「視線」イ・ジャンホ監督“世界を見る視線が変わってから制作した、もう一つのデビュー作”
映画「星たちの故郷」(1974年)、「風吹く良き日」(1980年)、「馬鹿宣言」(1988年)などの作品で80年代に高い人気を誇ったイ・ジャンホ監督。彼が映画「視線」を引っ下げて19年ぶりに帰ってきた。
「視線」は海外で宣教中に拉致され、生死の岐路に立たされた9人の韓国人の葛藤と衝撃的な状況をリアルに描いている。含みのあるタイトルについてイ・ジャンホ監督は「何より、私自身の視線が変わりました。以前制作した映画とは異なる視線で世界や人々を見るようになってから作った最初の作品ですのでデビュー作とも言えます。だからそれを象徴するようにタイトルを『視線』にしようと考えました」と説明した。
「最初はいくつかのタイトル候補がありましたが、どれも気に入りませんでした。そうするうちに、私が尊敬する牧師が説経の中で『視線』という言葉を強調したのです。私たちはほとんどの場合イエス様を正面から眺めていますが、牧師が十字架に縛られたイエス様を画家が上から見下ろして描いた絵を見せてくれました。それは非常にユニークでした。“上から見下ろした視線”、つまり“神が見下ろす視線ということか”と思いました」
「最初にクリスチャンの俳優を探した理由は、役のためというよりも非常に低予算で作るため俳優がギャラやその他いくつかの部分を犠牲にしなければならない状況だったのです。クリスチャンなら使命感を持って出演してくれるのではないかと思いました。ところが、演技面やその他色々な面で適した俳優がいませんでした。そこで最初に念頭に置いていたオ・グァンロクにお願いしました。『予算が少ない』と伝えましたが、彼はお金のことは考えずに受諾してくれました」
「視線」でオ・グァンロクは、これまで培ってきた演技の貫禄と年輪の全てを凝縮させ、観客の心を圧倒する演技を披露した。海外宣教に来た信者から小銭を騙し取って暮らす似非宣教師だが、決定的な瞬間に神からの召しを受け、殉教する人物だ。夢の中で幻影のように神と会うシーンの演技は、実際に彼が敬虔なクリスチャンではないかと思ってしまうほど強烈だった。
「私はすっかり彼に惚れてしまいました。私があまりにもオ・グァンロクを称賛するので他の俳優たちに少し申し訳ない気持ちもありましたが、オ・グァンロクには本当に感謝しています。俳優を称賛することは初めてです。生まれて初めて俳優を尊敬しました」
イ・ジャンホ監督は「視線」が終わった後すぐ次回作の準備に入った。19年という空白を破り、異なる視線を持った監督として生まれ変わった彼は「視線」のマスコミ向け試写会で、今後精力的に活動すると意気込みを見せた。次回作はベトナムのボートピープル(難民)を救った韓国人船長の話を描いた映画「96.5」だ。イ・ジャンホ監督は「シナリオは第6次修正に入ったが、制作費があまりにも巨額なので痛みも覚悟している」と話した。
「『視線』の公開後、周りにこれからはレベルの高い俳優を使えばいいと言われますが、私はオ・グァンロクには十分主演俳優としての資格があると思っています。世の中は成功した人ばかりを歓迎し、成功の可能性がある人に対しては冷たいようです。俳優が自ら観客に愛される俳優になることも重要だと思います。まだ次回作のキャスティングについては悩んでいます」
「ナム・ドンハとの縁は特別です。私が作品を作ることができずスランプに陥っていた時、お酒に酔って代行運転を頼んだことがあるのですが、その時代行運転のアルバイトをしていた彼が私が誰なのか気付き、話を交わしました。何をしているのかと聞くと『演劇です』と答えました。その時、急に胸が締め付けられました。『いついつにプロフィールを持ってきなさい』と言うと、次の日にプロフィールと自分で書いたシナリオも持って来ました。
ですが、言葉だけでそのまま10年が経ちました。彼が書いたシナリオは常に私の机の上にあり、気にかけていました。そうした中、今回映画を作ることになって連絡をしました。ちょうど彼は『イエスと一緒にした夕飯』という演劇をしていました。彼はクリスチャンだったし、牧師役を任せることにしました。思っていたよりも素晴らしい演技を見せてくれたので周りから『実際の牧師をキャスティングしたのか』とよく聞かれました。彼にはこの作品を通じてもっと顔を広げ、成功してほしいです」
