編」でした。氷の中にあるマンモスの死体から血液を抽出し、その血液を再び注入してマンモスの複製が可能だという内容でした。本当に面白かったです。 少年、音楽と恋に落ちる。僕は中高の頃は音楽が好き過ぎて学校にもあまり通わなかったりしました。子どもの頃も特におしゃれしたりはしなかったと思います。ラーメンばかり食べても音楽がとても好きでした。バンド活動をしましたが、本当に一生懸命やりました。今思い出しても、本当に楽しかったです。今はメンバーたちは会社員になったり、学校の先生の準備をしていたりします。お互いに昔話をすると楽しいです。今もほぼ1~2週に1度は会います。小中高の友だちが今の友だちで、同じ町にずっと住んでいるので、会わないわけには行きません。チキン屋さんを一緒に営む友達もいて、そこで一緒に遊びます。僕は芸能人の友達より、子どもの頃の友達のほうが多いと思います。気楽でもありますし。バイト少年、ニックネーム「エイ(A)」僕はご存知のように子どもの頃にバイトを本当にたくさんしました。何より記憶に残っていることが、ファミレスでのバイトでした。当時、歌手RAINの人気が高かったのですが、そこの店長が僕にRAIN(ピ)を乗り越えろとの意味で「エイ」とのあだ名をつけてくれました。番組で話したことがありますが、たくさんの方々が面白がってくれました。実は、当時バイトをしながら学んだことが多いです。技術を学ぶ人もいると思いますが、僕は人に接する方法を学びました。その時に学んだことが今も役に立っています。お客様を幸せにできる方法を常に考えました。水が半分ほど残っている時に新しいグラスに変える、ピクルスが二つほど残っている時は、頼まれなくてもいっぱい盛った新しいものに変えるなど、色々と学びました。誕生日パーティをする時に妊婦がいると、隣の席に「クラッカーは使わないでください」と頼む、そういう思いやりを学びました。その時の店長に11年ぶりに会いました。ある高級中華料理のレストランに行きましたが、そこの店長を務めていました(笑) 目が合ったんですが、僕は一目で分かりました。名前まで覚えています。僕のことを昔は「ヒョンジュン」と呼んでいましたが、今回は「ヒョンジュンさん」と呼ばれました。何かおかしかったです。 一度きりの人生、つまらない人生は嫌僕はバイトをたくさんしましたが、実は僕は事業家とかの職業には本当に興味がありませんでした。先ほども申し上げましたが、ラーメンばかりの食事でも、僕が好きな音楽ができれば良いと思っているからです。人々を率いるオーナーは好きではありません。この仕事を続けたい理由の一つが、スタッフがいちいち世話を焼いてくれたりすることが好きだからです。しかも、僕は他人が嫌がることを言えません。なので、社長は自信がないです。基本的に退屈に生きる性格ではないと思います。罪を犯す性格でもありませんし、人生を楽しむほうです。他人の目を気にせずしたいことをしながら暮らしています。昔はイメージのために言いたいことも言えませんでしたが、そうすると僕が過去を後悔するようになりました。今は後悔したくないので、その時にしたいことは我慢せずにします。情とは偉大なこと僕が音楽も演技もするので、たくさんの方が気になると思いますが、僕自らは音楽のほうが近いのではないかと思います。1%程度でも。しかし、演技も音楽もすることについてウィンウィンな点が多いです。昔は歌を歌う時に100回練習すると、寝起きで歌ってもその感情で歌える状態になりましたが、今ではステージに立ったときにその歌に相応しい感情を引き出すことができました。そのような感情表現を、演技をしながらたくさん学びました。僕をデビューさせてくれたDSPエンターテイメントのイ・ホヨン社長を、今もたまに訪ねます。少し体調を崩していましたが、今は大分回復されました。ウン・ジウォン兄さんもイ・ヒョリ姉さんも今は移籍しましたが、僕はこの会社を懐かしく思っています。実は会社を移してから前の会社を懐かしく思うことって、そうないじゃないですか。しかし、みんなが懐かしく思っているのを見ると、社長がとても優しく、素晴らしい方だったと思います。やはり情とは偉大だと感じます。SS501のメンバーともたまに連絡をします。最近はキュジョンと連絡を取りましたし。僕の人生の友情、恋、そして仕事僕は友達との友情を大事に思います。子どもの頃の友達と、今でもとても親しいです。芸能人ではJYJと親しいです。ジェジュン兄さんとはクリスマスの時に2~3年連続で一緒にお酒を飲みました。同じ家で暮らしていたせいもあります。ジェジュン兄さんとライバルだとは思いません。兄さんは素直で、自信があります。強がると分かりますが、そういうこととは全く違います。僕が義理を重視しますが「恋より友情」だとは思いません。ハハ。僕はいつでも恋と言います。友情という人に会うといつも尋ねます。「結婚したら、妻と友達のどちらを取る?」と。そこは当然妻でしょう。しかし、恋をすることがそう簡単ではないと思います。僕は自分の職業が大好きなので、今は恋よりは仕事です。恋はお爺さんになってからも可能ですが、踊って歌って演技して素敵な役にキャスティングされるのは、今しかできないことだから。今はさらに仕事を頑張り、良い姿をお見せすることが僕の目標です。^^NAVERスターコラムの読者の皆様、最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。第2部では僕の音楽と海外活動に関する面白い話についてお話しします。お楽しみに。あ、そして僕の新曲「Your story」もよろしくお願いします^^文:キム・ヒョンジュン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】チェ・ウシク、カナダから来た純粋青年“女心を掴む” ― Vol.1
新人俳優チェ・ウシクに初めて会ったとき、「いまだにこんなに純粋で無垢な青年が世の中にいるんだ」と感じた。彫刻のように整った顔立ちに明るい微笑みで韓国中の女性たちが倒れたそうだ。信じられないかもしれないが。チェ・ウシクは今年に入って映画やテレビで最高の活躍を見せている。キム・スヒョンなどと共演した映画「シークレット・ミッション」では不良の美少年に扮し、微笑を見せながらなんと700万人の観客を動員する喜びを味わった。人気ドラマ「TENリターン」ではカリスマ性溢れる熱血刑事に変身し、視聴者の愛を一身に受け、高い視聴率の達成に一役買った。このように、幼い頃、家族と共にカナダのバンクーバーに移住したチェ・ウシクは現在母国に戻り、役者として成長している。カナダ出身の純粋な若手スター、チェ・ウシクによるNAVER スターコラム初連載、読者の皆様にもきれいな空気をたっぷり吸い込んでいただければと思う。/編集者NAVER スターコラム:チェ・ウシク在カナダ韓国人青年「ドリームハイ」で演技の夢を育むこんにちは。チェ・ウシクです^^ 僕は今、緊張しています。僕がNAVERスターコラムを書くなんて。嬉しい一方、ものすごくプレッシャーも感じています。それでも新人として一生懸命に書きますので楽しんでください!!僕が俳優の道に入るようになったのは、3年前カナダにいたときです。もともと僕は俳優よりも演出の方に興味がありました。そのため、舞台演出を勉強していたのですが、ある日友達が「最近韓国で新人俳優を沢山募集していると聞いた。演出の勉強のため先に演技をしてみたらどうか」と勧めてくれました。当時は本当に演技のイロハも知らない状況でしたが、その友達がインターネット新人俳優オーディションに僕の書類を送りました。「ドリームハイ」が企画され、一度中止になる前のことだと覚えています。そのときキーイーストが海外で新人を選んで「ドリームハイ」に出演させるという趣旨の番組をやりました。僕は、1次書類審査に合格しました。まだ何も知らなかったので母に「お母さん、僕もしオーディションで選ばれたら本当に大スターになれるだろう」と浮かれていました。今考えると笑えますね^^ 僕の母も「キーイーストってペ・ヨンジュンさんの事務所なの?それなら、あなたは多分駄目だろうけど、後で後悔しないように韓国に行って一度挑戦してみなさい」と韓国に来ることを許してくれました。