【CLOSE UP】カン・ドンウォン ― 勝つために楽しみ始めた
“目立つ”それはスターにとって最大の長所である。しかし、登場した瞬間に人々の視線を集めてしまうカン・ドンウォンにとって、それは一種の束縛だった。頑固で血の気の多いの青年イ・ジェインを演じたMBC「1%の奇跡」でも、ひねくれた野心家チャ・カンジェに扮したSBS「マジック」でも、視聴者にとって最も重要なのはカン・ドンウォンの外見だった。何も考えず、シナリオを読んだだけで出演を決めたほど、演じるキャラクターに意欲を持って挑んだ映画「彼女を信じないでください」は、“カン・ドンウォンがどこまで壊れるか”で関心を集めたし、明らかに彼の外見を崇拝するために作った映画「オオカミの誘惑」は“目に見えるカン・ドンウォン”の集大成として作られた作品だった。そのため、チョン・テソンが最後にどうなったかは覚えていなくても、傘の中に入り込んだカン・ドンウォンの微笑みだけは記憶に新しい。私たちはこれまで、一度もキャラクターの名前で彼を呼んだことがなかった。目に見えるものの中で最も鮮明に浮き彫りにされるのはカン・ドンウォンという彼自身の姿だったから。
そのため、カン・ドンウォンと映画「チョン・ウチ 時空道士」の出会いはお互いに賢い選択だった。注視せずにはいられない俳優と「有名な名前は隠そうとしても隠すことが出来ない」と言いながら自分の偉さを自慢する道士との出会いは、まるで天の定めた運命のように絶妙だ。結果的に妖怪を撃退したため英雄となったが、それが大義名分や人類愛に基づいた行動ではないため、どこか不良に見えるチョン・ウチだから、身体の大きさで相手を制圧する格闘家やシャープな印象で敵の弱点を把握する戦略家は似合わない。戦う瞬間も回りの観客を意識するような姿や、少し見えを張ったり突っ込む前に言葉で機先を制しようとする浅はかな考えが主人公の魅力として思えるのは、どうやっても悪者に見えないカン・ドンウォンのおかげである。考えてみれば、破壊的な道術でもないのに、十数人のチョン・ウチがコピーされ、都心に溢れるシーンがそれ自体で見どころになるのも、カン・ドンウォンがたくさん登場するシーンであるから可能なことなのである。
まさにそのシーンはカン・ドンウォンが持つ全ての顔を一度に見せようとするチェ・ドンフン監督の意図が表れたシーンでもある。チェ・ドンフン監督はカン・ドンウォンをキャスティングした理由に「彼には少し奇妙な雰囲気があるから」だと言った。つまり、それはまだカン・ドンウォンのイメージが正確に定められておらず、想像の余地があるということを意味する。「チェ・ドンフン監督が僕を作品に反映したという言うより、僕から引き出したい何かを作品に反映したと思う」という彼の推測は、結局、自分自身こそが欲しい材料だということを自分で認めていることになる。
運がいいと思えるかもしれないが、この全てのスケジュールを可能にした最も大きな理由は、やはりカン・ドンウォン自身である。「作品が終わったら、常に何を得たかを考えて、作品を始める時は目標を決めて進む」と話す彼は、自分の出演経歴に無駄なことは一つもなかったと信じている。「僕にとっては重要でも観客には重要ではないかもしれない」と自分の足りない部分を諦めて受け入れる態度を持つことすら、彼にとっては作品を通して得た教訓として残る。「ソン・ガンホ先輩が映画を引っ張っていき、僕は脇役だ」とこっそり言い逃れようとするが、カン・ドンウォンは「義兄弟~SECRET REUNION」でも何かを得たに違いない。
1つずつ望むものを手に入れた彼は、いつか7つのドラゴンボールを集めた主人公のように、自分が最も望む大きなビジョンを人々の前に広げて見せるだろう。そのため、彼が自分ならではのバランスを取って歩いていく過程を我々が待つことは全く退屈ではない。彼の座右の銘は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」という意味の、“知之者不如好之者、好之者不如樂之者”である。何かが出来ないことや負けることが嫌で、階段を一段ずつ上がっていくこの男は、勝つために楽しむ者になった。そして我々がやることも彼と同じだ。この男の誘惑をただ楽しめばいいのだ。
消そうとするほど鮮明になるカン・ドンウォンという存在感