「今回の映画の最大のメッセージです。牧師は殉教しようとしましたが、信徒たちの命を救うためには背教を選択するしかなかったのです。逆に、背教して生き残った似非宣教師は、最後は牧師の命を救って壮絶な殉教を迎えます。ここから始めて話を作っていきました。
この映画のモチーフになった遠藤周作の『沈黙』という小説を読むと、日本の開化期に布教していたポルトガルの神父が悪徳藩主に捕まります。神父が布教した日本の信者たちを潮が満ちてくる海辺に逆さに吊るして死を迎えるようにした悪徳藩主は『愛の宗教だと言っていたが、君の目の前に見えるのは愛か』と言いながら背教を強要します。
神父は信者たちを助けるために背教を選びました。このことが教皇庁に報告され、彼は破門されます。神父の資格を剥奪されたのです。しかし彼ははずっとカトリック教の伝道を続けます。結論的に言うと、教皇庁が彼を破門したのは人間の視線だと思います。神の視線は彼が破門された後も見つめているのです。彼が神父や聖職者などの地位とは関係なく、引き続きカトリック教を広めていることが神の視線です。
初代教会の時にイエス・キリストを信じることは死を選ぶようなものでしたが、今私たちは平和な時代に生き、とても快適に信仰生活を送っています。一部の教会はしきりに勢力を拡大して物質的なもので固めていますが、反省しなければなりません。そしてクリスチャンの中でもイスラム地域に宣教に行った人々を見て“何故無駄な苦労をするの”と言う方もいますが、このような見方も反省しなければならないと思います。クリスチャンでない人たちもこの映画を通じて自分の中に隠れている魂の問題、魂の響きを再発見できればと思います」
「視線」は海外で宣教中に拉致され、生死の岐路に立たされた9人の韓国人の葛藤と衝撃的な状況をリアルに描いている。含みのあるタイトルについてイ・ジャンホ監督は「何より、私自身の視線が変わりました。以前制作した映画とは異なる視線で世界や人々を見るようになってから作った最初の作品ですのでデビュー作とも言えます。だからそれを象徴するようにタイトルを『視線』にしようと考えました」と説明した。
「最初はいくつかのタイトル候補がありましたが、どれも気に入りませんでした。そうするうちに、私が尊敬する牧師が説経の中で『視線』という言葉を強調したのです。私たちはほとんどの場合イエス様を正面から眺めていますが、牧師が十字架に縛られたイエス様を画家が上から見下ろして描いた絵を見せてくれました。それは非常にユニークでした。“上から見下ろした視線”、つまり“神が見下ろす視線ということか”と思いました」
「オ・グァンロクを見て、生まれて初めて俳優を尊敬しました」
実際にも敬虔なクリスチャンであるイ・ジャンホ監督は、「視線」の男性主人公で似非宣教師のチョ・ヨハン役を演じる俳優としてクリスチャンを探していた。しかし、キャスティングは上手くいかず、最終的にクリスチャンではない俳優のオ・グァンロクにラブコールを送った。従って「視線」は、半分はクリスチャン、もう半分はノンクリスチャンが一緒に作った作品だ。「最初にクリスチャンの俳優を探した理由は、役のためというよりも非常に低予算で作るため俳優がギャラやその他いくつかの部分を犠牲にしなければならない状況だったのです。クリスチャンなら使命感を持って出演してくれるのではないかと思いました。ところが、演技面やその他色々な面で適した俳優がいませんでした。そこで最初に念頭に置いていたオ・グァンロクにお願いしました。『予算が少ない』と伝えましたが、彼はお金のことは考えずに受諾してくれました」
「視線」でオ・グァンロクは、これまで培ってきた演技の貫禄と年輪の全てを凝縮させ、観客の心を圧倒する演技を披露した。海外宣教に来た信者から小銭を騙し取って暮らす似非宣教師だが、決定的な瞬間に神からの召しを受け、殉教する人物だ。夢の中で幻影のように神と会うシーンの演技は、実際に彼が敬虔なクリスチャンではないかと思ってしまうほど強烈だった。
「私はすっかり彼に惚れてしまいました。私があまりにもオ・グァンロクを称賛するので他の俳優たちに少し申し訳ない気持ちもありましたが、オ・グァンロクには本当に感謝しています。俳優を称賛することは初めてです。生まれて初めて俳優を尊敬しました」
