【映画レビュー】「7番房の奇跡」&「サウスバウンド/南へ走れ」権力の悪用を暴く
※この記事には映画「7番房の奇跡」の結末に関する内容が含まれています。
だが、このような傾向は昨年の1年間に限らず、今年に入ってすでにいくつかの韓国映画にも現れている。まず「7番房の奇跡」から見てみよう。「7番房の奇跡」は観客を笑わせたり泣かせたりし、悲劇と喜劇の境界を崩す映画だ。だが、同映画は国家権力が個人的な復讐の道具に変質することを間接的に非難する映画でもある。
ヨング(リュ・スンリョン)が犯した犯罪は、韓国社会の闇、例えば羅州(ナジュ)小学生への性犯罪やナヨン事件のような子供を対象にした深刻な性犯罪と密接な関係がある。実は、ヨングは幼い女子学生を殺したわけではない。血を流して倒れた子供を救うため人工呼吸をするが、それによって子供をレイプした殺人犯にされてしまう。罪のない人間が、誤解を受けてレイプ殺人犯になったのだ。
ヨングが子供をレイプして殺していないことを証明するため、刑務所長と7番部屋の囚人が意気投合するが、ヨングの無罪釈放を妨害するのは“個人的な復讐”だ。7番部屋の同僚囚人が教えてくれた通りヨングが陳述すればそれでよかったはずだが、それを妨害する人は他でもない警察庁長官だ。死んだ子供が一般人ではなく、警察庁長官の娘だったためだ。
この映画で、ヨングへの警察庁長官からの暴力がこのシーンだけに限らないことに注目する必要がある。映画の序盤に戻ってヨングの娘、イェスンが店に並べられているセーラームーンのカバンを欲しがるシーンを考えてみよう。そのセーラームーンのカバンを誰かが買おうとするところを見たヨングが、「娘が欲しがっているものだから買わないでほしい」と頼んだ時、暴力を振るった人は警察庁長官だ。
「7番房の奇跡」で、ヨングに持続的に暴力を振るう人は刑務所の中の犯罪者ではなく、警察庁長官だ。法律を先に守らなければならない人である警察庁長官が、話が通じないとして、あるいは娘が殺されたことへの個人的な復讐でヨングに持続的に暴力を振るうことは、国家権力を守るべき公人が個人的な怒りで一般人に物理的暴力を振るうことを意味する。
映画の中で警察庁長官は、物理的な暴力の行使に止まらず、自身の地位を悪用し個人的にも復讐する。「7番房の奇跡」は、国家権力を一番先に守るべき人間が、自身の地位を悪用し国家権力を悪用することを明確に見せる映画だ。
来月公開予定の「サウスバウンド/南へ走れ」は、日本の作家、奥田英朗の小説を原作とする作品だ。主人公のチェ・へガプ(キム・ユンソク)は、無政府主義者に近い人物だ。国民年金の納付に大きな拒否感を持ち、電気料金の納付項目にテレビ受信料が含まれていることを見てテレビを投げ捨てる人がチェ・ヘガプだ。彼は、個人に対し義務を強要する国家の要求に極度の嫌悪感を抱く人物だ。
このようなチェ・ヘガプが、自らの家族をつれてたどり着いたところは、彼のふるさとの島である。チェ・ヘガプはそこで釣りをし、農業をしながら都市生活で経験した国家権力とある程度距離を置くために努力する。だが、この島は彼が希望した安息の地ではなかった。ある国会議員が開発至上主義を掲げ、島を開発する利権を狙っているためだ。開発のことでチェ・ヘガプが暮らす家は撤去される危機にさらされる。
国会議員の個人的な欲は、開発至上主義につながり、う名分の下で起きチェ・ヘガプの家は強制撤去される危機に直面する。このような状況は、開発至上主義といた龍山(ヨンサン)事件を思い起こす。
また、「7番房の奇跡」で、国家権力が個人的な復讐の手段として悪用されたことと同様に、「サウスバウンド/南へ走れ」は開発至上主義という名分で、権力が個人の基盤をいかに踏みにじるのかを描いた映画だ。チェ・ヘガプは、国家権力からの干渉が嫌で故郷に帰って来たが、故郷には個人の欲が開発という名分で働き、個人の人生を無力化する暴力が存在する。
このような観点から見れば、公開したばかりの「7番房の奇跡」とまもなく公開する「サウスバウンド/南へ走れ」は、権力が一人の復讐や私欲によって悪用されることを警告する作品だ。国家権力を私物化することがあってはならないが、もしそのようになった場合、それがどういうふうに悪用されるのかを2週間の間をおいて公開されるこの二つの映画は警告している。
写真=(株)ファインワークス、(株)CLエンターテインメント
一人の復讐心や私欲による権力の悪用を告発