俳優になると決心した以上、自分がどんな濃度で作品に染み込むか、本人が知らないわけがない。“ミスするのを嫌がる完璧主義者”であるカン・ドンウォンは、自分自身への実験を決心した。彼は、自分が持つ物を1つずつ消してみた。映画「デュエリスト」では言葉を失って絵になることを決めた。そして、それとは逆に声だけで出演し、目、鼻、口を観客が頭の中に想像で作り出すようにした映画「あいつの声」は、絵ではなく違う何かで存在するための試みであった。映画「私たちの幸せな時間」で死刑囚という極端な状況に自分を置いた彼は、映画「M(エム)」ではカン・ドンウォンという名前を自ら振り払うかのように、予想外の方向に走った。いつもより鈍く肉がついたアゴ、手入れを忘れたヘアスタイル、神経質で大げさな声は、人々の記憶からカン・ドンウォンの痕跡をたわしでゴシゴシと消しているように、見慣れず異質だった。そして、そういう努力が重なれば重なるほど、彼の存在はむしろ人々の頭の中にはっきりと浮き彫りになった。「ここに自分を隠そうとするカン・ドンウォンがいますよ」と。そのため、カン・ドンウォンと映画「チョン・ウチ 時空道士」の出会いはお互いに賢い選択だった。注視せずにはいられない俳優と「有名な名前は隠そうとしても隠すことが出来ない」と言いながら自分の偉さを自慢する道士との出会いは、まるで天の定めた運命のように絶妙だ。結果的に妖怪を撃退したため英雄となったが、それが大義名分や人類愛に基づいた行動ではないため、どこか不良に見えるチョン・ウチだから、身体の大きさで相手を制圧する格闘家やシャープな印象で敵の弱点を把握する戦略家は似合わない。戦う瞬間も回りの観客を意識するような姿や、少し見えを張ったり突っ込む前に言葉で機先を制しようとする浅はかな考えが主人公の魅力として思えるのは、どうやっても悪者に見えないカン・ドンウォンのおかげである。考えてみれば、破壊的な道術でもないのに、十数人のチョン・ウチがコピーされ、都心に溢れるシーンがそれ自体で見どころになるのも、カン・ドンウォンがたくさん登場するシーンであるから可能なことなのである。
まさにそのシーンはカン・ドンウォンが持つ全ての顔を一度に見せようとするチェ・ドンフン監督の意図が表れたシーンでもある。チェ・ドンフン監督はカン・ドンウォンをキャスティングした理由に「彼には少し奇妙な雰囲気があるから」だと言った。つまり、それはまだカン・ドンウォンのイメージが正確に定められておらず、想像の余地があるということを意味する。「チェ・ドンフン監督が僕を作品に反映したという言うより、僕から引き出したい何かを作品に反映したと思う」という彼の推測は、結局、自分自身こそが欲しい材料だということを自分で認めていることになる。
見守る楽しさだけが残った
どうしても目を離すことができない彼の雰囲気は、今まで確実にスパイスとして魅力的な材料だった。しかし、クリエーターたちは彼を、絶え間なく火の上に乗せて料理し続ける主材料にしたいという誘惑を感じている。そのおかげで、彼は「チョン・ウチ 時空道士」で活躍した後、ソン・ガンホとのアンサンブルを経験する「義兄弟~SECRET REUNION」を披露することができた。そして、いつかのインタビューで話した計画通り、軍隊に行く前にもう一作品を準備中である。運がいいと思えるかもしれないが、この全てのスケジュールを可能にした最も大きな理由は、やはりカン・ドンウォン自身である。「作品が終わったら、常に何を得たかを考えて、作品を始める時は目標を決めて進む」と話す彼は、自分の出演経歴に無駄なことは一つもなかったと信じている。「僕にとっては重要でも観客には重要ではないかもしれない」と自分の足りない部分を諦めて受け入れる態度を持つことすら、彼にとっては作品を通して得た教訓として残る。「ソン・ガンホ先輩が映画を引っ張っていき、僕は脇役だ」とこっそり言い逃れようとするが、カン・ドンウォンは「義兄弟~SECRET REUNION」でも何かを得たに違いない。
1つずつ望むものを手に入れた彼は、いつか7つのドラゴンボールを集めた主人公のように、自分が最も望む大きなビジョンを人々の前に広げて見せるだろう。そのため、彼が自分ならではのバランスを取って歩いていく過程を我々が待つことは全く退屈ではない。彼の座右の銘は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」という意味の、“知之者不如好之者、好之者不如樂之者”である。何かが出来ないことや負けることが嫌で、階段を一段ずつ上がっていくこの男は、勝つために楽しむ者になった。そして我々がやることも彼と同じだ。この男の誘惑をただ楽しめばいいのだ。
- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- ユン・ヒソン、編集 : イ・ジヘ、翻訳 : ナ・ウンジョン
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