Hitchhiker、SMエンターテインメントの作曲家がHitchhikerになるまで
SMエンターテインメントの作曲家として活躍していたが、最近「ELEVEN」という少し荒唐無稽な曲を発表したHitchhiker(本名:チェ・ジヌ)。彼は複雑な音楽履歴を持っている。1996年ソロ歌手としてデビューし、その夏リリースした「突飛な想像」で話題を集めた。その後、チョ・ウォンソン、イ・サンスンと共に結成した3人組のバンドRoller Coasterで人気を博した。一時期、歌手イ・スンファンの無敵バンドでユ・ヒヨルと共に演奏者として活躍した。その後、音楽をやめようとした時、偶然の機会でBrown Eyed Girlsのために作った「Abracadabra」がヒットしながら彼はアイドルグループのヒットメーカー作曲家に変身した。一般的な商業作曲家たちとは違うリーグで戦ってきた彼の斬新な曲は、韓国アイドルグループの音楽を一段階レベルアップさせたと評価されている。
Hitchhikerはアーティストとしての本能を隠せず、再び自分のためのソロプロジェクトを開始した。そして、誰もが予想しなかった奇怪な曲「ELEVEN」をリリースした。この曲はこれまでのHitchhikerが手がけてきた音楽とはまったく関係ない第3の音楽だ。ある観点から見ると、Hitchhikerの複雑な履歴が反映された結果と言ってもいいだろう。
Hitchhiker:当時、僕が漫画のキャラクターで登場したのは、イ・スンファン兄さんのアイデアだった。当時、除隊して1ヶ月しか経ってない時だったので、何も考えてない状態だった。ミュージックビデオの撮影の時もイ・スンファン兄さんの指示に従った。
―イ・スンファンを通じて正式にデビューしたのか?
Hitchhiker:中学生の時からバンドを始めた。“戦士”“カクシタル”などのバンドを結成し、1991年には日本で開かれた大学生音楽フェスティバルに参加してギタリストとして賞も頂いた。海軍の広報団でユ・ヒヨルと出会い、ユ・ヒヨルの紹介でイ・スンファン兄さんと知り合いになった。軍隊で30曲くらいを作った。その中で当時、人気を博していたDJ DOCに売りたかった曲があった。それが「突飛な想像」だった。
―本人が歌うために作った曲ではなかったのか?
Hitchhiker:実は、イ・スンファン兄さんに会ったら「突飛な想像」を聞かせた後、DJ DOCを紹介してほしいとお願いしようとした。ユ・ヒヨルと一緒に軍隊から休暇をもらい、あるカフェの駐車場でイ・スンファン兄さんに密かに会った。30曲が収録された90分のカセットテープを渡したが、イ・スンファン兄さんがその場で全曲を聞いた。その後、僕にいつ除隊するのかを聞き、この曲を一緒に作業してみないかと誘われた。僕は当惑した。
―そのようなきっかけでデビューするようになったのか?
Hitchhiker:その時が26歳だった。デビューするには遅れた感じがあったけど、できないことでもなかった。そのように1stアルバムがリリースされ、「突飛な想像」が話題になったけど、アルバムの売上げは良くなかった。
―イ・スンファンもジヌの1stと2ndアルバムの売り上げが低かったことを残念に思っていた。
Hitchhiker:だから、イ・スンファン兄さんに申し訳なかった。かなりお金をかけたアルバムだったので。イ・スンファン兄さんがドリームファクトリーのスタジオを設立したのも僕のアルバムを出すためだった。本当に申し訳なくて、条件なしにアルバムをもう一枚作ることにした。だから、2枚目のアルバムを作った時は、できる限りお金を使わないためにワンマンバンドで録音した。録音室に誰もいない時間にそこで寝泊りしながら作曲に没頭した。結局、2枚目のアルバムも上手くいかなかったが、その作業をしながら一人で音楽作業をすることに大きな魅力を感じた。共同作業をする時は、お互いの意見を調律しなければならなかったが、一人で楽器を演奏して音楽編集ソフトで曲を作りながら、未熟な部分もあったが、自分だけの音楽を作ることができた。だから、その後はホームレコーディング方法でRoller Coasterのアルバムを作った。
―Roller Coasterは1stアルバムから5thアルバムまで、毎回違うスタイルの曲を披露した。今のようなエレクトロポップを試みたのは「Last Scene」が収録された3枚目のアルバム「Absolute」からだった。
Hitchhiker:そうだ。そのアルバムがRoller Coasterのアルバムの中で一番上手くいった。10万枚が売れ、当時のバンドの中では良い成績だった。だけどその後、Roller Coasterの音楽がだんだん複雑になった。意欲が湧いて、もっとカッコいい音楽を作ろうとしたけど、大衆と遠くなってしまった。
―4thアルバムのタイトル曲「虹」も1~3枚目のアルバムに比べて難しい感じだった。
Hitchhiker:ハハ、その歌はヒット曲を出すために作った曲だったけど……
―ヒットメーカー作曲家としてのセンスはなかったようだ。
Hitchhiker:その通りだ。センスがまったくなかった(笑)
―Roller Coasterの解散後、クラブのDJに変身した。バンド音楽をしていた人が電子音楽をするのは簡単なことではなかったと思うが、何かのきっかけがあったのか?