無知は勇敢だと言うでしょう?(笑) このように何となくオーディションに参加したので演技をするために準備したこともなかったし、台本を読んでみろと言われて何かもらったりするとぶるぶる震えながら読みました。知っていることは何もなかったので「なぜオーディションを受けたのか」と言われると「一度やってみたかった。昔から演技に興味があった」とありきたりな回答をしました(笑)どう考えても運が良かったと言えるでしょうか?そのオーディションで最終段階まで進み、今一緒にしているマネージャー室長と3ヶ月間練習生生活をしました。そのとき初めて習った演技がとても面白かったんです。それで、心の中で演出は後からしようと決めました。カナダにいた友達に「韓国ではRAIN(ピ)やイ・ジュンギのように二重まぶたではない一重まぶたのスターの人気が高いから、お前も早く行ってみな」と強く勧められました(笑) 「今行かなければ後からは駄目だから早く挑戦しろ」と皆、僕のことを応援してくれましたが、オーディションに合格したのもそのおかげではないかと思います。初めて出演した作品は、ケーブルチャンネルOCNで放送する時代劇の端役でした。韓国語も下手だったので、時代劇に出演するなんて、どうしようと思いましたが、オーディションで監督が僕の台詞を聞いて合格にしてくれました。その方が「TEN」シリーズと当時「別巡検」を演出したイ・スンヨン監督でした。僕が「別巡検(ビョルスンゴム)」で演じたキャラクターですか?ちょうど16秒ほど登場する士大夫のキャラクターでした。監督が撮って16秒間登場するところを見て「お前は誰だ。後で必ず使うから現場に残って電話番号をくれ」とおっしゃいました。それがカメラの前に初めて立った日でした。監督に気に入っていただいたので家に帰って話すべきことが沢山ありました。母に「お母さん、僕に何かあるみたい。僕にまたやってみようと言ってくれたよ」と浮かれて話した覚えがあります(笑)今は英語より韓国語が楽になりました小学校5年生のとき、カナダのバンクーバーに移住しました。この前、映画「シークレット・ミッション」が終わってバンクーバーに休暇に行ってきました。今回行ったら色々な変化がありました。韓国人もより多くなりましたし。僕は大学の授業はもちろん、運転免許まで全部休止させてきたのに数年間1度も帰る機会がありませんでした。今回カナダに行ってまた感じたことは、僕がいつも韓国語ばかり喋っているから、向こうの友達が言うには僕の英語の発音が変わったようです。「お前どうしてそんなに英語ができないのか。バンクーバーで10年間暮らしただろう?」とからかわれたのでちょっと恥ずかしくなりました。少し前韓国の英語番組でインタビューをしましたが、それを友達が見たのです。インタビュー当時は生放送のインタビュー自体にもプレッシャーを感じましたが、しかも英語でしようとしたらさらに難しく感じられました。そのとき、僕は外国に住んだ経験があるからもっと上手にやらなきゃと思ったようです。それで英語が上手に見えるようにもっとオーバーに発音したりしました。最近試写会で2PMのニックン兄さんと会いましたが、ニックン兄さんも外国に住んでいたじゃないですか。兄さんにどこから来たのかと聞かれ、バンクーバーから来たと言いました。そしたら英語が出ました。ところが英語には敬語やため口がないじゃないですか。最初に韓国語で敬語を使ったのにいきなり英語を使えばため口で話すような感じがして、ニックン兄さんが英語で話をしたら僕は韓国語で「あ!はい」と答えるようになりました。英語で話すといきなりぶしつけになるような感じがしたんです。それでニックン兄さんとは韓国語で話しながら英語を少しずつ混ぜて会話しました。カナダで過ごした学生時代、僕もちょっと遊びましたがカナダで過ごした幼少期はとても楽しく遊びました。韓国では「昔ちょっと遊んだ」と言えば高校時代にトイレでタバコを吸ったりする場面を思い浮かべるんだとどこかで聞きました。僕もカナダでよく遊びましたが、山登りや釣りに行ったり、お金が必要になれば犬を散歩させるバイトをしたりしながら遊びました。僕がバンクーバーから来たときが二十歳でしたが、韓国で社会生活をして24歳になってから、初めて戻ってみると色々と感じることが多かったです。友達とかなりギャップができたのではないかと思いましたが、まったくそんなことはありませんでした。社会生活をしていると飲み会で時間を過ごすときが多かったのですが、今回行くと友達と森の中に入って星を見ながら遊びました。川辺でビールを飲んでたき火をしながら純粋に遊んだので本当にいい休憩時間になりました。オーディションを受けるため韓国に来たときは、韓国語がそれほど上手ではありませんでした。実は、今も発音は良くないですが、そのときはもっと悪かったです。テレビを見たら野球選手のパク・チャンホ(朴賛浩)さんが舌を丸めて発音したことで笑われたという内容が出ましたが、僕もちょっとそんな感じでした。しかし、カナダでも韓国語を忘れたことはありません。思春期のときはアイデンティティへの悩みがありました。外国人の友達と喧嘩して「お前の国に戻れ」と言われる度に「僕は誰なのだろうか?」と沢山悩みました。親はいつも僕に「あなたは韓国の血が流れている韓国人だから家では韓国語を使いなさい」と言いました。「使わなければ殴るよ」と言うほどでした。おそらくバンクーバーで殴られて育った子は僕しかないと思います。そのおかげなのか、いつも韓国語を忘れずにいられました。学生時代着たことのない制服、演技しながら思う存分着てみました学校に通うとき、ジャズバンド、オーケストラバンドの活動をしました。第2外国語として日本語も習いました。本当に色々なことを経験したわけです。自分で言うのも恥ずかしいですが、そんなことをしながら成績も悪くありませんでした。楽器はトロンボーン、サクソフォーン、スタンドアップベースをしてみました。それでさらに楽しかったと思います。色々な経験をたくさんしたから演技も向上するし、色々なタイプの人と沢山会ったのでそれを受け入れることにも役に立ちますし。韓国では昔から「男は一生に3回以上泣いては駄目」と感情を抑えることが多かったようです。しかし、カナダでは自由に自分の感情を全部表現するし、やりたいことがやれるから、そういう面で僕は枠にはまらない演技ができたと思います。映画やドラマで制服を着ると本当に嬉しかったです。韓国で学生時代をもう一度経験しているような感じがしました。演技しながら「僕がこの制服を着てこの学校に通ったらこうなのだろうか?」と想像してみたりしました。「黙ってファミリー」で僕が演じた役がパンシャトル(パンを買いに行かされる学生)でしたが、そのときが特に面白かったです。本当に高校に通っているような気がしましたし、一緒に出演する友達と集まって話したり、SISTAR ダソムのように綺麗な子と一緒に過ごしたり。そういうことがとても楽しかったです。僕はまだ兄さんたちの傘下におります!!!KBSシットコム(シチュエーションコメディ:一話完結で連続放映されるコメディドラマ)「黙ってファミリー」のとき、パク・ソジュン兄さんに仲良くしてもらいました。そのとき、ソジュン兄さんはバカな役を演じていましたが、今は本当に大人気です。正直羨ましくないと言えばそれは嘘でしょう?作品でほとんど主人公をしていました。兄さんが本当によくやっていて嬉しいです。かなり羨ましいですが、実は本当に親しいながらも少しはライバル構図って感じ?善意の競争のようなものがあればいいでしょう。兄さんはどうか分かりませんが、僕ももっと何かお見せできることがあればと思います。「屋根部屋のプリンス」に出演したときは、本当にJYJ ユチョン兄さんのおかげで得をしました。どれほどだったかと言いますと、海外のファンも僕のことを知るようになったほどでした。僕なんかファンが知っているわけがないでしょう?ユチョン兄さんと一緒に行ったら僕にもファンができました。そのとき僕はただ俳優の後ろに立っている子でしたが。いきなりTwitterでも沢山のファンにフォローされましたし、撮影現場で僕たちはほとんど一緒にいたので、どこにいってもユチョン兄さんの私生ファン(サセンペン:芸能人の私生活まで追いかけるファン)たちがいました。外国人のファンまでいつも撮影現場に来ていました。トイレに行こうとすればファンがトイレにトイレットペーパーがないのを見ての車の上にトイレットペーパーを置いて行きます。そういうことがとても珍しくて羨ましかったです。ユチョン兄さんの傘下にいたにもかかわらず、そういうことばかり見えたので虚栄心が生じたようです。それで最近僕が思うことは「初心を忘れないように」ということです。まだ始まりの段階にある僕がこんな話をするのもあれなんですが、それでも一日一日初めて演技を学んで身につけた瞬間の気持ちを忘れてはいけないと思いました。演技はすればするほど難しいという先輩たちの話を以前は理解できませんでしたが、今は分かるような気がします。自慢せず、いつも頑張る役者になります。NAVER スターコラムの読者の皆様!僕のつまらない文章を読んでいただき、本当にありがとうございます。愛しています^^文:チェ・ウシク「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】カン・スンユン、YG練習生はまだ終わっていない ― Vol.2
