【コラム】ハン・ゴウン&キム・オクビン、僕が一番好きな二人の女優 ― チャン・ウチョル
二人の名前を書き並べては、嬉しくて笑ってしまった。何より僕が一番好きな女優の名前だからだ。そして偶然にも新しくスタートするMBC月火ドラマ「火の女神ジョンイ」とKBS水木ドラマ「剣と花」にそれぞれ出演するという嬉しいニュースも聞いたところだ。
いつかキム・オクビンさんがピンク系のショートヘアスタイルだったとき、インタビューしたことがある。何らかの話の末に「ハン・ゴウンさん、好きですか」と突然尋ねたら、キム・オクビンさんは目を大きくして「ハン・ゴウンさんの声が特に好きだ」と答えた。好みというものは“ハン・ゴウンの声”だけで通じるものなのだろうか、その日キム・オクビンさんは“きゃはは”とずっと笑い、非常に楽しいインタビューをした覚えがある。
ハン・ゴウンさんもインタビューで会ったことがある。後輩エディターのインタビューについて行くという分別のない先輩になった理由は、その日ハン・ゴウンさんが“ミジャ”(「愛と野望」ハン・ゴウンが演じた役名)からちょうど抜け出そうとした日だったからだ。インタビューが終わってから言った最後の挨拶の言葉を覚えている。「今日私から何を聞きたいと思われたのか知りませんが、今日は本当に何か話しにくいですね」その言葉を聞きながらインタビューを再開しなければならないと思った。よりによってそんな日だった。
なぜこの二人の役者を“女優”として好きなのか、その理由を話すべきだと思う。少々荒い話になるだろうか?ハン・ゴウンとキム・オクビン。この二人の名前を思い浮かべると野生の機運が感じられる。手懐けられていない、主流の中心にいながらも典型的なものから妙にずれている、そのまま自らで勝ち抜くという意味とイメージを“野生”と表現したい。
よく「強い」という言葉を使うが、それはあまりにも目の粗いふるいのようで殆どのものは抜けてしまいそうだ。尋ねれば優しく答えてくれるだろうと思いながらも、決して決まった答えは出ないだろうと思われる。実は避雷針のように正確であるだろうという確信をどうやったら「強い」という言葉だけで表現できるのだろうか。そこにもう一つ加えれば、高慢で堂々とした性格と言えるだろう。辞書を見るとそれほど良い意味ではないが、ハン・ゴウンとキム・オクビンにはそういう傾向が非常に強くある。そして、それはただ女優だけから感じたい姿でもある。
ところで、“男性俳優”という言葉は不自然であまり使わないのに“女優”という言葉が使いたくなる理由は何だろうか?もちろん、“女優”という言葉についての考えや情緒、イメージは人によって多少違うだろうが、それが「ファムファタール(魔性の女)」であれ「清純可憐」であれ“俳優”という言葉では表現しきれず“女優”と呼ぶには、深みのある者だけが持っている熱気と尖ったものがあるからではないだろうか?例えば、女優は外見と年に敏感であるが、決して振り回されたりしない。そのためか、老化に関する質問に率直かつ素直に答えない俳優は“女優”と呼ぶことを迷ってしまう。まだ女優と呼べる資格がないからだ。
女優という言葉と共に改めて「愛と野望」のミジャ、それから「渇き」のテジュが思い浮かぶ。それと同時に肌で感じられるのは、彼女たちの心臓がどれだけ動揺したのかということだ。気持ち悪いほど生きていたし、生きている分だけ気持ち悪さを見せてくれた。あれほど泣いていたミジャは結局ラストシーンまで泣き続けた。テジュは初めて味わう食べ物のように舌をベロベロさせて世界を味わった。
一つの作品が残した残像が非常に強いということは、女優にどんな影響を与えるのだろうか。もちろん肯定的な部分と否定的な部分が沢山あるだろうが、少なくとも“女優”にはそのような真っ赤なキャラクターこそ原動力になるのではないかと思う。限界や束縛ではなく、女優というアイデンティティであり、存在感そのものであるだろうから。
さて、来週から新しいドラマが始まると、また色々な話が出てくるだろう。ところでドラマというものは、面白くないと言えば面白くないし、面白いと言えば面白いのではないだろうか?今までがそうだったように。
僕が二人の女優それぞれに伝えたいことは、女優が“女優”というアイデンティティをどのように運んでいくのかという致命的なワンシーンを目撃したいということだ。キム・オクビンさんの夜行性動物のような目つきであれ、ハン・ゴウンさんの濡れたクモの巣のような声であれ、演技としてそのようなことを期待してもいいのだろうか。ただ待つだけでいいのか?それならそうしよう。まずは、テレビの前で二人の女優を待ちながらワクワクしようか。