Hitchhiker:すべてのミュージシャンがそうだと思うが、自分がしている領域に対して少しずつ魅力を失っていく。バンド音楽に対する魅力を徐々に失い、飽きてしまった。その時、突破口となったのが電子音楽だった。この音楽はメンバー同士で妥協しなければならないバンドとは違い、すべて自分の思い通りに作れるのが魅力的だった。初めてDJを始めたのはRoller Coasterの活動をしていた2000年度だった。弘大(ホンデ)の“108”というクラブに行った時、DJバンディが流したMOJOの「Lady」とMolokoの「Sing It Back」を聞いて夢中になって踊った。その時DJをやってみたいと思った。当時、ダルパラン(Dalparan)もDJをやっていた。実は初めてホームレコーディング始めたのは僕ではなく、ダルパラン兄さんだった。ピピバンドの2枚目のアルバムがホームレコーディング作業で作られ、僕はそれを見て刺激を受けた。ダルパランは僕が尊敬する先輩であると同時にロールモデルだった。
―2006年にはオム・ジョンファのアルバム「Prestige」のプロデューサーを務めた。このアルバムは「韓国大衆音楽賞」を受賞しており、オム・ジョンファのアルバムの中でも最も優れた作品として評価された。
Hitchhiker:そのアルバムは僕が再びプロデューサーに復帰したアルバムだった。ある日、オム・ジョンファ姉さんから「ジヌ、私、アルバムを出さなければならないの、あなたに作ってほしいの!」と電話が来た。姉さんはその時までたくさんのヒット曲を出していた。音楽的にも優れていて、意味深いアルバムを作りたがっていた。姉さんとほとんど一緒に作詞、作曲したアルバムだった。僕が曲を作ると、姉さんが自分に似合う曲に変えたり、僕がメロディーが浮かばない時は、姉さんが作ったりした。
―その後、Brown Eyed Girlsの「Abracadabra」が大ヒットした。
Hitchhiker:実はその曲を発表するまでのエピソードがある。当時、僕は結婚して子供が生まれた。でも、音楽をやっていたから収入が一定ではなかった。経済的に困難を抱えて、結局は音楽を止めると決心した。それで、パソコンにある音楽関連のソフトウェアを全部削除して、ハードをフォーマットしようとした瞬間、電話が来た。Brown Eyed Girlsの所属事務所であるNEGAネットワークからで、「How Come」という曲をリミックスしてほしいという要請だった。それで、曲をリミックスして送ったら、曲が気に入ったから新曲も作ってほしいという連絡が再び来た。少し悩んでから、僕がクラブDJをやっていた時代にかけたトラックを1曲送った。それが「Abracadabra」のトラックだった。
―「Abracadabra」は実はガールズグループにあげるために作ったトラックではなかったというわけだ。
Hitchhiker:トラックが気に入ったからタイトル曲にするという連絡が来た。それで、少し心配になった。大衆的な感覚とかけ離れた僕が聞いてもこれはヒットする曲じゃなかったからだ。ガールズグループが“ディープハウス”をするなんて話にならないと思った。実は僕が初めて送ったトラックにはリフレイン(繰り返し部分)がなかった。それで、僕にリフレインを作ってほしいという要請が来たが、どうやっても大衆的なメロディが出なかった。それで、NEGAネットワーク側からイ・ミンス作曲家にリフレインを任せたらどうかという電話が来た。その時は他人が僕の曲に手を出すのが気に入らなかった。それで「そのつもりなら、曲自体を使わないでほしい」と言おうと思ったが、当時赤ちゃんだった娘がソファーでちょうど泣き出した。それで、僕は「勝手にしてください」と言ってすぐ電話を切って慌てて娘のところに行った。そのおかげでイ・ミンス作曲家がサビの部分を作って、キム・イナ作詞家が歌詞を書いて、「Abracadabra」が誕生した。
―そのように誕生した「Abracadabra」は、韓国のアイドル音楽も“ウェルメイド(完成度が高く上質な)音楽”が可能だということを見せてくれた試金石のような曲として評価されている。
Hitchhiker:当時、NEGAネットワークのプロダクションチームだったチョ・ヨンチョルプロデューサー、イ・ミンス作曲家、キム・イナ作詞家の大衆的なセンスが良かったと思う。僕は本当に何も知らなかったし、前に作っておいた音楽を渡しただけだった。僕はあの時、「Gee」が少女時代の曲であることすら知らなかった。「Abracadabra」の初放送を見たが、サウンドは僕が思ったのと違って、反応もいまいちのように見えた。それでタバコを吸いながら「僕の最後の音楽作業はこのように終わってしまう。僕は本当に運がない。早くハードをフォーマットしよう」と心で嘆いた。だが、妻がインターネットの掲示板で大騷ぎになっていると教えてくれた。そして、実際に大騒ぎになっていた。