気難しい反抗児の復活だろうか? YGエンターテインメント(以下YG)の新人カン・スンユンが31日にソロデビュー初のタイトル曲「WILD AND YOUNG」を発表する。最近、バラード曲「雨が降る」で主な音楽配信チャートを総なめにし、梅雨の季節の女性の心を潤した彼が、今度は強烈なカリスマ性溢れるロッカーにイメージチェンジするというので、非常に楽しみだ。Mnetの人気オーディション番組「SUPER STAR K2」への出演以来、約3年間YGの練習生として厳しいトレーニング過程を経たカン・スンユンは、長く自分を待ってくれたファンのために一気に3つのタイトルを披露する。それだけではない。彼はYGでBIGBANG以来7年ぶりにデビューする新人ボーイズグループを決めるリアルサバイバルオーディション番組「WIN」に出演し、2ヶ月間ほどの番組を通じて、今後ソロとして活動するか、グループWINNERとしての活動を並行するかの分かれ道に立つことになる。カン・スンユンがスターコラム第2部の別れの際の挨拶で、練習生活はこれからもずっと続くと言ったのもそのためかもしれない。昨日より今日、今日より明日が期待される新人カン・スンユンの練習生魂に読者の皆様の熱い声援をお願いしたい。/編集者NAVER スターコラム:カン・スンユン「ハイキック3」の放送終了日に号泣した理由とは?スターコラムの読者の皆様と会ったばかりなのに、もうお別れですね。残念です(泣) 第1部を読んで、励ましてくださったすべての方々に感謝いたします。そして、第2部も頑張りたいと思います^^練習生の時に汗を流して苦労すると、後で必ず役に立つということを教えてくれたのがMBCシットコム(シチュエーションコメディ:一話完結で連続放映されるコメディドラマ)「ハイキック3~短足の逆襲」(以下「ハイキック3」)でした。演技の時は体で様々な動作をしますが、台詞に合うアクションを自然に表現できました。苦手なダンスを習うために、毎日色々な振り付けを勉強したのが功を奏したんです。撮影をする半年の間、練習生の友達と一緒に暮らしながらもほとんど顔を合わすことはありませんでした。練習生たちが練習している時間に僕は宿所に戻って眠り、練習生たちが寝る時間に僕は仕事に向かうという生活の繰り返しでした。「ハイキック3」の最終回は、スタッフと出演者が全員集まって一緒に見ました。僕は今までの人生において、YGの練習生になり、ダンスのために苦労した時以外はほとんど泣いたことがなく、最後の撮影の時もあまり悲しみを感じなかったので、淡々とした気持ちでその場に行きました。最後のエピソードも淡々とした気持ちで見ました。 エンディングは僕とf(x)クリスタルのシーンでしたが、最後に「今までご覧いただきありがとうございました」というコメントが出てきた瞬間、涙が流れました。絶対に泣かないと思っていたにもかかわらず、本当にとんでもなく恥ずかしいほど、涙がボロボロと溢れ出てきました。他の先輩の方々も僕に向かって「泣くところを初めて見た」と話し、みんなが「おまえも私たちとの間で情が湧いたんだな」と冗談を言ってくれました。全てが終わって、監督が「ご苦労様でした」という一言と共に抱きしめてくれましたが、その時はもう涙ではなく、何もかも全てを下ろして号泣しました、ハハ。戻って来た練習生宿所、再び一からやり直し事務所から、再び宿所での練習を始める前に1週間ほど休暇兼適応期間をいただきました。宿所に戻ると仲間たちともよそよそしくなっていて、雰囲気も大分変わり、とても違和感がありましたが、それでもすぐに適応することができました。なぜなら「ハイキック3」を撮影しながら、僕の出番を待つ間に1人でかなり練習をしてきたからです。控え室でギターを弾きながら練習し、イ・ジョンソク兄さんが疲れて眠っている隣で踊ったりもしました^^ 体にしみ込んでいた何かをいきなりやらなくなると、とてもやりたくなりました。だから、1週間の休暇のうち2~3日だけ休んで、あとは練習室に下りて踊り、歌いました。 「ハイキック3」の撮影に入る前にスランプ、停滞期がありましたが、「ハイキック3」のお陰でしばらく休んでから再び練習を始めると、さらに頑張れるようになりました。僕が再び練習を開始した4月の月末評価で社長に褒められました^^ 「どうして6ヶ月間練習をせずに休んでいたカン・スンユンが、今まで一生懸命に練習してきた君たちより上手なんだ? 頑張りなさい」と、遠まわしに褒める形で、ハハ。停滞期が訪れた時にさらに切実になるきっかけがあったので、その時にもう一段階上がれたんだと思います。以前の練習していた際の映像を見てみると、本当に実力が上がったような気もします。「ハイキック3」の直前にスランプに陥ってから、その後再びぐんと上昇したようです。その時、人は追い込まれると実力が伸びるということが分かりました。だから、「ハイキック3」という作品は僕にとってターニングポイントとなる作品でした。借金は作らない!僕のモットーです「ハイキック3」が終わった時、僕がYGに入って1年になっていました。家の借金を返していたので、以前に広告や放送、イベント営業で稼いで母に渡していた生活費が底を突き始めていました。 母はローンがあるから問題ないと言いましたが、僕は借金が本当に嫌いです。実は、家の借金はまだ返済が残っている状態で、そのプレッシャーがとても嫌いです。今もクレジットカードはなく、デビットカードを使っています。母には、「心配しなくていい。何とかする」と言いましたが、実は、これといった対策はありませんでした。ただ、責任感があったんだと思います。母は1952年生まれで今年で61歳ですが、今まで僕を1人で育てるためにたくさん苦労してきてくれたので、これ以上働かせたくないという気持ちもありました。幸いにも僕は練習生でしたが「ハイキック3」に出演した上に、放送が終わってすぐドリンクのCMのオファーが来ました。YGでは出演料や収益金をすぐに精算してくれるので全ての問題が一気に解決されたんです。すごいタイミングですよね? さらに有難いことに、新人の割に広告の出演料が高かったんです^^ドリンクのCMにより、再び奇跡的に助かりました^^ 広告の出演料で残りの借金も少し返しました。まだ全部は返済できていませんが、残りの金額で今も生活しています。本当に何とか方法はあるようで、人生で辛かったり、停滞することがあるたびに、いつも有難いことに救いの手が差し伸べられました。 昔からそうだったと思います。「SUPER STAR K2」に出演する前も、家の経済状況は最悪でした。しかし、「SUPER STAR K2」に出演することで希望が生まれました。辛いと思った瞬間に良いことが起きます。「SUPER STAR K2」に出演したのも、僕の意志ではなかったからです。「SUPER STAR K2」のオーディションにも、高校の親友が1人で行くと待ち時間も長いというので、一緒に行っただけでした。一緒に行ってオーディションを受けようと言われ、付いて行ったんです。