イ・ジャンホ監督は「視線」が終わった後すぐ次回作の準備に入った。19年という空白を破り、異なる視線を持った監督として生まれ変わった彼は「視線」のマスコミ向け試写会で、今後精力的に活動すると意気込みを見せた。次回作はベトナムのボートピープル(難民)を救った韓国人船長の話を描いた映画「96.5」だ。イ・ジャンホ監督は「シナリオは第6次修正に入ったが、制作費があまりにも巨額なので痛みも覚悟している」と話した。
「『視線』の公開後、周りにこれからはレベルの高い俳優を使えばいいと言われますが、私はオ・グァンロクには十分主演俳優としての資格があると思っています。世の中は成功した人ばかりを歓迎し、成功の可能性がある人に対しては冷たいようです。俳優が自ら観客に愛される俳優になることも重要だと思います。まだ次回作のキャスティングについては悩んでいます」
写真=KROSS PICTURES
「視線」で牧師役を演じた俳優ナム・ドンハへの関心も高まっている。彼は劇中で優しいカリスマ性で危機的瞬間に信者たちを導く役を演じた。実際に牧師ではないかと思わせるほど役にぴったり合い、立派な演技を披露した彼の顔は韓国の映画界ではまだあまり知られていない。「ナム・ドンハとの縁は特別です。私が作品を作ることができずスランプに陥っていた時、お酒に酔って代行運転を頼んだことがあるのですが、その時代行運転のアルバイトをしていた彼が私が誰なのか気付き、話を交わしました。何をしているのかと聞くと『演劇です』と答えました。その時、急に胸が締め付けられました。『いついつにプロフィールを持ってきなさい』と言うと、次の日にプロフィールと自分で書いたシナリオも持って来ました。
ですが、言葉だけでそのまま10年が経ちました。彼が書いたシナリオは常に私の机の上にあり、気にかけていました。そうした中、今回映画を作ることになって連絡をしました。ちょうど彼は『イエスと一緒にした夕飯』という演劇をしていました。彼はクリスチャンだったし、牧師役を任せることにしました。思っていたよりも素晴らしい演技を見せてくれたので周りから『実際の牧師をキャスティングしたのか』とよく聞かれました。彼にはこの作品を通じてもっと顔を広げ、成功してほしいです」
「教会の規模を拡大し、物質的なもので固める教会…反省しなければ」
劇中で海外の宣教団はイスラム教の神アッラーに仕える武装グループに拉致され、背教しなければ殺される絶体絶命の危機を迎える。似非宣教師役のオ・グァンロクは牧師に向かって「殉教するよりもっと神聖な背教もあることを考えてみてください」と言って微笑む。本人は殉教を選んだが、海外宣教団の命を救うため聖なる背教を選択せよということだった。この映画が伝えようとするメッセージがオ・グァンロクのこのセリフに凝縮されている。「今回の映画の最大のメッセージです。牧師は殉教しようとしましたが、信徒たちの命を救うためには背教を選択するしかなかったのです。逆に、背教して生き残った似非宣教師は、最後は牧師の命を救って壮絶な殉教を迎えます。ここから始めて話を作っていきました。
この映画のモチーフになった遠藤周作の『沈黙』という小説を読むと、日本の開化期に布教していたポルトガルの神父が悪徳藩主に捕まります。神父が布教した日本の信者たちを潮が満ちてくる海辺に逆さに吊るして死を迎えるようにした悪徳藩主は『愛の宗教だと言っていたが、君の目の前に見えるのは愛か』と言いながら背教を強要します。
神父は信者たちを助けるために背教を選びました。このことが教皇庁に報告され、彼は破門されます。神父の資格を剥奪されたのです。しかし彼ははずっとカトリック教の伝道を続けます。結論的に言うと、教皇庁が彼を破門したのは人間の視線だと思います。神の視線は彼が破門された後も見つめているのです。彼が神父や聖職者などの地位とは関係なく、引き続きカトリック教を広めていることが神の視線です。
初代教会の時にイエス・キリストを信じることは死を選ぶようなものでしたが、今私たちは平和な時代に生き、とても快適に信仰生活を送っています。一部の教会はしきりに勢力を拡大して物質的なもので固めていますが、反省しなければなりません。そしてクリスチャンの中でもイスラム地域に宣教に行った人々を見て“何故無駄な苦労をするの”と言う方もいますが、このような見方も反省しなければならないと思います。クリスチャンでない人たちもこの映画を通じて自分の中に隠れている魂の問題、魂の響きを再発見できればと思います」
- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- チョ・ギョンイ
topics