昨年注目された韓国映画は、「10人の泥棒たち」のような大作映画ばかりではない。「折れた矢」または「南営洞1985」のように韓国の権力メカニズムがどのように働くのかについての考察、または政治権力のファシズムに関する憂慮を描いた映画は、評論家だけでなく、一般の人からも高い関心を得た。だが、このような傾向は昨年の1年間に限らず、今年に入ってすでにいくつかの韓国映画にも現れている。まず「7番房の奇跡」から見てみよう。「7番房の奇跡」は観客を笑わせたり泣かせたりし、悲劇と喜劇の境界を崩す映画だ。だが、同映画は国家権力が個人的な復讐の道具に変質することを間接的に非難する映画でもある。
ヨング(リュ・スンリョン)が犯した犯罪は、韓国社会の闇、例えば羅州(ナジュ)小学生への性犯罪やナヨン事件のような子供を対象にした深刻な性犯罪と密接な関係がある。実は、ヨングは幼い女子学生を殺したわけではない。血を流して倒れた子供を救うため人工呼吸をするが、それによって子供をレイプした殺人犯にされてしまう。罪のない人間が、誤解を受けてレイプ殺人犯になったのだ。
ヨングが子供をレイプして殺していないことを証明するため、刑務所長と7番部屋の囚人が意気投合するが、ヨングの無罪釈放を妨害するのは“個人的な復讐”だ。7番部屋の同僚囚人が教えてくれた通りヨングが陳述すればそれでよかったはずだが、それを妨害する人は他でもない警察庁長官だ。死んだ子供が一般人ではなく、警察庁長官の娘だったためだ。
写真=(株)ファインワークス、(株)CLエンターテインメント
警察庁長官は警察が黙認している中、ヨングを部屋に閉じ込め頬を殴る。真犯人でもないヨングを、娘を殺した殺人犯だと思いこみ、この殺人犯に対する処罰を法律に任さず、頬を殴るという物理的暴力で個人的に報復を行う。この映画で、ヨングへの警察庁長官からの暴力がこのシーンだけに限らないことに注目する必要がある。映画の序盤に戻ってヨングの娘、イェスンが店に並べられているセーラームーンのカバンを欲しがるシーンを考えてみよう。そのセーラームーンのカバンを誰かが買おうとするところを見たヨングが、「娘が欲しがっているものだから買わないでほしい」と頼んだ時、暴力を振るった人は警察庁長官だ。
「7番房の奇跡」で、ヨングに持続的に暴力を振るう人は刑務所の中の犯罪者ではなく、警察庁長官だ。法律を先に守らなければならない人である警察庁長官が、話が通じないとして、あるいは娘が殺されたことへの個人的な復讐でヨングに持続的に暴力を振るうことは、国家権力を守るべき公人が個人的な怒りで一般人に物理的暴力を振るうことを意味する。
映画の中で警察庁長官は、物理的な暴力の行使に止まらず、自身の地位を悪用し個人的にも復讐する。「7番房の奇跡」は、国家権力を一番先に守るべき人間が、自身の地位を悪用し国家権力を悪用することを明確に見せる映画だ。
来月公開予定の「サウスバウンド/南へ走れ」は、日本の作家、奥田英朗の小説を原作とする作品だ。主人公のチェ・へガプ(キム・ユンソク)は、無政府主義者に近い人物だ。国民年金の納付に大きな拒否感を持ち、電気料金の納付項目にテレビ受信料が含まれていることを見てテレビを投げ捨てる人がチェ・ヘガプだ。彼は、個人に対し義務を強要する国家の要求に極度の嫌悪感を抱く人物だ。
このようなチェ・ヘガプが、自らの家族をつれてたどり着いたところは、彼のふるさとの島である。チェ・ヘガプはそこで釣りをし、農業をしながら都市生活で経験した国家権力とある程度距離を置くために努力する。だが、この島は彼が希望した安息の地ではなかった。ある国会議員が開発至上主義を掲げ、島を開発する利権を狙っているためだ。開発のことでチェ・ヘガプが暮らす家は撤去される危機にさらされる。
国会議員の個人的な欲は、開発至上主義につながり、う名分の下で起きチェ・ヘガプの家は強制撤去される危機に直面する。このような状況は、開発至上主義といた龍山(ヨンサン)事件を思い起こす。
また、「7番房の奇跡」で、国家権力が個人的な復讐の手段として悪用されたことと同様に、「サウスバウンド/南へ走れ」は開発至上主義という名分で、権力が個人の基盤をいかに踏みにじるのかを描いた映画だ。チェ・ヘガプは、国家権力からの干渉が嫌で故郷に帰って来たが、故郷には個人の欲が開発という名分で働き、個人の人生を無力化する暴力が存在する。
このような観点から見れば、公開したばかりの「7番房の奇跡」とまもなく公開する「サウスバウンド/南へ走れ」は、権力が一人の復讐や私欲によって悪用されることを警告する作品だ。国家権力を私物化することがあってはならないが、もしそのようになった場合、それがどういうふうに悪用されるのかを2週間の間をおいて公開されるこの二つの映画は警告している。
- 元記事配信日時 :
- 記者 :
- パク・ジョンファン
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