ところが、その友達は落ちて僕が合格してしまいました。そのような大変な状況で、意図していなかったにもかかわらず、何もかもが上手く行きました。母も経済的に、気持ち的に疲弊していた状況で希望を見ました。 これまでに借金をしなければならなかった理由は、母が長い間厳しい環境で食堂を運営しながら家計をやりくりしていたためです。元金を返すどころか、利子までローンで返さなければならない状況でした。商売が儲かれば問題ないのですが、商売は本当に厳しかったです。母は料理にプライドがあり、良い食材を使って贅沢に売っていたので儲からなかったのですすると、生活はどんどん厳しくなり、食べる物さえなくなるほどでした。さらに、芸術高校なので学費は高く、ギター専攻なのでレッスン代、楽器購入代も必要でした。母が大事にしてた宝石や貴重品を少しずつ売って、楽器代や学費に当てました。どうしても、芸術系のことを勉強すると余計にお金がかかってしまうものなんです。そのような状況が続くと悪循環の連続です。借金の元金を返どころか、もはや利子を返すことがやっとでした。商売が上手く行かないので利子を返すためにさらに借金をし、その状況が借金の悪循環をもたらしました。一時期は信用不良で利子を返すための借金さえも難しかったんです。YGに入ったことも、幸運のどんでん返しです。練習生にもかかわらず「ハイキック3」に出演し、広告にまで出演することで経済的に余裕ができたからです。事務所は収益金をその場で全て精算してくれるので、僕は再び練習だけに専念することができました。YGでは練習生、外では芸能人「ハイキック3」が終わり、今度はデビューするまでの練習生としての時間の方がはるかに大変になりました。なぜなら「ハイキック3」が終わり、僕がインタビューで「今度は音楽でカムバックします」とファンの皆さんに約束したからです。焦っていました。事務所でもデビューの話が出ましたが、状況が良くありませんでした。周りから「いつデビューするの?」と聞かれると、「近いうちにデビューする」と答えていました。しかし、早くデビューしたいからといって、すぐにできる話ではないでしょう? YGには10年目の練習生もいます^^ 僕は本当に運が良いほうで、常に感謝する一方で申し訳ない気持ちもあります。今は、ある瞬間から無心となり、欲を捨てて待つようになりました。実は、期待するのは構わないのですが、練習するにおいては支障が生じます。僕は今もYGの練習生で、これからもずっとそうでしょう。BIGBANGの兄さんたちでさえ、そのような姿勢で生活するのを見て感じた部分も多いです^^ コラムを書き終えたら、また練習に行きます。僕はソロデビューの活動が終わってからもまた、グループ活動をしなければならないためです。これからは宿所で一緒に暮らす仲間たちと一生懸命に練習し、競争する難しい関門を通らなければなりません。頑張るぞ!デビューしたものの、まだ、自分のことをアーティストだとは思いません。僕が初めてYGに入ったときから多少曖昧でした。ここでは練習生ですが、外では芸能人だと思われるからです。そんな生活を3年間もしてきたので、今はもう慣れました。これからも頑張っていくので、温かく見守ってください。そして、僕の歌に送ってくださった声援に心から感謝申し上げます。皆様、愛しています。文:カン・スンユン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】カン・スンユン、YG練習生時代の1000日秘話 ― Vol.1
カン・スンユンが、オーディション番組出身の新人歌手の成功神話を作り続けている。16日の正午にリリースしたデビュー曲「雨が降る」で主要音楽配信チャートを席巻し、音楽ファンの心を梅雨の雨のようにたっぷりと潤しているのだ。「雨が降る」は別れを経験した男の心を表現したロックバラード。この曲でカン・スンユンは切ない声で見事に表現したという評価を得ている。歌手として成功裏に一歩を踏み出したカン・スンユンは、今月末に強烈なロックの曲「WILD AND YOUNG」で再び大衆の前に立つ予定だ。そのような彼が、NAVER スターコラムの読者の皆様のために、Mnetの人気オーディション番組「SUPER STAR K2」への出場や、突然スターになった後、YGエンターテインメント(以下、YG)の練習生となり1000日間耐えてきた忍耐の修練記について語る。1日目から1000日目まで、歌手デビューするまでにカン・スンユンが過ごしたYG練習生としての1000日秘話をスターコラム独占で2回連続連載する。読者の皆様のご関心をお願いしたい。/編集者NAVER スターコラム:カン・スンユン「SUPER STAR K」トップ4出身のカン・スンユン、YGの練習生にこんにちは!!カン・スンユンです。僕の曲「雨が降る」を愛してくださったすべての方々に感謝申し上げます。まだ若い僕に、このように人生初のコラムのチャンスを下さっただけに、期待を裏切らないよう頑張って書きます。未熟な文章ですが、楽しくお読み頂ければ幸いです^^僕が初めてYGとミーティングをしたのは2010年の年末でした。そしてYGの練習生として最初の練習をしたのは2011年3月9日です。実はその前にYGの他にもたくさんの事務所からオファーを頂きましたが、どの事務所にしようかと比べていました(笑) その中で最初にミーティングをしたのがYGでした。ヤン・ヒョンソク社長、PSY兄さんが一緒に来られましたが、面接の場で「一生懸命考えてみます」と答えました。その時僕の出演料が安かったわけでもなく、イベントの営業もしていましたので、今考えてみると調子に乗っていたと思います。ヤン社長はそんな僕に、YGに入れば他の男子練習生と一緒に暮らしながらダンスなど、足りない部分を補うことになるとおっしゃいました。もちろん、YGが最高の事務所だったので、入りたい一方「現在こんな位置にいる僕が練習生?」という気持ちもありました。もちろん、すぐにデビューだとは思いませんでした。僕が「SUPER STAR K2」の他の参加者に比べて実力が足りないと感じたので、一種の被害意識もありました(泣) 実力を磨き上げる時間が必要だとは思いました。それでもいざ練習生となるとあまりにも遠く感じられたのです。BIGBANGのG-DRAGON兄さんや、SOL兄さんもYGでとても長く練習生生活をされたでしょう? 当時僕が歳を取っていたわけではありませんが、長い時間を費やし、アイドルのようなヤングなイメージを作ることは難しいのではないかと心配したほどでした(笑)しかし、他の事務所からもどんどんオファーが来るようになりました。複数の事務所とミーティングをしました。とても高い契約金を提示する事務所、僕を最初の所属歌手にするという事務所もありました。すでに最高のスターが所属している事務所もありました。しかし、いずれも僕が望む方向で、最高のアーティストと作業できるような環境を整えてると提案されました。最高のセッション、バンド、僕をアジアのスターにするという提案まで。しかし僕は契約金が高いからといって、アーティストとしての価値が高くなるとは思いません。そういうふうに一つ二つ除外しているうちにYGを含めた二つの事務所だけが残りました。その二つの事務所の中で悩んでいる時でした。僕の携帯番号は当時色々なところに知られていた状況だったので、知らない番号から電話がかかってくると出ませんでした。そのため、YGからの電話にも出なかったのです。知らない番号だったので何度も拒否ボタンを押すだけでした。それがYGを怒らせたのです。最終的に「来たくないのであれば来ないでください」というメールが来たのですが、それがとてもカッコよかったです。僕の脳裏に刻まれました。ヤン社長が最初に会った時、僕に「芸能人という意識は捨てろ。同じ練習生だ」とおっしゃったことが頭に浮かびました。悪い男の魅力があるでしょう^^ 他の事務所の場合は僕に何があっても来て欲しいといってくれましたが、ここは僕に冷たかったのです。来ても来なくても別に良いとのことでした。それがYGの魅力でした。