いつかキム・オクビンさんがピンク系のショートヘアスタイルだったとき、インタビューしたことがある。何らかの話の末に「ハン・ゴウンさん、好きですか」と突然尋ねたら、キム・オクビンさんは目を大きくして「ハン・ゴウンさんの声が特に好きだ」と答えた。好みというものは“ハン・ゴウンの声”だけで通じるものなのだろうか、その日キム・オクビンさんは“きゃはは”とずっと笑い、非常に楽しいインタビューをした覚えがある。
ハン・ゴウンさんもインタビューで会ったことがある。後輩エディターのインタビューについて行くという分別のない先輩になった理由は、その日ハン・ゴウンさんが“ミジャ”(「愛と野望」ハン・ゴウンが演じた役名)からちょうど抜け出そうとした日だったからだ。インタビューが終わってから言った最後の挨拶の言葉を覚えている。「今日私から何を聞きたいと思われたのか知りませんが、今日は本当に何か話しにくいですね」その言葉を聞きながらインタビューを再開しなければならないと思った。よりによってそんな日だった。
なぜこの二人の役者を“女優”として好きなのか、その理由を話すべきだと思う。少々荒い話になるだろうか?ハン・ゴウンとキム・オクビン。この二人の名前を思い浮かべると野生の機運が感じられる。手懐けられていない、主流の中心にいながらも典型的なものから妙にずれている、そのまま自らで勝ち抜くという意味とイメージを“野生”と表現したい。
よく「強い」という言葉を使うが、それはあまりにも目の粗いふるいのようで殆どのものは抜けてしまいそうだ。尋ねれば優しく答えてくれるだろうと思いながらも、決して決まった答えは出ないだろうと思われる。実は避雷針のように正確であるだろうという確信をどうやったら「強い」という言葉だけで表現できるのだろうか。そこにもう一つ加えれば、高慢で堂々とした性格と言えるだろう。辞書を見るとそれほど良い意味ではないが、ハン・ゴウンとキム・オクビンにはそういう傾向が非常に強くある。そして、それはただ女優だけから感じたい姿でもある。
ところで、“男性俳優”という言葉は不自然であまり使わないのに“女優”という言葉が使いたくなる理由は何だろうか?もちろん、“女優”という言葉についての考えや情緒、イメージは人によって多少違うだろうが、それが「ファムファタール(魔性の女)」であれ「清純可憐」であれ“俳優”という言葉では表現しきれず“女優”と呼ぶには、深みのある者だけが持っている熱気と尖ったものがあるからではないだろうか?例えば、女優は外見と年に敏感であるが、決して振り回されたりしない。そのためか、老化に関する質問に率直かつ素直に答えない俳優は“女優”と呼ぶことを迷ってしまう。まだ女優と呼べる資格がないからだ。
女優という言葉と共に改めて「愛と野望」のミジャ、それから「渇き」のテジュが思い浮かぶ。それと同時に肌で感じられるのは、彼女たちの心臓がどれだけ動揺したのかということだ。気持ち悪いほど生きていたし、生きている分だけ気持ち悪さを見せてくれた。あれほど泣いていたミジャは結局ラストシーンまで泣き続けた。テジュは初めて味わう食べ物のように舌をベロベロさせて世界を味わった。
一つの作品が残した残像が非常に強いということは、女優にどんな影響を与えるのだろうか。もちろん肯定的な部分と否定的な部分が沢山あるだろうが、少なくとも“女優”にはそのような真っ赤なキャラクターこそ原動力になるのではないかと思う。限界や束縛ではなく、女優というアイデンティティであり、存在感そのものであるだろうから。
さて、来週から新しいドラマが始まると、また色々な話が出てくるだろう。ところでドラマというものは、面白くないと言えば面白くないし、面白いと言えば面白いのではないだろうか?今までがそうだったように。
僕が二人の女優それぞれに伝えたいことは、女優が“女優”というアイデンティティをどのように運んでいくのかという致命的なワンシーンを目撃したいということだ。キム・オクビンさんの夜行性動物のような目つきであれ、ハン・ゴウンさんの濡れたクモの巣のような声であれ、演技としてそのようなことを期待してもいいのだろうか。ただ待つだけでいいのか?それならそうしよう。まずは、テレビの前で二人の女優を待ちながらワクワクしようか。
文:コラムニスト チャン・ウチョル
「NAVERコラム - チャン・ウチョル編 -」では、今話題の人物にクローズアップし、コラムニストのチャン・ウチョル氏が執筆。韓国で注目が集まっている人物や出来事についてお届けします。- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- チャン・ウチョル
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