―以前、味わったことのないヒット曲の味だったのだろう。
Hitchhiker:その通りだ。「音楽性が良い」「マニアが多い」と言われたことはあるが、多くの大衆が知っているヒット曲は持っていなかったから。
―その後、アイドルグループの作曲家に変身した。
Hitchhiker:「Abracadabra」の作業をしながら、以前僕が作業したエレクトロの曲が歌謡になれることに気づいた。僕の中に音楽的なエネルギーが再び生まれ始めて、僕のトラックを売るために色んな企画事務所に電話をかけた。SMにも電話をかけた。ちなみに、代表番号だった(笑) 色々あって、今はグループ長である当時のイ・ソンスA&Rチーム長に連絡が繋がった。曲を提供したいと話したら、すぐに会おうと言われた。その場に5曲を持って行ったが、彼はじっと座って全曲を聞いてから全曲とも使いたいとおっしゃった。イ・ソンスチーム長は僕がRoller Coasterの時に作った「習慣」「力を出してください、ミスターキム」のような音楽を持ってくると予想したのに、僕が持ってきた音楽がその予想と違ったのだ。その時、持っていったのが少女時代の「Show!Show!Show!」、東方神起の「I don't know」、f(x)の「アイスクリーム」、Infiniteの「Come back again」などだった。その後、YGなど様々な会社と作業を行ったが、SMが一番積極的に僕の曲を使ってくれた。また、SMを通じて海外の作曲家とも共同作業をたくさん行った。
―Hitchhikerという名前を使うようになったきっかけは?
Hitchhiker:「Abracadabra」を作業していた時に作った名前だ。当時は少女時代やBIGBANGのリミックス作業を同時に行っていたが、彼らはすでに有名なスターで、僕が彼らを創造したわけではない事実について考えた。僕はまるで成功してうまくいっている人たちの車に乗り込む便乗者のような気がした。それで、僕はHitchhikerのようだと思った。
―今は彼らの音楽やイメージを創造することに一役買っている。また、Hitchhikerの音楽はアイドルグループが試みる音楽の範囲を広げたと評価されている。
Hitchhiker:僕が以前から好きだったスタイルの音楽を作っているからそう思われていると思う。僕が以前からやっていた音楽をアイドルの音楽に組み合わせられたのは、SMと一緒に働いたから可能なことだったと思う。実は僕のデモ曲をいくつかの会社に渡したが、それを使うと話した会社はSMしかなかった。他の会社からは僕の曲が難しいと言われた。
―作業する時にイ・スマン代表プロデューサーから注文を受ける場合もあるのか?
Hitchhiker:直接意見を交わすことはないが、A&Rのスタッフを通じて作業の方向性について共有している。イ・スマン代表はSMから出る全ての音楽や公演について意見をくれる。実際に音楽を全部聞いて歌詞の一言にも気を使う。単なる制作者ではなく、本当に総括プロデューサーとしての役割を果たしている。
―SMの音楽は他のアイドルの企画事務所と比べた時、一般的なヒット公式を追うよりも、作品的な面に非常に気を使っているようにみえる。音楽を芸術的に作ることがヒットに繋がるわけでもないのにだ。そのような面ではSMの路線が確実に見える。
Hitchhiker:珍しいものを試みようという考えがSMの作業のもとにあると思う。僕はデモを作ったら、会社のスタッフに聞かせる。その後、その曲を東方神起やf(x)などどのグループにあげるかを決めて、色んな意見を交わすが、会社のスタッフが僕に大衆的なコードを望んだことは一度もない。他の会社とは正反対だ。他の企画事務所の場合、「大衆性がない」「フックがなくて困る」のようなことをよく言う。でもSMの場合、音楽的な完成度を非常に重視する。それはサウンドや歌詞の完成度が自社のミュージシャンのクオリティに繋がるということを知っているからだ。
―本来はギタリストとして出発した。だが、初めてRoller Coasterを結成した時、イ・サンスンがギターを弾く姿を見て魅了されて、自分はベースに転向したと聞いた。
Hitchhiker:その通りだ。サンスンをギタリストにして僕はベースを弾くと話したら、周りの皆がおかしいという反応を見せた。本当にたくさん練習した。僕の2ndソロアルバムのジャケットに見たら、フェンダー・テレキャスターのビンテージモデルを持っているが、そのギターを楽園商街(ナグォンサンガ)に持っていってベースに変えた。そのベースは今もSMの作業を行う時に使っている。僕は自分が作った曲は全て自分でギター、ベース、シンセサイザーを演奏する。
- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- 記者:クォン・ソクジョン、写真提供:Hitchhiker、翻訳:チェ・ユンジョン、ナ・ウンジョン
topics