僕は当時ホットでしたが、そういうのはどうでもよく、才能だけを評価するという意味でしょう? この事務所がそれだけプライド、自信があるので、僕が元々持っているスター性を利用することはなさそうだと思いました。本当に僕が大物になれるように育ててくれる事務所はここだと思いました。YG練習生スタート!ダンス音痴を克服し、ダンスを楽しむ!番組に出てから母は、営んでいた店の営業を止めていた状況でした。歳もありますので僕が稼いだお金で生活しようと言ったところでした。しかし練習生生活をすると少なくとも1~2年はお金を稼げないでしょう? 母はお金の心配は要らないと言いましたが、実はそこが一番心配でした。その時までに番組に出演し、イベントの営業にいって、CM撮影をしながら稼いだお金は、使うだけだとなくなるお金だからです。母が何とか生活できるように残りのお金をきちんと管理しておいてから練習室に入りました。これからスタートです!!初めて練習生たちと挨拶をしましたが、僕を見る視線が冷たく感じられました。正直オーディション番組に出演したからといって特別待遇でいきなり入ると、僕はよそ者になるしかありません。冷たい視線で見られて当然だと思いました。そこで、自分から近づいて頑張る姿を見せようと決心しました。まず、練習生たちに90度で挨拶をしました。「はじめまして。カン・スンユンと申します。色々と教えてください」と。そう挨拶すると180度変わりました。今までの番組放送を通じて僕のイメージに対する偏見を持っていたのです。「SUPER STAR K2」の放送では大胆な高校生、遊び好きな高校生に見えていたので、鼻っ柱をへし折るべきだと思ったそうです。ですが僕が先に頭を下げてから入ると、幸い良い評価をしてくださいました。いじめなどなく、笑いながら出発しました。しかし練習を始めてからすぐ壁にぶつかりました。ダンスという壁です。そのストレスがひどすぎて、1人で宿所のベランダで空を見上げながら涙を流す時もありました。どうしてもできないので。ダンスを習ったことがありませんでした。以前、オーディション準備と番組のためのダンスを習ったことはありますが、ダンスに対する理解が全くないので、本当に大変でした。先生も僕の速い成長を求めていたので、表面上は僕を完全に無視しました。そのように叱られると、宿所に戻ると1人で泣く日々でした。先生のダンスを見ると頭では理解できますが、体がついてきませんでした。鏡を見ながら踊る僕の姿は、漫画のキャラクターのようでした、ふふふ^^ まさにパニックでした。プライドが傷つき、自分がみじめに感じられ、本当に大変でした。何としてでも他の人たちのように褒められたかったです。その時は先生からの褒める言葉一つが聞きたく、歯を食いしばりました。そうすると、何とかできました。どうやっても無理に思えましたが、本当に不思議なことに、汗を流した成果がありました。練習生として入り5ヶ月間、YGの中で練習するチームのうちトップではありませんが、その下までは腕を上げたのです。それからは先生にダンスで認められました。「この振り付けはスンユンが一番うまいが」という褒め言葉です。その時からは本当にダンスが好きになりました。ダンスってこんなに面白いことだったのだと。練習生としてオーディションを受けた「ハイキック3」にキャスティングそうやって練習生生活に弾みがついて頑張っている中、MBCシットコム(シチュエーションコメディ:一話完結で連続放映されるコメディドラマ)「ハイキック3~短足の逆襲」(以下「ハイキック3」)のオーディションの話が来ました。当時、YGの練習生の中で何人かがオーディションを受けることになりましたが、僕もその1人でした。たくさんの方々が、僕が「ハイキック3」にストレートでキャスティングされたと思っているようですが、オーディションを経てキャスティングされました。公開で行われる、数百人が列になって並んでいるようなオーディションでした。その時は、特に演技への情熱もなく、できればいいだろうと思っていました。だからと言って、音楽一筋というこだわりがあったわけでもなく、オーディションというチャンスを与えてもらったので頑張ってみました。オーディションで仮の台本を見ながら演技をしましたが、下手な演技はしたくありませんでした。学んだことも、したこともなかったのですが、そう思いました。いざ行ってみると、台本をただ渡されて、詳しい説明などはありませんでした。演技は俳優の仕事だからです。僕なりに解釈して演じました。何もない舞台があって、監督と作家さんが前に座っていました。それでも顔が知られているので、「釜山(プサン)出身だから、訛りを使ってみるのはどうだ?」と言われ「頑張ります」と答えました。僕は僕の訛りが面白いと思ったことはありませんが、みんなが笑ってくれました。僕は大真面目に演じたのに(笑) 「この他に準備してきたことはないのか」と言われ、たとえ合格出来なくても、できることは全部やってみようとの思いで、やったこともないミュージカルを演じました。「ジキルとハイド」の人気ナンバー「今この瞬間」が好きでそれを歌いました。歌ってから合格するかどうか分からないが、チャンスをいただけるのであれば頑張ると挨拶してから会場を後にしました。オーディションの後、何の知らせもなかったのでダメだと思って練習生生活を続けていましたが、連絡が来ました。脚本家さんとミーディングをしましたが、「君は元々この『ハイキック3』で準備していなかった配役だ。君が入ることのできる役は実はなかった」と言われました。しかし、訛りが長所になり、演技もしたことのない僕が唐突に演じる姿を前向きに評価してくださったようで、監督が僕の役割を新しく作ったと言ってくれました。脚本家さんと僕に関する話を何時間もしたことを覚えています。今までどう生きてきて、どのようにしてこのような夢を抱くようになり、練習生生活をしていて、性格はどうで、これが好きでこれは嫌いでなどといった話です。僕に関する全てを話したと思います。「ハイキック3」の撮影に入ってから、大変な部分がありました。以前は他のスケジュールがなく、練習だけに集中できましたが、撮影があるたびに練習を抜けなければならず、流れが切れてしまうのです。放送序盤、僕の出番が少なかったときは月に多いときでも2、3回程度の撮影でしたが、次第に回数が増えていき、ますます練習の流れが切れて、とても大変でした。撮影から戻ってくると他の仲間たちの実力はさらに上がっていて、それに追いつくためにはその倍の時間を1人で練習しなければなりませんでした。当時、始めたばかりの授業もあって、今までやったことがないものなので、最初から学ばなければ後から付いていくことができませんでした。そうやって、参加できない授業がどんどん重なっていくと、完全に取り残されてしまいました。もはや、これまでのように寝ないからと言って追いつけるレベルではなくなったのです。そこで、とてもストレスを受けました。「ハイキック3」で僕の出番が多くなる前までは、欠けた部分のレッスンを別途で受ける形で並行しましたが、実は、僕に与えられた時間の2倍は練習しない限り、追いつくことが不可能な状況になっていました。僕が撮影に行くことが、他の練習生の立場からすれば羨ましいことでしたが、僕だけレッスンに遅れるという事実にプライドが傷つきました。そこで大変だとも言えずに、頑張る姿を見せることしかできず本当に大変でした。大変ではありましたが、撮影するときだけは良かったです。半年以上、毎日同じような練習ばかりしていたので、撮影に行くとただ楽しかったです。その楽しさがあったからこそ、耐えられたんだと思います。そのように頑張っているうちに、演技も面白くなり始めました。僕なりに上手くなりたいとも思いましたし、演技をするときは一生懸命にやりました。控え室に入った瞬間からはYGの練習生ではなく、「ハイキック3」のカン・スンユンになるのです。目の前で芸能人を見るのも不思議でした。その方々とご飯も一緒に食べて、笑って。それがただ良かったんです。役者と同じことを感じること、カメラの前で演技をすること、全てが好きでした。本当に幸せな時間だったんです。そうしているうちに演技の腕も徐々に上達したようで、ある瞬間から台本を受け取ると僕の出番が増えるようになり、メインエピソードも一つずつできました。 心の中で「あらら?」と思いました。出番が増えて良くなったことは、毎日撮影しなければならないため、それまで中途半端になってしまっていた練習生生活をやめられたことです。本当に苦しんでいた状況でその部分が整理され、演技だけに集中できるようになりました。そうして自信もつき、自然に演技ができるようになったのです。キム・ビョンウク監督もそのような姿を前向きに評価してくれて、相乗効果があったと思います。「ハイキック3」の序盤は、イ・ジョンソクの家に行って隣に座っているだけだとか、そのようなシーンが全てでした。しかし、台詞が増え、その家に居座るようになったのです。ほぼ全てのエピソードに絡むようになり、最終的には123話のうち100話に出演しました。監督や先輩の方々が、演技と歌手を並行するようにとアドバイスもしてくれました。演技を学ぼうとせず、今の僕の初々しい演技やその他のことは、時間が経てばきっと自然になると仰ってくれました。練習をすると、型にはまった演技になりがちだと。書いているうちに長くなり過ぎましたね。「ハイキック3」を撮ったら、僕の練習生生活の前半戦もほぼ終わりです。いかがでしたか?それでは、第2部でまたお会いしましょう。ありがとうございます^^文:カン・スンユン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】イ・ビョンホン、懐かしい父との思い出…語り切れなかった映画の話 ― Vol.2
映画「王になった男」で1千万俳優(1000万人の観客を動員した俳優)の仲間入りを果たしてから、もう3度目となるハリウッド映画「REDリターンズ」を通じて意外な魅力をアピールしたイ・ビョンホンの順調な足取りが注目を浴びている。イ・ビョンホンは、映画「REDリターンズ」で元CIAエージェントRED(Retired Extremely Dangerous)のリーダーのフランク(ブルース・ウィリス)の命を狙う最強の殺し屋ハン・ジョベ役で登場し、これまでのアジア俳優の典型となった単純な悪役に対する認識を変えることに成功したという評価を受けた。彼はカリスマ性がありながらも、時には何かにとことん執着し、どこか少し足りないホダン(しっかりしているように見えるが抜けている人)のような姿までも見せて、観客にギャップのある魅力をアピールする。NAVERスターコラムを通じて俳優イ・ビョンホンの人間的な魅力を探ってみよう。/編集者NAVER スターコラム:イ・ビョンホン想定していなかった俳優としての道僕は子どもの頃から俳優になることが夢ではなかったし、なりたいと思ったことさえ一度もありませんでした。KBS公開採用14期タレントになったのも、周りからの勧めがあったからです。大学生の時、僕は軍に入隊するために入隊願書を出して家で休んでいました。ある日、友達の母親がうちに来て、僕にKBS公開採用タレントの願書を渡しながら俳優に挑戦してみることを勧めました。僕は友達の母親に、「人前できちんと話もできない僕が俳優だなんてとんでもない」と断りました。すると、僕の母親は「うちの家族から俳優が出てくるなんて、期待もしないわ。あなた、顔も男前じゃないのに俳優になれるの?」と言いました。そうしながらも僕の母親は、「それでも願書を持ってきてくれた方の気持ちもあるし、男の子なんだから色々と経験してみるのも良いでしょう。タレント試験なんて滅多に経験できることじゃないんだから」と提案してくれました。そこで僕は写真学を専攻する友人にプロフィール撮影を頼み、書類選考に応募しました。幸運にも最終選考まで一度で合格しました。熾烈な競争を勝ち抜いて成し遂げた成果でしたが、他の合格者たちとは心構えが違いました。その人たちには、本当に心から俳優になりたいという切実さがありましたが、僕はその時まで俳優になることに対し、これといって惹かれるものはありませんでした。研修期間中にも、できなければ途中で降板させるという話に他の合格者たちの間では緊張感が漂っていましたが、僕は「最初から俳優になろうと思ったわけでもないから」という心構えで気楽にしていました。そうして1991年、KBS 1TV4期公開採用タレントとして俳優の道を歩むことになりました。本当に思いもしなかった職業に就くことになり、僕も不思議でした。専門的に俳優の勉強をしたわけでもなく、デビューの時から様々なドラマに出演しながら徐々に認知度を上げました。そうして1年、2年と経つにつれ、俳優という職業に魅力を感じるようになりました。「俳優であれば僕の全てを注ぐことができる」と思いました。それだけ俳優の魅力にすっかりはまっていたと思います。会いたい僕の父親ハリウッドキッドの胎動このようにして、友達の母親の勧めから俳優の道を歩むことになりました。ある意味では僕の人生を完全に変えたと言えると思います。しかし、最近僕の周りやメディアを通じて、とりわけ父親の話を頻繁にしているような気がします。そのおばさんより先に、亡くなった父親が僕を俳優の道へと導いてくれたようだと。よく考えてみると、子どもの頃に父親と一緒にMBC「週末の名画」をはじめ、TVで放送される白黒映画をたくさん見ました。そのとき父親は、僕に向かって「あの俳優は誰々という俳優だが、今回の映画でどのような役を務めて、演技が上手だ」「あの女優は誰々が夫で、映画にこのようにキャスティングされ、目の演技がとても上手」などと言いながら、まるで映画評論家のように絶えず説明してくれました。僕は当時、小学生で、本当に子供でした。子どもに分かるわけがありません。映画の内容や俳優の名前が何なのかも、全く分かりませんでした。ただ、父親と一緒に映画を見ながら説明を聞くことが面白く、不思議だったと思います。また、父親には映画館にもたくさん連れて行ってもらいました。おそらく父親のお陰で、僕が無意識のうちに映画や映画館に対するファンタジーをとてもたくさん持っていたのに、成長していく中でそれに気付けなかったのではないだろうかと思いました。今になって考えてみるとそういうことだったということです。映画館という空間もとても好きでした。まるで映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のトトとアルフレードおじさんのように、僕もまた父親を尊敬して慕っていたと思います。その映画の全体的な情緒のようにです。子どもの頃の映画館を思い返すと、その時はまだ指定席もなく、ただ先着順に入って座れました。さらに、人気のある映画だとチケットが売り切れとなり、立ったまま見たりもしました。するめやピーナッツ、羊羹などのおやつを販売される方も歩き回っていました。僕が4歳のとき、映画「パピヨン」を初めて見ましたが、僕を含め子どもたちは立ったまま映画を見ていて、トイレに行きたくても我慢しました。トイレに行っている間にシーンを逃すことが嫌だったからです。映画館の中には、色んな匂いが混ざっていました。するめやピーナッツの匂い、子どものおしっこの匂い、セメントの匂いなどなどです。チケットを購入して映画館の中に入ると、その匂いが僕の鼻の中に入り、その時から心臓がドキドキしました。「映画が好きなのか、映画館が好きなのか」分からないほどにです。条件反射のようなものだったと思います。子どもの頃、父親は僕にとってヒーローのような存在でした。母親とは全く正反対のイメージでした。僕の母親は、僕がこれから家庭を築く大黒柱であり、長男だったので僕にとても厳しかったんです。父親はそんな僕をいつも優しく包んでくれました。一般的な家庭とは全く逆でした。ハハハ。何も知らない子どもの頃は、父親は正義の味方のヒーローで、母親は悪役のように思っていました。有難いディーン・パリソット監督と愛する家族たち最近公開された「REDリターンズ」の撮影当時、ディーン・パリソット監督がある日僕に「君の子どもの頃の写真が必要だ。父親と一緒に写った写真はないのか」と聞いてきたので、子どもの頃に父親と一緒に撮った写真を監督に送りました。劇中で、ブルース・ウィリスが僕の飛行機に入って、僕の写真を手に取って見るシーンがありますが、その時に使われる写真でした。撮影が忙しかったので、しばらく忘れていました。撮影の最後のほうに、飛行機のセットに何も考えずに入りましたが、僕が監督に送った父親と一緒に撮った写真を見つけました。本当に何かがこみ上げてきました。その時、監督のもとに行き、父親が僕にとってどのような存在だったのかを説明しました。僕は監督に、「先日ハリウッドでハンドプリントをした時、『父親はハリウッドマニアだった。15年前に亡くなり、今は僕のそばにいないが、どこかで僕を誇らしく見守っているはず』と感想を述べた」と言いました。そして、僕は監督にまた「父親の写真が映画に出るなんて本当に感動している」と改めて感謝の気持ちを伝えました。すると、監督は「私は君の話の方がもっと感動的だ。エンドクレジットのスペシャルサンクスに君の父親の名前を入れよう。スペルを教えて欲しい」と言いました。それを聞いて、また感動しました。最近ニューヨークで行われた「REDリターンズ」のプレミア試写会に参加しましたが、監督が父親の名前をエンドクレジットではなく、メイン出演者のタイトルに入れてくれました。僕の名前の直ぐ下に父親の名前が出てきます。本当に、監督には何度も感動されられました。その後、映画の編集が行われ、編集する方が僕と父親が一緒に撮った写真が登場するシーンを削除しようとしました。映画の展開上、そのシーンはいらないと判断したそうです。すると、監督は「他は全部カットしても、あのシーンはダメだ」と強く主張してくださいました。本当に、人間としてもとても素晴らしい方だと思いました。僕以外の人に接する時も常に思いやりがあります。監督のことは、本当に忘れられません。僕に常に厳しく、ぶっきらぼうだった母親も、今回の映画は違ったようです。ブルース・ウィリス、アンソニー・ホプキンス、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレンなど、名前を聞くだけでも伝説レベルの俳優たちと共演したからです。やっと僕がハリウッド俳優になったと実感するようになったそうです。実は、母親は映画「G.I.ジョー」撮影の時に僕が「チャニング・テイタムやシエナ・ミラーと共演してるよ」と言った時は反応が薄かったんです。母親の世代にはあまり知られていないようで。ハハハ。家族も「REDリターンズ」を見ましたが、みんな感動したそうです。母親は目がうるうるしていました。何かこみ上げて来るものがあったそうです。そして、僕に「お父さんも自分の写真がスクリーンに映っているのを見たら、どれだけ喜んだだろうね」と言って、僕の背中を叩いてくれました。最も理想的な俳優観と現実とのズレ最近、後輩のために講義をすることが多くなりました。僕はそのような席が未だに慣れません。そもそも俳優が夢だったわけではなく、体系的に演技を勉強したことがないので、教科書的なアドバイスができませんでした。そこで僕は、僕の経験を基に後輩たちにアドバイスをします。自分の中にまだ少年らしさが残っているのであれば、それを恥ずかしく思ったり、大人になろうと努力してはいけないと。僕は「G.I.ジョー」のスティーヴン・ソマーズ監督の家に何度かお邪魔させてもらったことがあります。監督の個人スペースに、子どもたちが遊べる遊び場が設けられていました。僕は最初は監督のお子さんたちの遊び場だと思いましたが、違いました。そこは監督の遊び場でした。50歳を超える大人にも関わらず、このような遊び場があるというのは、まだ少年らしさを失っていないということです。だからこそ、奇抜でクリエイティブなアイデアが出てくるのだと思います。俳優や監督のようにクリエイティブに働く方々は、自分の中にある少年らしさをなくしたり、恥ずかしく思わないで欲しいです。韓国の文化では、「そろそろ大人になりなさい!」「隣の子はそうじゃないのに、あなたはどうしたの?」と叱る文化です。常に、このように言われながら育った僕の後輩の役者たちは共感できると思います。法律に背かない範囲で道から逸れるということも経験してみて欲しいです。日常から逃れる行為であっても、他人の目にはおかしく見えることでも、一度経験してみて欲しいです。自分の感情の赴くままにすることが重要ですが、韓国の文化は道徳的基準で評価する文化なので、ユニークでクリエイティブな思考で行動するとき、大変なことも多いでしょう。僕もやはり、役者として道徳的なものさしでクリエイティブな思考が制約されるときが一番大変でした。世の中と妥協し、色々と守りながら生きるために努力しますが、後輩には僕が理想とする俳優の姿を見せれるように努力します。僕の長い話を読んでくださったNAVERスターコラムの読者の皆様、ありがとうございます。新しい映画「REDリターンズ」に、たくさんの声援をお願いします。映画の後、僕は8月10日に、賢明で一緒にいるといつも僕を笑顔にしてくれる素敵な女性との人生の新しいスタートを目の前にしています。これからは一家の大黒柱として、俳優としても本業に充実し、良い姿をお見せできるように努力します。そしていつもそうだったように、与えられた仕事に最善を尽くして、さらに良い姿で戻ってきます。文:イ・ビョンホン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。
【スターコラム】イ・ビョンホン、七転び八起きのハリウッド挑戦記 ― Vol.1
40を超えても年齢を感じさせないハンサムな容姿と体つき、魅力的な笑顔や声まで完璧な男イ・ビョンホン。ビョン様と呼ばれアジア圏を代表する韓流俳優となったイ・ビョンホンがついにNAVERスターコラムを連載する。フィアンセの女優イ・ミンジョンとの結婚を控えており、ハリウッドでの3番目の作品「REDリターンズ」の公開を前にしている中でも20年余りの俳優人生やハリウッド進出の物語を自ら作成してくれた。Vol.1ではハリウッド進出や適応について語り、Vol.2ではイ・ビョンホン自身の人間的な姿を加減なく心を込めて綴る。/編集者NAVER スターコラム:イ・ビョンホンハリウッドの道を開いてくれた「甘い人生」僕のハリウッド挑戦は2005年から始まりました。その年僕が出演した映画「甘い人生」(監督:キム・ジウン)がカンヌ映画祭の非コンペティション部門で上映され、激賞を受けました。聞いたところでは、2005年カンヌ映画祭当時アメリカ最大のエージェント会社であるCAA所属のエージェントの相当数が僕の映画「甘い人生」を見たそうです。「甘い人生」の中の僕の姿が彼らに強烈な印象を残したのか、CAAと契約することになりました。CAAはご存知かと思いますが、アメリカのハリウッド最高のエージェンシーで、音楽、映画、テレビ、スポーツ分野等で世界トップのスターやセレブリティのエージェントを務めている会社です。その分野で最高だと認められている人々だったので、自身のことを任せてもいいと確信できました。2年間待った末に選択したハリウッドデビュー作「G.I.ジョー」エージェントが出来て、ハリウッドからいくつかの作品のオファーを受けました。ハリウッドデビューをもっと早めることも出来ましたが、作品の選択には慎重を期しました。スタートが良くなければならないと思って。シナリオを見て「これはない」と思った作品がほとんどでした。結局2年という歳月が過ぎました。その頃、「G.I.ジョー」という作品のオファーを受け検討しました。最初の数ページをめくって「これはダメだ」と思いました。子供の頃、僕はG.I.ジョーのフィギュアを持って遊んだ人でもなく、作品に対する基本的な背景知識がありませんでした。アメリカでは伝説とされる漫画だといいますが、僕はそういうことを知らなかったので「なぜこのような作品に僕を?」と思って読むのを止めました。アメリカのマネージャーにも「なぜこんなオファーばっかりなの?」と愚痴をこぼしました。するとアメリカのマネージャーやエージェント、そして現地に住んでいる友達が僕に「G.I.ジョー」は本当に重要な作品であり、ぜひやったほうがいいと漫画に対するヒストリーを話してくれました。老若男女を問わず国民から愛される漫画だと強調しました。その時「トランスフォーマー」という作品がものすごい人気を得ていましたが、それもコミックから始まったと話してくれました。彼らはまた僕に「君が演じるストームシャドウはスネークアイズとともに最も人気あるキャラクターの一つだ」と何度も強調しました。その瞬間、僕は深く悩まざるを得ませんでした。「G.I.ジョー」出演決定後の後悔、そして決断僕は作品を選択する時、名分を大切に考えます。例えば、その作品の監督が以前から一緒に働きたいと思っていた方だとか、好きなジャンル、ストーリーが魅力的なケースがほとんどです。しかし、「G.I.ジョー」は3つの名分を満たしてくれませんでした。アメリカ現地のスタッフが積極的に推薦はしましたが「この作品ではない」と思われて悩みました。アメリカのエージェントと契約して長い時間が経っていたため、韓国にも何かを見せなければならない時期になっていました。おそらく韓国でシナリオを選べる立場に慣れていたようです。しかし、ハリウッドは韓国とは違って、新人の姿勢でチャレンジしなければならなかったので、考え方を変えました。韓国でのようにシナリオを選べるようになる過程だと思いました。なぜなら「G.I.ジョー」がその年の公開予定作の中で最も予算が多い映画であって、ものすごい大作だったので、世界的にリリースされるという確信がありました。僕の顔を知らせる上でこれ以上いい映画はないとも思いました。「よし、僕が後で作品を選べるようになるいい過程だ」と心を決めて出演の契約を結びました。「グッド・バッド・ウィアード」の撮影を終え、すぐに空港に行ってアメリカに向かいました。現地で劇中の衣装を着てみたら、全体的にホワイトのトーンに顔に覆面までかぶり目だけ僅かに出ていて「僕は今ここで何をしているんだろう」と思いました。漫画のような衣装にがっかりしたのです。衣装倉庫から出てアメリカのマネージャーに「監督とプロデューサーに本当に申し訳ないと謝罪して、韓国に戻る」と話した。そしてホテルに向かいましたが、頭の中が複雑になって眠れませんでした。「アメリカの人々は契約を重視すると聞いたけど覆すことができるだろうか」と悩みに悩んで結論を下しました。とにかく自身が決めたことであって、後で映画に出演しなかったことで後悔するかもしれないと思いました。「よし、後で結果的に批評を受け後悔したとしても経験してみよう」と決心し、監督とプロデューサーとのミーティングをキャンセルし、すぐに撮影場に向かいました。予想より大変だったハリウッド適応期撮影が始まり、僕は現地で僕に対するある程度の偏見があるだろうと思っていました。東洋出身の俳優に送る反応があるじゃないですか。僕にもジェット・リーやジャッキー・チェンのように「東洋から来た武術家」という視線を送られました。武術シーンを撮影して、覆面の中の眼差し演技、そして覆面を脱いで苦しむシーンを撮る時にカメラ監督が「カット」を叫び微笑んでいました。そして僕にいつも「オオ~ムービースター」と言いました。おそらく「韓国で武術をしていた人が演技もしているじゃん」というニュアンスだったと思います。僕も韓国では有名な俳優ですけどね。ハハ。でも気分が悪くはありませんでした。その代わり、早く僕の存在感を彼らに植えつけたかったです。撮影が回を重ねるにつれ、彼らは段々僕に対して満足していきました。自分たちが思っていた以上の演技力を見せたためです。「東洋人の俳優はいつも武術をしなければならないのか」という質問もたくさん受けますが、かえってプライドを持てます。演技に加え、彼らにない武術まで備えているためです。現地のスタッフからとても羨やましがられます。僕は両方ともできますから。ハリウッドでは新人なので撮影がない日にも現場に行って待機する日がたくさんありました。また、ハリウッドのトップ俳優を担当するヘア、メイク、衣装担当者も異なりました。僕にはチームの末っ子のアシスタントが割り当てられました。いつシーンを撮影するか分からないのでトレーラーで12時間待たされたこともありました。助監督がその度に申し訳なく思われていました。僕も新しくスタートする気持ちでこの雰囲気を楽しもうと心に決めました。「G.I.ジョー」俳優と制作チームと飲み会をしたことがありますが、劇の役柄上、身体を作らなければならなかったので、魚や鳥の胸肉を頼みました。他の人々はワインや美味しい食べ物を食べました。好きだけど、カロリーが高く避けていた食べ物でした。僕は結局誘惑に負けてはならないと思って、アメリカのマネージャーとホテルに帰ろうと席を立ちました。レストランから出ようとしましたが、たくさんのパパラッチが待っていました。チャニング・テイタムやシエナ・ミラーなど有名俳優がレストランにいたためです。「わあ、パパラッチはこんなものなのか」と不思議に思いました。僕は入り口で鏡を見て着崩れを整えてヘアをチェックしました。写真を撮られることに備えたのです。しかし、僕の予想とは違ってパパラッチたちが僕を見てモーゼの奇跡の海が裂けるように道が作られました。恥ずかしかったです。新しい経験でした。今もアメリカの道では僕を分かってもらえません。100人に1人くらいの割合で「君、『G.I.ジョー』に出ただろう」と言ってくれます。しかし、不思議なのは韓国映画マニアが半分で「G.I.ジョー」ファンが半分です。韓国映画も「甘い人生」よりは「悪魔を見た」という作品で分かっていただきます。その作品のほうがインパクトがあったようです。取り戻した韓流スターの位置づけ、ハリウッドで変わった位置づけ「G.I.ジョー」の撮影が終わって日本にプロモーションに行くと言われました。しかし、韓国には行かないと言われ、僕は「とんでもない」と反対しました。そして「韓国にいかなかったら、日本にもいかない」と強気を言いました。監督とプロデューサーは僕が日本で人気があることを知っていました。彼らは僕が日本に行かなければならないことをとてもよく知っていました。結局彼らは僕に説得され韓国行きを決定しました。僕はスティーヴン・ソマーズ監督とシエナ・ミラー等と日本と韓国のプレミアムイベントに参加しました。彼らは日本と韓国の空港を埋め尽くした僕のファンと取材陣の熱気にびっくりしました。僕に「マイケル・ジャクソンやエルビス・プレスリーと一緒に歩いている気分だ」と話してくれました。シエナ・ミラーとソマーズ監督は僕の人気がここまでだとは思わなかったので、ほぼパニック状態でした。あまりにも僕のファンばかりが来ていて、申し訳ない気持ちまでしました。それ以来、僕への視線が変わりました。LAとは全く異なる雰囲気でした。僕はその状況を楽しみました。結局『G.I.ジョー バック2リベンジ』の出演が決まり、撮影場にいくと、僕への待遇が変わっていました。第2弾になって現場のスタッフが変わっていましたが、噂が立ったみたいでした。僕とドウェイン・ジョンソンが一番いいトレーラーをもらいました。「僕のチケットパワーを意識しているなぁ」と、そして「僕が人気がなくなったり、チケットパワーが以前より弱くなると状況はまた変わるかもしれない」思いました。流暢な英語?まだ現在進行形僕について英語が流暢だから成功したという分析も多いですが、実は今も難しく思います。早口だったり難しいことを言うとまだまだ聞き取れません。実は英語をどうやって勉強したのかと質問を受けますが、18歳ごろ江南(カンナム)駅近所の英語塾で学んだ以外は専門的な教育は受けていません。直接現地でぶつかって身につけました。アメリカにミーティングに行く度に、自分で英語で話そうと努力しました。少しずつ使うために覚えたのではなく自然と相手とぶつかって得た結果です。とにかく余裕を持てるようになりました。最初は硬直して先に近づくことができなかったのですが、今は先に挨拶して聞き取れなくても何とかして溶け込もうとします。会話を聞いて合いの手を入れたりもします。「僕は少し余裕ができたなぁ」と感じます。「G.I.ジョー」の最初の読みあわせの時は、他の人が本当に大きな声で言っていて緊張しました。肝心の僕の台詞も逃しちゃって。ハハ。何事も心の持ち様が重要だと思います。長文になってしましましたね。Vol.2では新作映画「REDリターンズ」と僕についてもう少し詳しく書いてみます ^^それでは、また会いましょう。文:イ・ビョンホン「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。